米軍がポートビラ郊外のメレ海岸に上陸したのは、開戦から4ヶ月後の昭和17年3月である。オーストラリア、ニュージーランドまで窺いかねない日本軍を、バヌアツ(当時はニューヘブリデス)で食い止める作戦であった。既に日本軍がバヌアツに到達していることも予想していたようだが、この頃の日本軍はまだガダルカナル島にも至っておらず、バヌアツには無敵・無血の上陸だった。

上陸地点は、今はバヌアツで唯一の18ホールのゴルフ場になっている。衛星写真でも分かるように、大海に向けて開けっ広げの地形で、景観は素晴らしいが、防衛には不向きである。上陸した部隊は直ちに基地の建設にとりかかり、メレ湾の東側に現在も国際空港として使われている飛行場を建設する一方、北側の峻険な山地と密林を切り開いて、20km北ののハバナ湾までの軍用道路を建設した。

ハバナ湾は本島とモソ島、ペレ島に囲まれ、三本の狭い水路から湾内に入る地形は、防潜網の設置も容易で、海軍基地として理想的である。原始的小集落にすぎなかったハバナに、大規模な司令部や修理・補給のための施設、病院などが建設された。これらの工事には、大量に持ち込まれた建設重機が駆使された他、バヌアツ各地から数千名の原住民が徴用され、工事開始から2ヶ月で基地のかたちが出来上がったという。

メレ湾に上陸する米軍 ハバナへの道路建設
クレムヒルからメレ湾。左上の海岸が上陸地点。中央の直線は軍用道路で、手前突き当たりから急傾斜で一気に丘を登る。画面右上のハイダウェイ島は、現在はダイビングやシュノーケリングの名所になっている。 米軍が作った飛行場は、日本軍機11機を撃墜して戦死したBauer海兵隊中尉を記念し、バウワー飛行場と名付けられた。
 
同飛行場は現在もバウワーフィールド国際空港として使われている。待合室に中尉の肖像が掲げられているが、戦中派の小生は見るたびに複雑な心境になる。  

米軍は当初エファテ島で日本軍を待ち受けるつもりだったが、戦況はガダルカナルで膠着した。エファテ島からガダルカナルまでは1000km以上の距離があり、当時の航空機の性能では戦闘が制約される。このため、米軍は戦闘部隊を北400kmのサント島に移し、エファテ島は後方支援の位置づけに変わった。しかし、レーダー網の整備等、物資力に物を言わせた拡充作戦が終戦まで続けられた。現在、ポートビラ市内には「Nambatu」、「Nanbatri」という地名があるが、これは米軍の電探第二大隊、第三大隊の呼称の名残りである。

ちなみに、往年の名作ミュージカル「南太平洋」は、バヌアツ駐留の米軍をモデルにしたもので、実際に当時の米軍は、映画のとおりに物資豊かでリラックスした雰囲気だったらしい。2万人の餓死者で自滅した側からは、想像もできない話である。

日本軍は、ガダルカナル以降、北への「転進」続きとなったが、米軍は45年8月までバヌアツの基地を維持した。終戦と共に直ちに撤兵し、設備や機材は現地に放棄された。60年後の現在、ハバナの集落では、残骸を売る現地人の露店や、海岸に散乱するコーラ瓶の破片にその名残を見ることが出来るが、その他は殆どが自然に覆われている。本年9月のツアーに参加される皆さんは、当時の軍用道路をバスでハバナ近くまで行き、コングーラ号でハバナ湾内を航行する筈だが、戦争の痕跡を感ずることはないだろう。 


凱旋する米軍

ハバナ湾に投棄された戦車
海水面の上昇で半分水没している

米軍の残骸を並べて売るハバナの路傍みやげ物屋。米国各地の工場名の入ったコカコーラの壜のコレクションが自慢。

横道にそれるが、バヌアツの出版事情にふれなければならない。人口20万、識字率6割のこの国には新刊書のマーケットが無い。在留白人向けの月遅れ雑誌やペーパーバックが、文具店の一隅に申しわけ程度に並んでいる程度である。そんな中にバヌアツで出版された小冊子が紛れ込んでいることがあり、小生は目につく度に買うようにしている。その一冊に、94年刊行の「バヌアツ人の第二次大戦の記憶」がある。著者はバヌアツで教師をしたニュージーランド人夫妻で、現地の高校生達が祖父母から聞き出した話をまとめたものである。白人と言えばケチでグータラな入植者しか知らなかった現地人の目に、突然降って湧いた米軍どのように写ったか、興味深い証言を見ることが出来る。(帰国後に和訳を本ホームページに掲載

当時のバヌアツ人は、米軍が持ち込んだ近代的物資の圧倒的物量や、気前の良い払いっぷり、物のくれっぷりにも驚いたが、何よりも、黒人が白人と対等な口をきいたり、白人と同じ仕事を担っていることに、大きな驚きを持ったようだ。当時の米軍では、黒人兵は差別下にいた筈だが、白人にはひたすら隷従するものと教えられていたバヌアツ人から見れば、一種のカルチャーショックだったことは想像に難くない。戦争につきものの乱暴・狼藉事件の証言もあるが、全般には米人の紳士的対応を懐かしがる証言が目立つ。

それが刺激となって人権運動が起きるでもなく、一世代後の70年代後半になって、ようやく遅まきながらの独立運動が起きたところにも、豊かな自然に抱かれて純朴一筋のバヌアツ人の生き方が見えるような気もするのである。

(モノクロ写真はMedia Master's刊 「Instant Vanuatu」から転載。カラー写真は、以前本サイトで掲載したものを再利用しています。)