1994年4月9日(土曜日)、マロ島のアブナタリを訪れ、ヘンリー・アンドリュー、マタ・タビチ牧師、バヌア・バニの各氏から以下の話を聞いた。

ヘンリー・アンドリュー氏は1929年5月29日生まれで、アブナタリの学校教師を退職していた。彼は、休暇で村を訪ねたアメリカ人兵士に、君は何歳かと聞かれて、11歳と答えたのを憶えていた。マタ・タビチ牧師は、1989から1993年にかけて、オネスア高校の牧師を務めていた。バヌア・バニ氏は、バヌアツ機動隊の責任者として、サント・カタリナ号の墜落現場の復旧作業を担当し、その任務を成功裏に完遂した経歴を持つ。


米国の軍艦タッカー号の沈没事故

ある日、ヘンリーが他の者たちと一緒にアブナタリで魚釣りをしていると、一隻の軍艦が貨物船を従えて通過して行った。二隻の船がサントに向けてマロ島の角を通過した時、少年たちはダイナマイトが爆発したような破裂音を聞いた。少年の1人は、それが船の到着を祝う号砲だと思った。皆で見に行くと、貨物船が後ずさりし、軍艦が真中で折れて急速に沈みかけていた。軍艦は間もなく見えなくなって、海上に水兵たちの頭がゴミのように浮かび、それは水に漂うヤシの実のようにも見えた。泳いでいる水兵たちに向けて飛行機がゴムボートを投下したが、多くの水兵が溺死してマロ島に流れ着いた。生存者が救命ボートで海岸に上陸すると、皆で食糧や飲み物を与えた。


測量士の話

マタ・タビチ氏の亡父のタビチ・アウル氏は、若い頃にアブナタリの伝道所にいた。その頃、アメリカ人が宣教師にコンタクトし、若い男たちを出してくれるようにと頼んできた。

彼はサント島南部の測量隊に入った。彼の仕事の一つに、測量の旗を立てることがあった。ある時、旗を降ろそうとして塔に登っていると、アメリカの黒人兵が来て、彼に向けて銃を構えた。旗に悪さをしようとしているように見えたからだ。彼は大声でやめるように言い、身分証明書を出して示し、事なきを得た。

アロレとマロの間に乾ドックがあった。たくさんの軍艦がドックに入って、日本軍との戦闘で破損した個所の修理をした。大きな穴のあいた船もたくさんあった。

アメリカ軍はマロ・ピークに監視塔を立て、そこに可動式の高射砲を据えた。日本軍の飛行機がサント島に爆弾を落としたのは一度だけで、その飛行機のパイロットは女性だった。マロ・ピークの高射砲がその飛行機を撃ち落とした。

(タッカー号は駆逐艦だった。リース・デイコン氏によれば、アメリカ軍がその前日にセゴンド水道に機雷を敷設したが、その事をタッカー号に知らせていなかった。)

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マロ島と周辺の地図

マロ島は米軍主要基地のあったサント島の南で、海軍の停泊地となったセゴンド水道に面している。

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当時の日本軍に女性飛行士はいなかった筈。美少年の飛行士が女性と誤認されたものと思われる(訳者)。