ハーパー・リニ氏の記憶

以下は、1994年3月18日、ペンテコスト島北部のアブレブレで、ハーバー・リニ氏(1910年4月16日生まれ)が語ったものである。収録にあたり、ご子息のハム・リニ氏に協力いただいた。


1942年3月、アメリカ人がビラとサントを訪れ、コンドミニアム政府に、島の若い者を募集するよう求めた。船がこの島まで来て我々を乗せた。1隻はビル・マルスリオという人の持ち船、もう1隻はベリルという人の持ち船の「ビコ号」だった。志願者は50名いた。ラブワルから来た男たちの中に、行きたがらない者がいたが、船の者に鞭で打たれ、最終的に行くことになった。戦時に働くのだから戦闘もあるだろうし、死者が出ることもわかっていた。ペンテコストから出た第一陣は300人で、サントで3カ月働いた。第二陣には、ペンテコストから100人しか出なかった。最初のグループから20名の死者が出たが、彼等は食いすぎて腹をこわして死んだのだ。それ以降行きたがらない者が増えたが、第二陣の死者は2名だけだった。

我々は一人ずつ、仕事の内容を示す札を与えられた。私には海兵隊の札が来た。賃金は極めて安かった。私はペンテコストの者をまとめる立場だったので、1ヶ月に6ポンドもらったが、他の者は3ポンドだけだった。アメリカ人の指揮官はホワイト隊長で、我々に、4ヶ月の間、ソロモン島での戦闘を支援するのだ、と言った。私は食事が気に入っていたので、空腹になることはなかった。1週間に7日働き、日曜日の教会の礼拝もなかった。ヤシの葉を使って、スルンダ湾に兵員用の小屋を建てた。暫くしてプレハブの兵舎が到着し、その組み立ても我々が行い、多数の兵士を収容するのに十分な施設が出来上がった。

兵舎が完成すると、アメリカ軍は大量の物資を、船からトラックで運んだ。我々はトラックから荷降ろしをさせられた。昼夜ぶっ通しで働き、倉庫が食料でいっぱいになった。ペンテコストの若者たちは、朝4時から夜12時まで働いた。アメリカ人が船や飛行機で続々と到着し、スルンダ、マテブル、サントは米軍兵士であふれた。

アンバエ島から来た連中が大量の食糧を盗み、それを島に送ったのがバレて、政府はアンバエまで行って取り戻した。我々の上司だったアメリカ人のサムエル氏は、我々に靴や被服を供与した。それを見たアンバエの連中が、どこで手に入れたのか聞きに来た。わけを知ると、自分たちにもくれるように頼んでくれないかと、私に言ってきた。アメリカ人はあまり乗り気でなかった。というのも、アンバエの連中の中に、信用ならぬ者がいると思っていたからだ。連中が店に行き、靴を試着するふりをして、テーブルの上にあったコインを盗んだことがあった。私がアメリカ人に、アンバエの連中に話をしてやろうかと申し出たが、よその村の男たちを扱うのはお前の仕事でないと言われたので、私には出る幕がなかった。

ある晩、我々が仕事をしていると、日本軍の爆弾が森に落ちた。近くで寝ていた仲間が負傷したのではないかと思ったが、爆弾は逸れてくれた。他の爆弾がパリクロの近くの海に落ちた。

捕虜になった日本人がいた。アメリカ人は、日本人がソロモン諸島で捕虜をどう扱うのかを知って、敵の捕虜も同様に扱うことにした。一人の兵士が、どうやって日本兵の喉をかき切るか、ジェスチャーで説明してくれた。

暫くして、プレジデント・クーリッジ号が、機雷に触れる事故が起きた。輸送していた多数の兵士の殆どは無事だったが、陸軍の隊長が1名、技官が2名亡くなった。ソロモンの戦闘で破損し、修理に戻って来た船も見た。一隻はブリッジが破壊されていた。船は乾ドッグに入れられた。乾ドックは3基あり、1基はアエセ島、2基がカナルにあった。

飛行機がたくさんあった。双発、四発だけでなく、六発の巨大な飛行機もあった。我々はそれを見に行ったことがある。翼に弾痕の穴があいていた。

アメリカ人は、燃料用の軽油をドラム缶で貯蔵していた。それをベトナム人の女が、少しばかり、灯火用に失敬しようとしたことがあった。軽油を警備していたクローデイアという大柄の黒人が、ベトナム人の女を追いかけると、女は逃げた。パラムのベトナム人が、自転車に乗って調べに来た。彼は、クローデイアが女にスケベな要求をしたのではないかと考え、ベトナム語で問いただした。クローデイアはこれを理解できず、男が自転車をこいで行こうとするところを蹴り倒したので、男は転落した。クローデイアは、男の顎にパンチを食らわせて手を怪我したので、石を拾って男を打った。男は死んでしまった。

我々がサントにいた頃、アメリカの軍艦がペンテコストに来たことがあった。たまたまロノロレで農場を営んでいたロニ・タヴェレルというフランス人の農場から、ベトナム人が逃亡した。彼が政府に電話をかけたところ、役人は「日本人」と聞きちがえ、アメリカ軍に軍艦を出させて、探させようとした。アメリカ軍は、現地の役所にいたオベ・ニコソーに会い、日本人はどこにいるのかと尋ねたが、一人もいないと言われた。現地の者は全員が森に逃げ込んだ。私の母親は、まだ赤ん坊だったウォルターを、ガジュマルの木の下に隠した。ウォルターが泣き出したので、母親は赤ん坊の口を覆い、声を出させないようにした。

ペンテコスト島と周辺の地図

ハーパー・リニ氏
同氏の子息二人がバヌアツ首相になった。

ウォルター・リニ:初代首相
(1980~1990)

独立当時の状況は「大戦から独立へ」の記事あり。

ハム・リニ:第7代首相(2004~2008)

 

ペンテコスト島民とアンバエ島民の間に伝統的な対抗意識があるといわれる。それがここにも現れていると思われる。

クーリッジ号の事故については「はじめに」の「戦争の日々」でふれた。

ベトナム人:
原文では「トンキン人」。フランス人入植者が労働力として連れて来た人たち。

 


ペンテコスト島での出来事

1994年3月19日、ハーパー・リニ氏の二度目の話を、同氏のアブレブレの自宅で収録した。この時も、ご子息のハム・リニ氏が支援してくれた。


クリスマスの日、白人のニューマン氏が来て、兵士たちが、ペンテコストの伝統ダンスを見たがっていると言った。兵士たちは2隻の小舟でやってきた。 アメリカ人達は、生きた豚が欲しいといった。それで、レオナルド・テヴィ・ヌンブ・ラヴォア酋長が、豚を1匹提供すると、アメリカ人はそれを殺して、船に持ち帰った。

彼等は3人の女たちのダンスを見た。アメリカ人は、女たちを欲しがった。牧師が彼らに、教会の外に出て、聖体拝領の儀式が終わるまで待つようにと言った。その間に女たちは逃げた。アメリカ人が女たちはどこに行ったのかと聞くと、女たちは怖がって逃げたと言われた。アメリカ人は、決していやらしいことはしないので、戻って踊ってくれるようにと、酋長に頼んだ。酋長が女たちに戻って来るように言い、みんなで踊って共に楽しい時を過ごした。(この話は、ハーパー・リニ氏が英語で語ってくれた。)

次のクリスマスの時、アメリカ人は3隻の船で来たが、1隻は大きな船だった。村人は、海岸からナザレスの先のアタトア村まで、道を作った。ぬかるみがひどかったので、道に石を敷き詰めた。ハーパーは、息子のウォルターが、キャラコの布を体に巻きつけて歩いていたのを覚えている。

セント・ジョンの教会に、ファガンさんという、オーストラリア人の女性宣教師がいた。戦争が終わった時、アメリカ人がお祝いに飛行機で飛んできた。あれは1945年10月18日の、聖ルカの祝日だった。アメリカ人は、曲芸飛行をしたり銃を撃ったりした。彼等は、道路工事に使う鍬、シャベル、ツルハシなどを、お土産に持ってきてくれた。空から紙片を落とし、それには、村人が要るものがあったら、何でも持ってきてやろうと書いてあった。欲しいものを海岸の砂に書けば、それを持ってきてやろうというのだ。ファガンさんは、英語でメッセージを書いた。

飛行機が一機飛んできて、飛行士は、ファガンさんが書いたものを読もうとして旋回したが、サンゴ礁の先に墜落してしまった。村人は、別の飛行士が来て、村人を咎めて襲撃するのではないかと思って逃げた。水面に拡散した油で、墜落した飛行機は見えなくなっていた。

しばらくして、若い者たちが、墜落した飛行機の残骸のところに行き、飛行士の遺体を収容しようとした。レオナルド・レオが深く潜り、飛行士のベルトに錨を引っ掛け、皆で船に引き揚げた。彼の顔面は血だらけだった。その飛行士はニュージーランド人で、ファガンさんがそのことをサントに連絡した。後日、教会で告別式が行われた。

この墜落事故について、コニエル・シバが歌を作った。


後日の調査によると、飛行士は、タラナキのイングルウッド出身のイーデン・A.J. バトラー飛行軍曹で、事故があったのは、1944年11月18日だった。終戦より前だったが、その頃までに、ニューヘブリデス地域での戦闘は、事実上終わっていた。ニュージーランドの飛行部隊は、前線に向かう為の航法訓練や編隊訓練で、パリクロの飛行場を使っていた。彼等は、宣教所のために、海岸に新聞を投下することを許可されていて、ファガンさんが砂に書いた事がニュースになった。バトラー軍曹は、新聞を投下する際、水面に接近しすぎた。彼は、コルセア機(機体番号NZ5387)の姿勢を回復させようとしたが、失速して機体が裏返しになり、海に墜落した。

バトラー軍曹の上官であったウィリモフ飛行隊長は、軍曹の父親のルイス・バトラー氏に宛てた手紙に、「紳士であり、優れたスポーツマンであり、有能で自発的に任務を遂行する飛行士として、当飛行隊にその名を残した」と記した。バトラー軍曹は、ニューカレドニアのブーレーにある、ニュージーランド軍人墓地に眠っている。(飛行士の特定にあたり、エーワン W.スチーブンソン氏の協力を得た。)

参考: 当ホームページでレポートしたペンテコスト島関連の記事:

ペンテコスト島の民話

ペンテコスト裸まつり(バンジージャンプの元祖)

ランドダイブ再訪

セント・ジョン教会

レオ氏肖像

コルセア機:
日本のゼロ戦に対抗する戦闘機として配備されたF4Uと思われる。

1944年11月当時、戦場は既にサイパンまで 北上していたが、南太平洋が依然として後方基地として使われていたことがわかる。


飛行機が墜ちた

俺たちが アジェレナの教会に集まった時
俺はラオナイまで 歩いて行くことにしたよ
東の方から あんたが来るのが聞こえたよ
俺は音のする方を 振り向いたよ
次に何が起きるのか 知らずにね

コーラス
身を切られる思いだったよ ふるえて身がちぢんだよ
だいじょうぶなんだと 思い込もうとしたけれどね

ラマランガまで 歩いてゆくと
あんたが 火だるまになったのが見えたよ
赤いタマヌの木の その上空でね

セント・ジョンの 教会の前まで歩いてゆくと
あんたが雲の中から 落ちてくるのが見えたよ
まるで 矢が海に突き刺さるようにね

アブレブレまで 歩いてゆくと
男も女も あんたのうわさをしていたよ
別にたいしたことは ないだろうってね
あんたが大変なことに なっているのも知らずにね

ブワビサまで 歩いてゆくと
男の子が「いいきみだ」って言っていたよ
ジョージ5世が あんたの戦死をたたえて
ニュージーランドの空の王者に叙すとも 知らずにね

ブワビサから 帰るとき
マロン・シヴィに向かって 泳いだよ
だけど、ああ、なんにも見えなかった
海一面に 油がひろがっていたからね

船の錨がとどいたところまで 潜ってみると
海の底にあんたがいたよ、ああ、なんてこった

あんたのご両親やご家族は どうなさっているだろうね
遠くから飛んできて ひどい目に遭ってしまった
あんたの あの事故の現場さえ 見なければ 

双子岩のところまで 戻ってみると
静かな海に ブイが浮いていたよ
マエオの島から流れついた 流木かと思ったよ

突然 あんたの身に起きたことは
悪い夢だと 思ったよ
ここから飛んで出る道は ふたつしかないよ
バタバガ岩の横か ナゴイ岩のわきを通るんだよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから飛んで出る道:
ペンテコスト島北端の海岸に立つ2本の大きな岩の名前。天に昇る霊魂の通り道として伝えられているのかもしれない。


ハーパー・リニ氏の戦時の記憶 ‐ 続き 

ペンテコスト島の女性で、サント島に行った者は誰もいなかったが、アンバエ島の女たちは、随分たくさん行った。あるアンバエの女は、ゴードンという白人と駆け落ちした。アンバエの者が探しに行き、女はスルンダの夫のもとに戻ることになったが、今度は黒人のアメリカ人が銃を持ち出して、その女をよこせと迫った。夫は、女が自分のものだと言い張ったが、アメリカ人は夫に銃を向けて、こう脅した。「お前の妻を渡さなければ、お前は死ぬことになるぞ!」

ある日、ハーパー・リニが午後4時頃に仕事を終えると、アメリカ人が来て、野菜を採っている女たちをよこせと言った。ハーパーは、自分はペンテコストの者なので、何とも致しかねると答えた。彼はしばしばこんな要求を受けたが、いつもこうして受け流した。

アメリカ人が、アンバエの男二人をルローという白人のところに行かせ、ルオーのところで働いている女たちを渡すようにと言わせた。ルオーは頭にきて、銃をとりに行った。戻って来たアンバエの男たちは、アメリカ人を叩きのめした。ホワイト司令官は、ルローに理はあるが、バヌアツ人は二度とアメリカ兵に手荒なまねをするな、と警告した。

アメリカ人は、マレクラ島の者たちの話を聞いて、バヌアツ人が野蛮な人食い人種だと思い込んだ。アンバエ島のロロワイの宣教師は、島には教会もあるし学校もあると説明した。バヌアツ人は洗礼を受けているので、アメリカ人も牧師を見つけて、一緒に聖体拝領をするべきだった。ハーパーは、自分が教会で結婚式をあげた時の写真を見せてくれた。

サビのアメリカ教会のジョン・ブラウン神父がロロワイに行き、サントでのペンテコストの男たちの様子を話した。ブラウン神父がサビに戻ると、そこでハーパーとアンバエのサイモン・ジリと話し合った。(サイモンは戦後に英国国教会の司祭になった)。ハーパーが、日曜日も働かねばならないので教会に行けないと言ったところ、ブラウン神父は、ペンテコストの者たちの為に、毎木曜日の午後4時に、礼拝ができるようにアレンジしてくれた。

白人のアメリカ人は良かったが、黒人には素行の定まらぬ者が多く、ペンテコストの男たちの中で、黒人と働くことを許されたのは、分別のある12名だけだった。

戦争が終わりに近くなった頃、ハーパー・リニは船を造っていた。そこにマッカーサー元帥が立ち寄った。ハーパーの仕事ぶりを見た元帥は、自分の船にあった材木とペンキを、ハーパーに贈呈した。


ペンテコストへの帰還

ベリル氏の持ち船のビコ号は、ニューカレドニアから来たジョージという男が、船長をしていた。ある時船のエンジンが故障し、ペンテコストのメリシシの男たちを呼んで、帆をかけさせようとした。だが、うまく出来なかったので、ジョージは男たちを罵った。ホワイト司令官は、ジョージに対し、自分のクルーを罵るのは勝手だが、軍で働く者を罵ってはならないと言った。

船がアンバエの近くで二度目に故障した時、ジョージは男たちを泳がせたり、小舟に乗せたりして、船をヌディ・ヌディまで曳かせた。その時、ジョージは銃を構えていた。それはサメの用心だけでなく、男たちに全力で船を曳かせるための脅しでもあった。

ハーパー・リニが、マーチン氏と共にペンテコストに戻る際、船が荒天に遭い、ツツバに避難してシケが過ぎるのを待った。2日もすれば大丈夫と思っていたが、実際は6日も経ってしまい、食糧が無くなった。ハーパーともう一人の男が、スルンダまで食糧を取りに戻った。

船の上で、メリシシの男が二人、エンジンの排気口の近くに寝ていて、ガスを吸ってしまった。バシル・レオによれば、彼等は目を開けたまま、手足を硬直させて死んでいた。ハーパーは二人をデッキに運び、フランソアという少年にバケツに海水を汲ませ、それを二人にかけると、二人は生き返った。ハーパーは、何故そうすれば良いと知っているのかと聞かれ、以前に、アンブリムとバンクスの男が、同じような状態になったのを見たことがあって、海水をかければよいだろうと思った、と答えた。


日本の潜水艦

ハーパー・リニ、ジョン・マークとレビ・バハの三人は、日本の潜水艦が、ペンテコスト北部で雷撃されたときのことを、話してくれた。

1942年のある木曜日の朝、一隻の潜水艦がペンテコストに向かっているのを、アメリカの飛行機が探知して、サントに報告した。その潜水艦がマエオに進路を変え、再びペンテコストに戻るところを、12機の飛行機が見つけ、爆弾を落として、ほどなく潜水艦は爆発した。残骸を銃撃する飛行機もあった。余った爆弾を抱えていた飛行機は、ペンテコスト島北端のファタファガ岩に落とした。一発はペンテコスト島にも落ちた。ジョン・マークとレビ・バハは、子供の頃に見たその光景を記憶していた。ジョン・マークは、ガジュマルの木に登って見ていた。

 

サント島:
米軍の主力部隊が駐留した。

 

 

 

 

 

人食い人種:

メラネシアでは、部族間の戦いで敗将を食う風習があった。特にマレクラ島で盛んだったようで、1969年まで行われた記録があるという。

 

バヌアツ人とキリスト教:
バヌアツ人の80%が熱心なキリスト教徒。英国の支配下だった地域では英国国教会が、フランス支配下だった地域ではカトリックが優勢。

 

マッカーサー元帥: 自身がニュー・ヘブリデスを訪問したという記録は見あたらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


エダのラブソング

これは、北ペンテコストのアガトアのエダが作ったラガ語の歌で、1994年3月20日、北ペンテコストのアブレブレで、ハーパー・リニが歌ってくれたものを、著者が録音した。1994年4月27日、西アンバエのナヌコで、マリネット・ツオミーが、ラガ語の歌詞を書き取り、1994年4月23日、ポートビラで、マリネットジュディ・フリ夫妻が、英訳してくれた。


アガトアのクリスマスのお祝いで
あんたが来たのを知ったよ
前からの知りあいみたいな気分だったね、かわいこちゃん

コーラス
あんたの国に行ってみたいよ、かわいこちゃん
あんたがとびはねるのを見たいね、かわいこちゃん
あんたの国に行ってみたいよ、かわいこちゃん
あんたがカメラのフラッシュをたくのを見て
俺は気が狂いそうだったよ、かわいこちゃん
あんたの国に行ってみたいよ、かわいこちゃん

俺がマンゴーの樹の下に座っていてね
あんたが上官と来るのをワクワク見ていたよ
あんたが海兵隊の軍服を着てね

お祭りがどんどん進んでね
あんたは写真をパチパチ撮りまくったね
こんなことがずっと続くといいと思ったよ
ねえ、かわいこちゃん

俺たちがヤシのプランテーションに行ったときにさ
あんたは写真をとったよ、フラッシュをたいてね
俺は目がパチクリしたよ、かわいこちゃん

俺たちが歩いてラ・ブワトボドボダに行くと
あんたが最後の写真を撮ったよ
あれがお別れだったんだね、かわいこちゃん

海兵隊の婦人部隊は 後ろ髪を引かれていたね
だって、まだお祭りは終わっていなかったんだもの
だけど船長は 全員乗船!って命令したんだ

あんたがペンテコストにやって来て
いつもこう言ってたのを忘れないよ
オーケー、レッツゴー、ってね、かわいこちゃん

「アンバエ島民の戦争体験」へ

 

 

 

 

 

かわいこちゃん:
英語訳では "my love"。
一般に男性が恋人に対して用いるが、ここでは”かわいこちゃん”と和訳した。

 

バヌアツ人男性から米海兵隊の女性兵士がカッコよく見え、それをはやし立てた歌と思われる。