トップページ 目次アジア →トルコ
トルコ 旅をした時   1996年7月
アップした時  2009/5/5

アラコキ(古来稀なる齢近く)になって、少年時代を悔やんでいる。歴史の学習を忌避したことだ。今も年代や人名を見ると拒絶反応が起こり、歴史が頭の中を流れない。旅先で歴史遺産を見ても、「へえー」と思うだけで、ずっと後になって、「そうだったのか、もっと真剣に見ておけばよかった」、と反省する。トルコの旅には、その思いが特に強い。

トルコは東西の接点と言われるが、東西が融和する場ではなく、交錯し衝突する場であり続けた。今は、イスラム国家には異例の経済近代化が進行中と言われるが、2013年に予定のEU加盟を巡って、新たなスタイルの東西せめぎ合いの場になりそうな気もする。

宗教音痴の小生には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、旧約聖書から生まれた三兄弟のように見えるが、共に天を戴かぬ兄弟たちの、抗争の激しさと根の深さは、理解を超える。次男のキリスト教と三男のイスラム教は、生まれた時こそ権力者の弾圧をうけたものの、その効力を知った権力者に取り込まれ、キリストやマホメットの教えとは無関係に、民を戦争に駆り立てる触媒として使われた。長男のユダヤ教も、家なしでいじめられっ子だったが、イスラエルという国を得たとたん、いじめっ子に立場を変えたようだ。

宗教戦争が、実は権力者の覇権争いだったことは、歴史音痴の小生でも知っている。 八百万の神々から、仏様、キリスト様まで、狭い家に詰め込んでもケンカの起きない日本でも、時の権力者が宗教を触媒に使った歴史がなかったわけではない。歴史音痴が見る限り、権力者が宗教を利用して民を幸せにした例はなく、権力者がハッピーエンドだった例も思い当たらない。

トルコ地図

イスタンブール

イスタンブ-ル市街をアジアとヨーロッパに二分するボスポラス海峡は、黒海から地中海に注ぐ大河のように見える。その東岸のアジア側が「ウスクダラ」地区である。子供の頃に聞いた江利チエミの「ウスクダラ、はるばるたずねてみたら、、」が、今も耳に残る。男がどんな風に可哀そうか、この目で見たかったが、せわしい旅程で望みがかなわなかった。

西岸のヨーロッパ側は、東ローマの帝都だったコンスタンチノープルの時代と、オスマントルコの帝都としてのイスタンブールという、二重の重い歴史を体現している。中でも「アヤソフィア」が異彩を放つ。辺りを威圧する分厚い血色の壁と巨大なドームも壮観だが、アヤソフィアがたどった経歴も数奇である。

アヤソフィアは神の叡智を意味し、その来歴は、東方正教の総本山として建てられた4世紀に始まる。そのキリスト教の大聖堂が、1453年のオスマントルコによる征服後、巨大モスクに変身したのである。イスラムは、外部に4本のミナレット(尖塔)を立て、内部のキリスト教にかかわる聖像、絵画の全てを漆喰で塗り込めて覆い隠した。現在は漆喰の一部が剥がされ、東方正教時代の聖画が現れているが、この状態は大聖堂でもモスクでもあり得ず、博物館扱いになっている。

漆喰で塗り込められても神様は神様、しかもイスラムにとって不倶戴天の敵神である。「化けて出る?」などと考えるのは、日本人の俗習的宗教観かもしれないが、原理原則に煩いイスラムにしては、随分お手軽なやり方のようにも思える。もっとも、地下貯水池の基礎工事に、ローマ時代の石柱や彫刻が無造作に転用されたのを見ると、イスラムは意外に実用本位の考え方をするのかもしれないが。

トプカプ宮殿からボスポラス海峡 アジア側のウスクダラからヨーロッパ側に朝の通勤 新市街のドルマバフチェ宮殿。共和制移行後は大統領官邸に使われた。 1467年にアフメット二世が築いたトプカプ宮殿。金銀財宝が目を奪う。 財宝の中には伊万里焼も
スルタン・アフメット・ジャミー。青タイルから通称ブルー・モスクと呼ばれる。 アヤソフィア。イスラム時代に塗られた漆喰を剥がすと、キリスト教時代の聖像が現れる。 地下貯水槽のローマ時代の石柱 波止場近くの市場 別にアヤシイ所ではありません

カッパドキア地方

旅行前の予備知識は、キノコ形の奇岩風景だけだったが、行ってみると、この地方は「隠れキリシタンの里」だった。オスマントルコの弾圧から逃れたキリスト教徒が隠れ住み、信仰を貫いたのである。政治的弾圧を受けた人たちの逃避行を、「地下に潜る」と表現するが、ここでは、文字通り地下都市を作って生活したのだ。

アナトリア地方は火山灰の堆積で出来た高地で、掘削が容易ということもあるだろうが、1万人規模の地下都市がいくつもあったという。最深部は地下100mに及び、最近の東京の地下鉄よりも深い。内部は広々と作られ、圧迫感や穴倉生活の陰惨さはないが、太陽光なしでは暮らせない我々は、三日と我慢ができそうもない。

火山灰を降らせたエルジェス山(3916m)とキノコ岩 ギョレメの洞窟教会。崖を掘って作られたが、風雨に削られ、露出・崩壊している。見事なフレスコ画だが、目玉を削り取られた聖像は痛々しい。 カイマクルの地下都市の石の門。 オルタヒサールの住居跡

エフェス (エフェソス)

エフェス(古代名はエフェソス)の歴史は神話時代まで遡る。その後、アレキザンダー大王やプトレマイオス朝支配の時代を経て、ローマ帝国時代に最も栄えた。現在,見る遺跡の殆どが、その時代のものという。それでも、日本はまだ弥生時代である。小生がこの種の遺跡を見たのはエフェスが初めてだったが、2000年前と聞いた時のショックを、今も憶えている。

こういうものに接すると、「外国スゴイ、日本ダメ」と、つい思ってしまう。そういう劣等感をバネにした人もいたし、逆に「日本もスゴイぞ」と虚勢を張った人たちもいた。だが、あのローマ帝国でさえ、「遺跡」になったのである。「文明」は、様々な条件によって、その場所に生まれ、そして滅びた。偶々そこに居合わせた民族の「優劣」と思い込む誤りを、人間は幾度も繰り返して来たようだ。小生は、2年間バヌアツに暮らして、そのことが得心できたような気がしている。

セルチュク市街と遺跡 聖母マリアが晩年をすごした家 (証拠があるらしい) 2万5千収容の大劇場。ステージの声が隅々にまで響く。 クレステ通り 大理石通り ハドリアヌス神殿
建物(神殿?)、彫刻の数々 セルシウス図書館 米国に今もこんな公衆トイレあり。 「男子専用娯楽場はこちら」

イズミール

イズミールはエーゲ海に面した古い港町で、歴史は紀元前9世紀のイオニア人移住に遡る。旅の中継地として泊っただけだったが、早朝の散歩に、アレクザンダー大王のシリア戦の拠点だった、カディフェ・カレの城跡まで、足を伸ばしてみた。

城跡のある丘から、イズミール市街が一望出来る。目につくのは、住宅地のあちこちに立つミナレット(尖塔)である。人口の99.8%がイスラム教徒(CIAのデータ)というから、モスクが多いのは当然だろうが、それにしても、各町内に一つありそうだ。

だが、拙宅周辺の社寺を数えてみたら、半径2kmの中に、寺が3つ、神社が2つあった。上記と同じCIAのデータによれば、日本国民の83.9%が神道、71.4%が仏教徒と記されている(日本人の場合は複数宗教の信者でありうる、との注釈付き)。日本人の宗教心は、近代化と共に形骸化したが、トルコのEU加盟が、彼等の宗教心にどのような影響を与えるか、興味が湧く。

朝のラッシュ

猫にも風格

中心部のバスマネ駅。 朝の通勤列車が発着。

ロバ隊の宅配便? 出会った少年 (合成) カディフェ・カレ城跡から。ミナレットがたくさん見える。

トップの目次へ  アジアの目次へ