米軍の駐留でバヌアツはブームに湧いたが、1945年夏の終戦と同時に、米軍は売れるものは売り、売れないものは破壊・投棄して、一兵も残さずに撤退した。町々はゴーストタウンと化し、英・仏相乗りのコンドミニアムも以前の投げやりな統治に戻り、アメリカ流の物質的な豊かさや合理性、人権意識に触れた原住民も、南太平洋のゆったりとした原始の時間の流れの中へと回帰していった。

戦後間もなく周辺の国々が次々に独立してゆく中で、バヌアツに独立の気運が起きたのは、60年台も後半になってからである。契機は土地所有権を巡る入植者と原住民の争いであった。集落内で十分な食糧が採集できる原住民たちにとって、周辺の密林や原野は特に価値があるわけではない。彼等の無知に乗じて、白人達はタダ同然で土地を手に入れることが出来たのである。

白人入植者による土地所有は、終戦時点で既に30%に達していた。その殆どはヤシのプランテーションであったが、彼等は牛肉増産用の放牧場の拡大を目指して更に原野の開墾を強行し、原住民の集落を立ち退かせようとさえした。ここで初めて、伝統的な土地所有権を主張する原住民との利害衝突が表面化したのである。

サント島東部の酋長Bulukは、白人の土地侵略に対抗して独自の開墾を始めた。この酋長の下で、Jimmy Stephens が原住民の土地所有権を主張する政治運動を起こし、Nagreamel と名付けられた活動は、60年代の後半にサント島から他の島々へと拡大して行った。Stephens は1971年に国連に対して早期独立の働きかけを進めたが、同年に英国国教会牧師のWalter Liniが率いるNew Hebrides National Party(現Vanua’aku)が設立されたため、英国はこの動きを支持して早期独立を進める側に立った。口の悪い人は「英国は早いところ厄介払いをしたかったのだ」とも言う。

一方のフランスは、これに対抗するかたちで Nagreamel を後押しし、今度は一転して早期独立に反対する立場に回った。フランス側の意図は、独立が不可避となった場合でも各島に強い自治権を残し、フランスの影響力を維持・強化しようとしたものと言われている。最終的には両国共に独立を認めることになり、1979年に第一回選挙が行われ、その結果 Vanua’aku 党が勝利し、初代首相に Walter Liniが選ばれた。サント島やタンナ島では根強い抵抗運動が続いたが、Nagreamelの勢力が弱まるにつれて、フランスも表面上は反対運動から手を引き、1980年7月30日に独立が宣言された。

(右写真は牧師から初代首相となった Walter Lini が伝統重視をアピールするポーズ。)

独立後もサント島やタンナ島などでは不穏な状況が続き、国連軍の派遣も要請されたが、フランスの反対で実現しなかった。この間、両島ではフランスの影の後押によって分離独立の宣言が発せられ、更に北部の離島をも勢力下に巻き込む危険な状況となったが、新政府は英国系のパプア・ニューギニアに軍隊の派遣を要請し、Nagreamel の Stephens逮捕を含む反政府勢力の制圧に成功した。

バヌアツは、南太平洋諸国の中では政情が比較的安定していると言われているものの、部族間の対抗意識を背景に秘めた小党乱立の不安定な連合政権の下で、一発触発の危険性が完全に消え去ったわけではない。1998年にはVNPF (Vanuatu National Providence Fund 国民年金)の流用問題を端に発生した反政府活動で、500名の逮捕者が出た。今も国会開催毎に定例行事化した内閣不信任の投票時になると、同僚達が職場でラジオの国会中継に聞き耳を立てたり、支持者の一群を満載したトラックが熱狂的な叫びを上げながら町中を走りまわるような、意外に政治好きな顔を見せることがある。そのような時は、我々日本人ボランテイアは念のため外出自粛である。