Mesia Masters出版社が1988年に刊行した観光案内「INSTANT VANUATU」が手元にある。旅行者向けのありふれた観光地図だが、第二次大戦時の駐留米軍に関する記事「When war clouds rumbled over paradise」(楽園を戦雲が駆け巡った時代)にかなりのスペースを割いている。バヌアツを訪れる観光客(主としてオーストラリア人、ニュージーランド人)に、大戦の記憶を持つ人たちが多かったのだろう。以下はその抄訳と写真である。


1941年になると、米国と英国の情報機関が、大日本帝国が太平洋地域で大規模な軍事的冒険を行う準備を進めているとの懸念を表明していた。しかし不思議なことに、当時のワシントンやロンドンの政治家たちは、東京がそんなに事を急いでいないと考えることにしていた。

欧州ではヒトラーとの戦いが消耗戦の様相を呈していた。米国は戦争に加担するべきかどうか道義的なジレンマを抱え、英国は死ぬか生きるかの瀬戸際だった。

東京は太平洋地域への意思を固めると、決定的な行動を起こした。1941年12月7日、真珠湾に奇襲爆撃を敢行し、続いてフィリピン、香港、タイ、マレーシア、シンガポールを急襲した。12月8日、米国、英国、オランダは、日本に対して正式に宣戦布告した。

だが、数週間の内にシンガポールの英国・英連邦軍が降伏し、フィリピンもコレヒドールの米国守備隊が降伏して日本軍の手に落ちた。シンガポールとフィリピンの重要な補給基地を手にしたことにより、日本軍は連合軍側の勢力を一掃し、歴史的に稀にみる華々しい軍事的侵攻を西太平洋地域で展開することになった。

米軍の戦略参謀は、両者の勢いの差を縮める必死の努力の一環として、「前進基地」を鎖状に構築することにより、破竹の勢いの日本軍に対する反攻の足掛かりにしようとした。

暗黒の日々の中で、戦略的に極めて重要になったのは、今は独立国バヌアツとなったニュー・ヘブリデス諸島だった。この列島は米国とオーストラリアを結ぶメインの海路上に位置し、もし東京の手に落ちれば、オーストラリアとニュージーランドが孤立するという壊滅的な打撃を蒙ることになる。

1942年4月、米軍の最初の部隊がエファテ島ポートビラから数マイル北のメレ湾に上陸し、戦闘に必要な装備の配備を開始した。それから数ヶ月で、真珠湾以西の米海軍の基地としては最大規模の前進基地が、列島北部の大きな島であるエスプリツ・サント島のセゴンド水道に構築された。

それはまさに暗黒の日々であった。米国、オーストラリア、ニュージーランドは、日本が劇的に獲得したケヴィエン・アドミラルティ諸島、パプアニューギニア中央部のウェワック、マダン、レア、サラマウア、ブナからグロスター岬とガスマタを経てニューブリテン島のラバウル要衝に至る拠点、いわゆる「ビスマルクの要塞」から、強烈なパンチが繰り出されることを予想し、これに対する守りを固めざるをえなかった。

そこで実行されたことは、米国が極秘で遂行したニューヘブリデス諸島の要塞化である。それは全く予告なしに行われ、オーストラリア、ニュージーランドと南西太平洋地区の防衛に極めて重要な役割を果たしたにもかかわらず、今日に至るまで、殆ど世に知られることがなかった。

日本軍の優秀なパイロットは、優秀な兵器によって太平洋地域に勇名を馳せたが、奇妙なことに、楽園の島々を攻撃した時は別だった。日が昇る国の鉄腕のパイロットたちにとって、歯ぎしりしたくなるような悪い事態だったのだ。極秘扱いが解除された米国海軍の第二次大戦時の資料によれば、敵の攻撃は失敗の連続だったとしか言いようがない。

米軍の飛行場、港湾施設や戦闘部隊を完膚無きまでに粉砕する目的で何百マイルも運ばれてきた日本軍の爆弾は、実際はジャングルや深海に墜ちてしまった。日本軍の空襲で戦死した者は連合軍の兵士は皆無だったのだ。

太平洋戦争中に50万を上回る兵力がにニューヘブリデスを通過した。その大部分は米国兵だったが、ニュージーランド、オーストラリア、イギリス、オランダ、カナダの兵士もいた。

戦争の全期間を通して、ニューヘブリデスにおける軍事活動は完全な情報管制下におかれた。全ての郵便物は検閲された。太平洋地区に向けて発信される軍用文書には、ニューヘブリデス諸島の軍事施設がわかるような記載が一切禁止され、「太平洋の某地」としか書かれなかった。

それは適切な処置であった。ニューヘブリデスには、北に展開する戦場との間を往復する爆撃機や戦闘機が発着する飛行場が多数あったし、米国の太平洋艦隊の艦船を戦闘態勢に保つための修理や補給用の大規模な施設が置かれていたからである。

開発中や試作段階の秘密兵器が、ヤシのプランテーションや熱帯雨林の中に迷彩を施して隠されていたし、偵察用航空写真やレーダー探知の技術開発も集中的に行われていた。武器や燃料の巨大な集積場もあった。ジャングル作戦のサバイバル技術や奇襲部隊を訓練する施設、偵察用飛行艇の基地や諜報機関に加え、日本軍を北方に追いやる戦闘で負傷した兵士を収容する数千名規模の野戦病院もおかれた。

ニューヘブリデスの米軍基地は、ガダルカナルから沖縄に至る全太平洋作戦の基地として貢献が大であった。砲声が絶えてから40年以上経つが、島々には第二次大戦の痕跡が数多く残されている。今日の旅行者の歴史的関心をかきたてさせる宝庫なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メレ湾上陸の日は3月28日とされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「When war clouds rumbled over paradise」に掲載されている米軍関係の写真
(一部は「バヌアツ人の戦争体験」で使用済み):


メレ湾への上陸

ハヴァナ湾への道路建設

クレムヒルの道路建設

サモア岬の水上飛行機基地

バウワーフィールド飛行場の爆撃機・戦闘機

ハエ撲滅運動で兵力を維持

前線から送還された負傷兵

1942年10月、クーリッジ号がサント島で沈没

戦利品を持って記念撮影

戦勝して撤退する米軍