カザフスタンに馴染みのある人は、多くないと思う。小生も、旧ソ連の宇宙ロケット発射場のバイコヌールがある国、としか知らなかった。中央アジア旅行のゲートウェイで立ち寄らなければ、無縁のままだっただろう。

我々は韓国のエアラインで、ソウルからアルマテイに入った。このルートには歴史的因縁がある。第二次大戦時、国防上の理由から(対日戦に備え)、旧ソ連の東沿岸部に住む朝鮮系の人たちが、内陸部のカザフスタンに強制移住させられたと言う。確かに町を歩くと、ロシア系やトルコ系に混じって、朝鮮系の顔立ちが多く見られる。

地図を見ると、カザフスタンは結構大きな国だ。面積は世界の9番目で、日本の7倍。人口16百万は、大国と言えないまでも、中堅クラスである。エネルギー資源や鉱物資源にも恵まれ、旧ソ連圏では、中核的な国の一つだった。その旧政権は、1991年以降も現在まで(2009年)倒れることなく、同じ人物が大統領の座にあるという。

とは言え、経済システムは急変したに違いない。我々が訪れたのは1999年夏だが、コーラ、ハンバーガー、フライドチキンの進出は言うに及ばず、小生がテキサスでお世話になった地方銀行まで、アルマテイに支店を出していたのには、本当に驚いた。深謀遠慮・即断実行の米国資本、たてまえと実利の両刀を使いわける政治家、その両者のしたたかさを嘆じる他ない。

カザフ地図
アルマトイ (アルマアタ)

ソウルから6時間、アルマトイには夜半過ぎに着き、税関の混雑を出てホテルに入ったのは明け方近かった。仮眠する間もなく、外が明るくなった。ベランダに出ると、目の前に金ピカの正教会の尖塔があった。半世紀余の宗教否定の時代を超えて復活した宗教の底力を感じた。

アルマトイは、古くはシルクロードのオアシスだった。ロシア帝国の統治時代に大きな砦が築かれ、革命後もこの地域の中心都市として発展が続き、カザフスタンの人口の8割が集中する巨大都市になった。アルマトイは「りんごの里」を意味する由だが、大都市共通の悩み、スモッグの影響を逃れることは出来ない。

1997年、首都機能は北部のアスタナに移転した。アルマトイは地理的に中国やイスラム圏に近い。あるいは今回も、「国防上」の理由があったのかもしれない。

アラタウ山脈とゼンコフ正教会(ホテルからの眺め)
ゼンコフ正教会の正面
正教会前のバンフィロフ戦士公園。モスク防衛にあたった戦没者モニュメントと永遠の炎がある。
市庁舎前に並ぶ英雄の胸像。
保育園児の列は多民族国家を象徴する。
重厚な公共の建物は花壇で飾られている。
中央博物館。有名な出土品の「黄金人間」は新首都のアスタナに持って行かれた。
市場

市場に行くと、人々の生活が見える。旅に出ると可能な限り、早朝の市場を見物することにしている。アルマトイの中央市場は、中心部の一区画を占めている。大きな建物ごとに、肉、野菜、衣類などに売り場が分かれ、品揃えは実質本位だが、物資量は十分と見受けられた。場外にも露店が並び、なかなかの繁盛であった。

肉屋。
乾燥果物の店
砂糖菓子に蜂が寄る
場外でも商売
楽器店もある
アルマトイの市内

①ロープウェイでコクトベの展望台へ。市街が一望できる。 ②③日本では姿を消したトロリーバス。無公害だが集電ポールの故障が泣き所。 ④アメリカ流の巨大ホテルもどんどん建っていた。 ⑤市内の共同墓地の一画に日本人抑留者の墓地がある。手入れはされているものの、やはり寂しい。隣接するドイツ人抑留者の墓地も同様だった。

アラタウ山脈とゼンコフ正教会(ホテルからの眺め)
ゼンコフ正教会の正面
正教会前のバンフィロフ戦士公園。モスク防衛にあたった戦没者モニュメントと永遠の炎がある。
市庁舎前に並ぶ英雄の胸像。
保育園児の列は多民族国家を象徴する。
メテウ渓谷 ディナー・シアター

郊外のメテウ渓谷には、ソ連時代に建設された大規模な娯楽やスポーツの施設がある。その一画のテント劇団風ディナー・シアターで、カザフ料理を食べながら、民族音楽と踊りを楽しんだ。民族歌舞団のメンバーは、多民族国家カザフスタンそのものだった。