バヌアツには、厳密な意味での「植民地」として支配された時代がない。冒険的な白人が渡来して略奪的な交易を行ったり、勝手に入植した白人が農場を作ったりしたが、天然資源がなく、原始的な小集落が点在するだけのこの群島は、本国に組み入れて経済支配するだけの魅力には欠けていた、というのが正直なところだろう。しかし、19世紀末に列強間の覇権競争が激化するにつれ、イヤイヤながらも支配権を主張せざるをえない状況が生じたようである。

ニューカレドニアは良質のニッケル鉱石を産する。フランスは1853年にこの島を領土とし、隣のバヌアツにも多数のフランス人が流入した。その一人、アイルランド生まれのフランス人、ジョン・ヒギンソンは遣り手で、強引な土地買占めを進めたため、英国側も対抗上、土地収用を強化した。20世紀に入り、ドイツがこの地域への進出を画策したため、仏・英両国は既得権益を守る目的で、1906年に共同統治の協定を作成した。しかし、この協定が正式に批准されたのは1922年で、余程イヤイヤながらだったことが窺われる。

この共同統治時代は「コンドミニアム」と呼ばれるが、「同居の時代」と訳すと理解しやすいかもしれない。当時の現地人達は、フランス大統領と英国メリー女王が結婚したので、一緒にやることになったのだろう、と誤解していたようである。しかし、この「同居」は同床異夢で、夫々の入植者達が勝手に役所を作ったり現地人を取り締まったりしたらしい。現在も「元英国刑務所」と「元フランス刑務所」が残っているが、フランス刑務所は夕食にワインが出るので、どうせならばフランス人に捕まろう、というような冗談めいた話もある。しかし、本国から役人もろくに送り込まず、入植者は相変わらず略奪的交易や農場経営にいそしむばかりで、法律もなし、現地人の教育や医療などには全く目もくれず、「統治」とも呼べないような、実になげやりな態度だったらしい。そんな状態が1980年の独立まで続いていたようである。

当時の白人入植者数は、フランス人2千名、英国人1千名と伝えられている。現在、首都のあるエファテ島では英国系の影響が優勢だが、離島では、今もフランス語の方が通ずる集落が多い。特に第二の都市であるルーガンビルは、旧フランス系の拠点として、英国主導の独立には最後まで抵抗し、激しい暴動も起きた。現在も、事ある度に首都の中央政府と対立している。ちなみに、一昨年秋、単身台湾に乗り込み、勝手に承認声明を出した前首相のボホール氏は、サント島の出身だった。

英国は余程バヌアツに魅力を感じなかったらしく、遂に昨年大使館を閉鎖してしまった。その尻はオーストラリアが引き取ったかたちだが、彼等も、パプアニューギニアやソロモンなど、火の手の上がっている地域の対応に追われ、バヌアツには本腰とは見えない。その隙を狙って、というわけではないだろうが、フランスが貿易振興の音頭を取ったり文化活動に力を入れたりしており、今も何かにつけて、英国勢とフランス勢のさや当ては続いているのである。

コンドミニアム時代の名残は今もあちこちに見られる。写真左の「ウィンストン・チャーチル通り」は、独立広場前の大通りに、写真右の「ドゴール将軍通り」はダウンタウンから首相官邸のある山の手に向かう道路に付けられたものである。