バヌアツで先ず始まったのは現地語「ビスラマ語」の研修です。英語くずれの単語が多いとは言え、文法や表現法は独特で、還暦を過ぎて耳も頭も遠くなった者が、外国語を30時間の研修でモノに出来る筈もありませんが、語学は「習うより慣れ」とばかり、首都から60km離れた現地人ばかりの村に置いてきぼりにされました。以下は「初老ウルルン滞在記」です。

首都ポートビラのあるエファテ島は佐渡島くらいの大きさの島です。エパウ村はポートビラの反対側にある人口400人ほどの集落で、バヌアツの村部の中では比較的拓けた村のようです。日本のJICAだけでなく、米国の平和部隊(Peace Corps)が訓練基地に使ったり、オーストラリアや中国がさまざまな援助をしている集落でもあります。しかし小生が見た限りでは、村民は純朴さを失っておらず、チーフの采配のもとで平和に暮らしているように見えました。

小生は、旅行者として開発途上国を訪れたことはありますが、現地の人たちと生活を共にした経験はありませんでした。日本での生活の便宜性や衛生レベルに比較すればその違いは大きく、潔癖症の人には耐えられそうもないところもありますが、人間が本来持っている生物としての強さに信頼を置いた生き方、と考えるのが適切かもしれません。一旦モダンな生活に慣れた人に、このような生活に戻ることを求めても意味がありませんが、このような生活は惨めだ、という考え方は間違えているように思います。

バヌアツは幸いなことに今のところ食料は十分にあるので、餓死の心配はありません。国を豊かにして、国民全体の生活レベルを向上させることは国の為政者の責務であり、その為に小生のような者にも出番が与えられているのですが、先進国のような工業化社会を追い求めることが、生き物としての人間にとって本当に幸せなのかどうか、短期間にせよ、この村の人たちと生活を共にしてみて、考え込んだ三日間でした。

エパウ村には今年春まで日本の青年協力隊員のJ君が住み込み、村興しに汗を流した。

村の看板もJ君の作品。左の竹のベンチで、村人達はいつ来るか分からないバスを待つ。

ホストファミリー、アダさんの家。右の母屋がアダさん夫妻の住居と食堂。左のグレイの壁の小屋がゲストハウス。

住民は土間にヤシの葉を編んだ敷物を敷いて寝るが、ゲストハウスはベッド付き(スプリングが壊れていて小生は腰痛を起こして土間に寝たが、その方が気持ち良かった)。

アダさんの家は米国の平和部隊も訓練基地に使い、彼等は1ヶ月滞在して現地語と現地流生活を身につけ、更に奥地の集落に赴任するという。

バヌアツ料理「ラプラプ」(Laplap)作り。ココナツを割ってクリームを取り出す。

人間、ニワトリ、ネコ、イヌ、コブタは全て平等に生活(親ブタだけは囲いに入れられている)。

アダさんのキッチン。電気もガスも無く、地面でタキギを燃やして煮炊きする。

暗くなるとランプを点けるが、我々の目では暗くて何も見えず、ヤミ鍋料理のようにも思われる。

アダさんの孫、7歳のクマ君。まき割り以外にもいろいろな家事を担当。

小生はビスラマ語以外ご法度の禁を破ってクマ君とこっそり英語で会話、未熟なビスラマ語会話のイライラから一瞬開放された。(この村でも小学校の勉強は全て英語で行われている)。

クマ君のお父さんは村のパン屋さん。庭の一隅の窯で夕方からフランスパンを焼く。

1回に10本、1日40本の限定生産で、焼きあがる端から村人が買いに来て、夜8時までに全部売り切れる。小生もごちそうになったが、深みのある味で逸品(フランスの伝統で、どこでもパンが美味い)。

バヌアツのオバサン達はみな陽気で生命力に溢れている。

村の生活では男女の役割は分かれているようだが、女性は男の三倍は働いているように見える。

村の作物は60Km離れた首都ポートビラの公設市場に運ばれ、村から商品と共に出かけるオバサン達が直販する(中間流通業者は存在しない)。

市場は全般に供給過剰でたいした収入にはならない。売れ残りはトラックで村に持ち帰るのがルールだが、途中で捨てられることが多いらしい。

村の学校は1年生から6年生まで3つの教室で授業を受ける。授業時間は7時半から3時までで、午前と午後の2部授業。

半分は教室からはみ出し、屋外で「体育の時間」と「掃除の時間」のになる。

2泊3日を過ごしたホストファミリー。

左から婿さん(パン屋さん)、小生を拾いに来たJICA職員、小生、アダさん、娘さん、奥さん(クマ君は学校)