バヌアツに最初の足跡を印した西洋人は、ポルトガルの航海家ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスと言われている。彼はスペインの船団を率い、1606年4月にサント島北部に上陸した。彼自身は幻のオーストラリア大陸を発見したと信じていたようだが、それはともかく、初上陸から400年目の今年4月、キロスの末裔にあたるEUと、サント州政府共同による記念行事が計画されている。

次の来訪者が160年後の18世紀半ばとなったのは、この地域がヨーロッパから最も遠く、且つ経済的な魅力に欠けていたためと思われる。1768年にフランス人ルイ・アントワン・ドゥ・ルーガンヴィルが北部の島々を訪れ、続いて1774年にイギリス人のクック船長が殆どの島々に足跡を残した。1980年の独立までの国名ニュー・へブリデスや、タンナ、エロマンゴ、アンブリムなどの島名も、クック船長の命名によるものある。

バヌアツに「お金」の匂いが漂い始めたのは、1825年、アイルランド人貿易商、ピーター・ディロンがエロマンゴ島で白檀(Sandalwood)を発見したのに始まる。この高価な香木を求めて白人が殺到し、数年の内に周辺の島々まで採り尽くした。1854年に牧畜業が興り、更に当時米国の南北戦争で高騰した綿花栽培に目をつけたオーストラリア人の本格的な入植が進んだ。戦争の終結と共に綿花は暴落して衰退、その後はヤシ油の採取やココア栽培に転じたが、これらは現在に至るまで当国の輸出産品の中心となっている。

キリスト教宣教師が最初に渡来したのは1839年である。当初は原住民に捕らえられて食べられてしまった宣教師もあったようで、先陣としてポリネシア系の宣教師が送り込まれたとも言われる。プロテスタントの長老派(Presbyterian)は原住民の伝統文化を厳しく禁じたが、彼等に続いて入ってきた英国国教会やカトリックは伝統文化には比較的寛容であった。

1863年頃から悪名高いBlack Birdingが始まる。これはフィジー島やオーストラリアのサトウキビ栽培、ニューカレドニアのニッケル採掘の労働力としてバヌアツ人を狩り出したもので、3ヶ月程度の季節労働と偽って連れ出し、実際には数年間にわたって重労働を課したり、労働対価としてガラクタを与えるようなインチキが横行した。帰国させる時も適当な島に上陸させて放置するというような行為もあったようだ。Black Birding が法的に禁止されたのは1901年のことである。

この間、ヨーロッパから持ち込まれた疫病が免疫力のない島民を襲った。19世紀初頭に100万を超えていたと推定される人口を100年足らずの間にわずか4万にまで激減させてしまったのである。この疫病にはコレラ、麻疹、天然痘、猩紅熱などが含まれるが、梅毒もそのひとつであったらしい。現代のHIV同様の猛威というのに意外感もあるが、何れにしても「文明」の裏側にある「業」を思わざるをえない。

1853年にニューカレドニアがフランス領となり、バヌアツにもフランス人の入植者が急増したが、英国はバヌアツに対してそれ程強い関心を示さなかった。>しかし、1882年にアイルランド生まれのフランス人、ジョン・ヒギンソンが土地管理会社を設立して原住民からの土地の買い上げを進め、10年後にはバヌアツの利用可能な土地の55%を獲得した為、仏・英間の勢力争いが表面化した。20世紀に入り、ドイツがこの地域への進出を画策し始めたのに対抗し、仏・英両国は既得権益維持のための共同統治に合意し、1906年にその協定が成立した。当時はフランス人2,000人、英国人1,000人が入植していたといわれている。しかし、共同統治協定が批准されたのは1922年のことで、1980年の独立までこの奇妙な統治形態が続けられた。「コンドミニアム」と呼ばれた共同統治時代については、また別の機会にご紹介したい。