前号をお読み下さった数名から「危ないところに行ったもんだな」という感想をいただいたが、小生が見た限りでは、パキスタンの人々の日常は平穏だった。欧米先進国でもテロ事件はしばしば起きているし、日本だって市民の生命を脅かす理不尽な事件は少なくない。「危ない」とはどんな状況を言うのか、この際整理しておきたい。

外務省は「海外安全ホームページ」で、「政情不安、暴動、内戦、テロ、一般犯罪、自然災害といった、多岐にわたりかつ危険の度合いも様々な要因」に基づき、4レベルの危険情報を発している(1:十分注意、2:不要不急の渡航はやめて、3:渡航中止勧告、4:退避勧告)。これによれば、現在のパキスタンは「危険レベル2」で、西部のアフガニスタン・タジキスタンとの国境地帯と北部のインドとの臨時境界線の周辺に限って「レベル4」になっている。我々は「レベル4」のすぐ近くを通ったので、「危ないところに行った」と言われても弁解はできない。

パキスタン全土のレベル2は、隣国アフガニスタンのアルカイダ勢力による示威目的の自爆テロに巻き込まれたり、身代金目的の誘拐に遭うリスクを指すのだろう。身代金目的の誘拐事件が身近に起きたことがある。1999年にキルギスを旅行中、タジキスタン国境に近い山中で、日本から出張中の鉱山技術者4名がテロリストに拘束された。事件をニュースで知った家族は心配したらしいが、事件現場は我々の居場所から200km以上離れ、危険が及ぶ可能性ナシと判断して予定どおり旅を続けた。こうした事件が起きると、政府関係者は犯人側との裏交渉に奔走させられる他、野次馬的メデイアとの対応も仕事に加わる。外務省のホームページには、「面倒を起こしてくれるなよ」という関係者の心情が滲み出ているような気もする。

レベル4のアフガニスタン国境地帯は、ハイバル峠など古代からギリシャやオリエント世界との接点で、歴史的に様々な民族が入り乱れた地域である。パキスタン政府はこの地域を「部族領域」に指定して中央政府の直接統治から外し、実質的に民族組織タリバンの「自治」に委ねているらしい。ある意味で無法地帯だが、地域内に住む部族は夫々昔からの掟に従ってそれなりに穏やかに暮らしてきたという。レベル4の状態が生じたのは1973年にアフガニスタンのクーデターに旧ソ連が介入して以降で、89年にソ連軍が撤退するとアフガニスタンは内戦状態になり、米国の圧力でスーダンを追放されたビン・ラディンがアルカイダを率いてアフガニスタンに入り、国際テロの拠点にした。米国は2001年9月の同時多発テロの首謀者をラディンと名指しして、アフガニスタンに派兵してアルカイダ殲滅作戦を展開したが、2011年にラディンの殺害に成功して以降も事態を収束できていない。アフガニスタンとパキスタン西部の住民の多くは同じ民族(イラン系のパシュトゥン人)で、国境は無きに等しい状態と想像する。

話は変わるが、米国は1945年に太平洋戦争で日本を完膚なきまで叩きのめして以来、戦争に勝ったことがない。世界最強の軍事力を維持しながら、朝鮮半島、ベトナム、イラク戦争で勝利できず、今もアフガニスタンとシリアで泥沼にはまったままである。大国同士ガチンコの大戦では、核を1発撃てば瞬時に敵の核が雨あられと降ってくる。核兵器は敵が持っているから持っているだけで、実際は使えない「危険な飾りもの」と軍事大国も分かっている。その大国が地域紛争に介入したがるのは、軍隊の存在意義を国内外に示したいからだろうが、大国が軍事的に勝利して平和がもたらされた例を思い当たらない。圧倒的な武力で叩けば叩くほど敵は先鋭化し、テロが予測不能に拡散するだけなのだ。つまり強大な軍事力は「大戦」でも「地域紛争」でも役に立たないのである。仮想敵との対抗というだけの理由で膨大な資源とオカネを費し、その武力は途上国の破壊と若者の殺戮に使われているのが現実である。その資源とオカネで紛争地の若者に職を与えれば、テロリストにならずに済む若者がどれほど多いことか。

話はまた変わるが、先日明治維新150年の「式典」が行われた。戊辰戦争で「賊軍」の汚名を負わされた会津が今もって長州を許さないという新聞記を読み、知人の会津人が同じことを言っていたのを思い出した。不当な屈辱を受けた恨みは容易に消えるものでない。無条件降伏した日本が征服者に殆ど抵抗しなかったのは、勝者が敗者の価値観に踏み込まず、生活物資の援助等で「良き保護者」を演じたこともあるが、敗戦国民は直前までの統治者(政府・軍部)の方がよほど「不当」だったと実感し、「敗けてよかった」感情が屈辱感を圧倒したからではないだろうか(沖縄は別として)。

太平洋戦争以降敗け続けの米国は、今や臆面もなく「アメリカ・ファースト」を振りかざすばかりである。その国が「同盟国」のために本気で戦争してくれるとはとても思えない。「同盟国」が米国のために兵を動かすことは、共に泥沼にはまってテロリストの標的になるか、敗戦のお供をさせられることを意味する。我々にとってこれ以上の危険はないのではないか。パキスタンの旅を思い出し、非武装中立への道を思う昨今である。


イスラマバード → チラズ

イスラマからフンザまで約600km、東京~青森とほぼ同じ距離である。途中のギルギットまで国内便はあるが、飛ぶか飛ばぬか天候次第で、途中で1泊してバスで行く方が確実という。我々のツアーはパキスタン各地でボランテイア活動中の日本人シニアと日本からの便乗組の計13名で、出発前日の夕方にイスラマに集合(小生は2日前)、朝6時にマイクロバスで出発した。旅のアレンジは現地の旅行会社で、社長夫人の日本人女性が万事とり仕切り、日本語が巧みなフンザ出身の男性ガイドが同行する。

1日目は北部の玄関口チラーズまで14時間のドライブ。イスラマ市街を出て前日に仏跡を訪れたタキシラを過ぎ、カラコルム・ハイウェイを北に走る。道路は舗装されているが、街道すじの村々では人や荷車をかき分けて進み、険岨な山道に入ると物資満載のトラックや人間満載のバスが頻繁に行き交い、強引な追越しや割込み御免の神業運転をたっぷり味わう。事故は滅多にないというが、年に何台かインダス川に転落する由で、その程度はパキスタンでは「滅多にない」範疇に入るらしい。どうでもよい些細なことまで「全国ニュース」になる日本の方が異常かもしれないが。

街道筋には約20km間隔で村があり、道路と市場が混然となる。 
肉屋も露店。
おもちゃ屋も露店。
かぼちゃ屋も。
トマト屋は移動ショップ。
ロバの宅配便。
棚田風景。
橋は少なく、川向うへは心細い人力ゴンドラが交通手段。 
チベットの聖山カイラスを源に5千㎞を流れるインダス川。この辺りは驚くほど流れが早い。
地震復興で日本のJICAが病院再建に協力したというPRの看板。
夕立ちの土砂崩れで道路が一時不通になり、バスの周りに村の子供たちが集まって来た。 村人の出動で土砂が少しどけられると、我々のバスは残土の山に突っ込んだ。車内に悲鳴が上がったが、ガツンと乗り越え、何事もなかったように走り去った。
岩に描かれた仏画。玄奘三蔵もこの辺りを通ったという。
山道に入ると警護のパトカーが先導。
日没直前に世界9位のナンガ・パルバット(8125m)が現れた。

チラス → カリマバード

2日目はフンザの中心地カリマバードまで半日の旅。山道に入って標高が上がると、まとわりついていた熱風が爽やかな高原の風に変わり、別天地のフンザに来たことを肌で感ずる。人里を離れると、軽機銃で武装した警察の車両が我々のバスの先導に付いた。日本が様々な援助を行っていることもあって、パキスタン政府は日本に好意的と言われ、今回の日本人ボランテイアのフンザ旅行にも、精一杯の警護をしてくれているのだろう。

宿泊地のチラズは長距離トラックの休憩地。怖そうな運転手は実はやさしいオジサンだった。 
岩壁の仏画。
インダスの急流に吊り橋。
ヒマラヤ、ラコルム、ヒンズークシュの三大山脈のジャンクション・ポイント。
警護のトラック。
ナンガ・パルバット(8125m)の展望ポイント。1953年初登頂までに多くの遭難者を出したことから、「人喰い山」と呼ばれる。
ラカポシ(7788m)に接近。南側から見ると特異なピークが聳える。
ラカポシを眼前に望むレストランで昼食。山頂まで高度差6000mの絶景を眺めながら、フンザのランチとサクランボを楽しむ。
ラカポシの氷河がすぐそこに迫る。
フンザの里が見えた。背後はウルタル峰(7388m)。
カリマバードに入る。この地方のイスラム教徒は戒律が緩やかなイスマイル派で、女性の服装も開放的。
カリマバードの集落が坂に張り付いている。
丘上のバルチット城は1974年までフンザ王の居城だった。

標高7788mのラカポシの裾を巡り、フンザの中心地カリマバード(標高2400m)の盆地に入る。山岳写真は高峰が見える場所まで行くのが大変で、長いトレッキングで高山病にかかったりするが、フンザでは人々が住む里から労せずして名峰を眺められる。里から山頂までの標高差は約5千m。上高地(標高1500m)から穂高岳(3190m)に比べれば、この迫力はやはりスゴイ。

カリマバードのホテルはハイウェイから少し上の斜面にあって、鋭角的なラカポシ(7788m)と、北杜夫が「白きたおやかな峰」と命名したディラン(7267m)のたおやかな姿を正面に望む。40室ほどの立派なホテルだが、客は我々の他に1組だけで、テロ騒ぎで客足が遠のいているのが気の毒。山岳写真は太陽の角度が低い朝夕の時間帯がチャンスで、露出が長くなるので三脚を立てる。立てたり仕舞ったりが面倒だが、ここではホテルの前庭に立てっぱなしにして、酒を飲んだり食事をしながら撮れるのは嬉しい。

城の案内人の見事な髭面。バックはラカポシ(7796m)。

ホテルの前庭に三脚を立てて日没を待つ。
北杜夫が「白きたおやかな峰」と名付けたディラン峰(7267m)。
ゴールデンピーク’(7027m)の正式名はスパンテイーク。
雲湧くラカポシ(7796m)
ラカポシの日没。
月明かりのラカポシ。
薄明(早朝)のラカポシとデイラン。


カリマバード → クンジュラブ峠 往復

ツアーの目玉は中国との国境クンジュラブ峠の訪問。峠の標高には異なった数字があるが、ここでは4780mとする(何れにせよ当時の小生の最高到達点)。クンジュラブ峠には個人的にちょっとした思い入れがある。2000年8月に中国側(カシュガル)からカラコルム・ハイウェイを南に走り、峠から120㎞手前のカラクリ湖(標高3800m)を訪れた(当ホームページ中国・新疆ウィグル自治区その2)。玄奘三蔵がインドからの帰途、豪族からお土産にもらた象に逃げられたと伝えられるタシュクルガンも近かったが、カシュガルからの日帰りでは時間的にムリで、当時は富士山より高い標高もムリと思っていた。

カリマバードからクンジュラブ峠まで4時間のドライブ。ハイウェイ沿いの集落をいくつか通り過ぎ、標高2800mを超えると人家がなくなる。路傍の管理小屋で1人4ドル相当の国立公園入園料を払って進み、4000mを超えて路傍に雪が見え、更に高度を上げて台地に出ると、そこがクンジュラブ峠である。

峠には標識が立っているだけで、入国審査の役人も警備の兵士の姿もなく拍子抜けする。この高度の酸素は平地の半分で、バスを降りると足もとがフラつく。低酸素障害を避けるため峠の滞在は20分に留め、そそくさと麓に戻った。

カラコルム・ハイウェイらしい風景になってきた。

ウルタル峰の氷河がハイウェイに迫る。

強風が谷間を吹きわたり砂塵が地を這う。
小さな宿場町のパス―。
ケシの種類と思われる。
峠越えトラックの検問。パキスタンのトラックはどれも満艦飾。
草の乏しい高地でも羊を放牧。
落石注意と言われても… どうしようもない。
国立公園の管理事務所で入園料を徴収。
標高4千mを超えると、渓流が氷に変わる。
峠手前の行先表示。英語、ウルドウ語(パキスタン語)とロシア語。なぜか中国語がない。
峠のサイン。
中国側の風景。
ここが国境線と思われる。
中国側の監視所に人の気配はない。
峠のマーモットはこっちを向いてくれない。
帰途、フンザ最初の宿場町スストの茶店で小休止。
天候が回復、カラコルムらしい風景になった。
カリマバードの里が近い。