1997年に入会、2011年から事務局を勤めた「友山クラブ」が、最後の写真展を終了しました(全出展作品)。新コロナ禍にもかかわらず、読者諸賢も多数ご来場下さいました。永年のご声援に心から感謝申し上げます。

前号「ボクの写真事始め」で小6~高校時代の記憶を辿ったところ、面白がって下さる読者がおられたので、図に乗って続編を書く。蛇腹カメラは大学時代も時々持ち出して級友やサークル仲間を撮ったが、ここに公表できる写真はない。

会社員時代のことを書くと「北米」(米国+カナダ)で埋まってしまう。入社2年目の1965年から95年までの30年は、駐在を含めて北米相手の仕事ばかりだった。95年から退職までの9年は国内の「ケイタイ」関連の仕事を命じられたが、この業界は米国流移植の色彩が濃く、小生は「帰国子女」ならぬ「帰国オヤジ」(アメリカ帰りのヘンなオッサン)で通した。周囲のヒンシュクは知っていたが、今さら治せるものでもなく、モンクがあるなら「帰国オヤジ」を承知で任命した会社に言ってくれ、と内心開き直っていた。

それにしても米国の大統領選挙はひどすぎる。討論のTV中継にあきれはて、「米国がとうとう壊れた」と思った。「とうとう」は前兆があったことを意味する。1975年のベトナム敗戦が「米国の終りの始まり」と言われるが、小生が実感したのは、70年代に始まった「日米貿易摩擦」で露呈した米国の「製造業崩壊」で、世界一を誇った綿製品、家電、鉄鋼、自動車、半導体が、次々と日本製品に駆逐された。日本が頑張った成果ではあったが、既に活力を失っていた米国の業界は実力で巻き返す気力もなく、日本タタキを煽るだけだった。「自由経済の守護神」の筈の米政府がなりふり構わず政治介入し、日本製品の流入に必死のブレーキをかけた様相は、現政権の「アメリカ・ファースト」より迫力があり、具体的で即効性もあったが、それで米国の製造業が蘇生したわけではない。

日本タタキでは「不公正な経済活動」摘発もあった。日本がキタナイ手段を使うことを実証する「オトリ捜査」に某社がハマり、関係者逮捕の現場映像が流された。実は同じ時期、小生にも「仕掛けられた」と思われる出来事があった。詳しくは書けないが、コンサルタントを名乗る人物に呼び出され、先方指定の場所に赴くと、どこで聞き出したのか、受注活動中だった客先への「裏工作」を持ちかけてきた。話している内に誘導尋問調になり、同席の男が速記のようにメモをとり、録音している気配もあった。その場で丁重に断ったが、あれはオトリ捜査だったと今も信じている。

その後も、課徴金、アンチダンピング提訴、特許訴訟など対日パンチが次々と繰り出され、日本企業は急遽現地生産拠点を設けるなど、必死のクリンチで米国市場にしがみついたが、体力を奪われたことは確かだった。やがて日本自体の「国際化」がボディブローになり、消耗が限界に達して米国のリングを去った企業が少なくない。今にして思えば、小生は会社の体力がある内に、米国で目いっぱい楽しくプレーさせてもらったような気がする。

就職先にメーカーを選んだ小生、マスクも作れなくなった日本の製造業衰退を嘆く気分があり、GAFAのような業態が国の底力になるとも思っていない。「目先の利益・株価」だけの「新自由主義」が国の基盤を蝕んできた事実を認め、国民が豊かになる道へと大きく舵をを切る時と思う。150年前に「資本主義が成熟すると矛盾が極限に達し、必然的に新しい経済体制に移行する」と予言した経済学者がいた。ハチャメチャな大統領選挙だが、米国では禁句の「社会主義」を掲げたサンダース候補が善戦し、その原動力が若い世代の支持だったことに変革の兆しを見た。米国が変われば日本も変わることへの期待も込めて、破局の前に変化が始まることを願うのみである。


1966年11月  初の米国出張でカメラを新調

小生が社会人になったのは1964年4月。1956年に経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言、中流家庭にも「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)が普及し、1960年代に入ると「3C」(カラーTV、クーラー、カー)に手を伸ばす時代になっていた。「レジャー」が日常用語になり、それを撮る小型自動カメラ(通称「バカチョン」)が世に出たのもこの頃だが、小生がバカチョンを買ったのは少し後のことである(バカチョンは差別用語になったらしいが、当時の一般用語として使わせていただく)。

自ら望んで就職したメーカーだったが、初任給は大手商社や銀行に比べて2割安かった。独身寮費を天引きされた給料袋は軽く(当時は現金封入)、まとまった買い物は賞与をあてにするしかなかったが、新入社員の賞与袋が薄いのも、当然と言われれば当然。工場の生産管理部門に配属されたが、指導役の筈の先輩が小生と入れ替わるように退職し、右も左も分からぬまま一本立ちを迫られた。受注生産の手配伝票を書いてから製品がトラックに載るまでの連絡調整(雑用)が仕事で、気難しい設計技術者、製造現場のオニ班長、梱包場を仕切るボスなどと渡りをつける毎日はハプニングの連続だったが、「危機管理」のコツは身についたかもしれない。

入社して2年半の1966年秋、思わぬミッションが与えられた。米国メーカーとの共同プロジェクトが立ち上がり、部品の納入促進でロスアンゼルス出張を命じられたのだ。工場の事務系ヒラ社員の海外出張は異例だったが、学歴で「英語が使える筈」と思われたらしい(英語「専攻」でも「使える」とは限らないのだが…)。それはともかく、初の海外出張にカメラを持って行きたいが、小6で買ってもらって12年経った蛇腹カメラでは格好がつかない。「最新式のカッコいいカメラ」に買い替える決心がついた。

買ったのは小型一眼レフの「オリンパス PEN-F」。今も同じ名前のデジタル一眼レフが販売されているが、当時はもちろんフィルムカメラで、初代「PEN-F」の成功で思い入れのあるモデル名になり、半世紀後に換骨奪胎して再登場させたのだろう。(右はオリンパス社のHPから)

小生が手に入れた PEN-F は「最新式」ではなかった。買う直前に改良モデルが出て、型オチで安くなった旧モデルを買い、差額で中古の望遠レンズも買った。初出張の身支度もあって、カメラに使える資金は2万円が限度だった。

PEN-F にした理由はカラー写真を撮るコスパ(費用対効果)だった。カラーの時代になっていたが、安月給にカラーフィルム代とプリント代はキツい。PEN-F は35㎜フィルムの画面を2分割して撮る「ハーフサイズ」で、36枚撮りが72枚に使えてフィルム代が半分になる。リバーサルフィルムでスライドを撮り、人にあげる写真だけプリントすれば、これも節約になる。コダックの36枚撮りスライドフィルムは現像料込み800円程で、写真1枚のコストは約11円。小型スライド映写機(3千円)で白壁に写すと、色鮮やかな大画面が迫力満点で、帰国報告の映写会は好評だった。

PEN-F は小型軽量で旅の邪魔にならず、使いやすいカメラだった。ピントはファインダーの像がピシッと見えるようにレンズを回して合わせる。露出計は旧モデルになく(改良型から付いた)、フィルムの外箱に示された標準露出を参考に決める。カラーフィルムの露出は白黒より精度を要するが、要領をつかめば失敗は少ない。蛇腹カメラはロールフィルムの装填と巻き上げにコツが要ったが、PEN-Fはパトローネ(金属ケース)入り35㎜フィルムを使うので、巻き忘れや位置ズレが起きない。一眼レフはレンズを交換出来るのが魅力だが、持っていたのは標準と望遠の2本だけ(ズームレンズはまだ無かった)。望遠で撮ると遠近感が圧縮されて、景色の見え方が変わるのが新鮮だった。

ロス出張は往復を入れて10日間だったが、米国の豊かさとおおらかさに圧倒された。日本の職場は手書きの伝票・台帳と謄写印刷の資料で仕事をしていたが、米国では全てコンピューター化され、打合せ資料もデータ打ち出しだった。先方のマネジャーは若造のたどたどしい英語に付き合い、細かい要求にも誠心誠意対応してくれたので、小生の初出張はそれなりに恰好がついた。自宅に招かれ、小ぎれいなダイニングでごちそうになった分厚いステーキにも、中流家庭の豊かな暮らし(American way of life)を実感した。カフェテリアで品選びを手伝ってくれた人や隣席から気軽に話しかけてくれた人にも「敗戦国の黄色い若造」を見下す気分は微塵も感じられなかった。これで米国が好きにならない筈がない。

週末に関係会社の駐在員に案内してもらったハリウッドとディズニーランドで、PEN-F の出番があった。米国製「コダクローム」で撮ったスライドは半世紀後も良好な状態を保っているが、当時の国産フィルムのスライドは無残に褪色してデジタル補正も出来ない。コダクロームは特殊な「外式」(現像時に染料を添加)なので単純比較出来ないが、全盛期の米国製品がいかにシッカリしていたかを今に伝えている。

給油でホノルル空港に降りたJALのDC-8。これが初シャッター。 ロスと言えばディズニーランド。週末に案内してもらった。
ハリウッド・ボール野外音楽堂 ハリウッドの名所、スターの手形・足形 これはソフィア・ローレン


3年後(1969年)に別の共同プロジェクトが立ち上がり、同様のミッションで2度目の出張をした。相手先は別の会社だったが、行き先は初回と同じロスアンゼルス。3カ月滞在の予定だったので(2.5ヵ月で繰上げ帰国)、協力商社のオフィスに机を借りて、近くの安ホテルから通勤した。滞在費が1日20ドルだったので、月決め95ドルのホテル代に助けられた。

郊外の工場を頻繁に訪れるのでレンタカーを長期で借り、休日は「私用ダメ」の禁を犯して長距離ドライブにも出かけた。Ford の Fairlane(右)は「コンパクトカー」の分類だが、エンジンはV8の5リッターだった。やっとの思いで買った愛車「ホンダ N360」の2気筒360㏄とは比べる気も起きない。燃費は「湯水の如く」だったが、当時はガソリンがタダ同然で、燃費など誰も気にかけなかった。とにかく、当時のアメ車は米国の「圧倒的迫力」そのものだった。

小鉄チャンは鉄道写真を撮らないわけにゆかない。
サンタフェ鉄道の大陸横断列車をロス中央駅で。
郊外の鉄道公園で開拓時代をSLを撮る。
アラスカを除く米国最高峰ホイットニー山(4421m)。 ヨセミテ国立公園にも足を伸ばした。


工場勤務時代の出張先の実名を明かす。初回(1966年)は大富豪ハワード・ヒューズが創設し、通信衛星の開発で一時代を創った ヒューズ・エアクラフト社の防衛システム部門、2度目(69年)は DC-3、DC-8などの名機を世に出した ダグラス・エアクラフト 社の防衛機器部門だった。両社とも当時の米国の工業力を象徴する名門の大企業だったが、ヒューズ社は80年代中期にバラバラに切り売りされ、転売が繰り返されて追跡不能になった。ダグラス社は DC-10 の開発で資金繰りが行き詰まり、小生が訪れた頃は軍用機メーカーの マクダネル 社に吸収合併された後だったが、その マクダネル・ダグラス社も、1997年にボーイング社に買収されて痕跡が消えた。小生が半世紀前に米国で出会って今も原型を留めている大企業は GM、マクドナルド、コカ・コーラくらいしか思い浮かばない。米国の「リストラ」はそれ程までに「ハンパない」が、それが米国の基盤をスカスカにしたも言える。

ちなみに、1918年にニューヨーク市で創業した不動産業の「トランプ商会」は100年後の今も存続しているが、71年に父親の跡を継いだ現オーナーが3度破産させ、その度に会社更生法で再生した(巨額の借金を3度踏み倒したことになる)。彼の本領は、本人が豪語する「ビジネスの王者」ではなく、TVショーで「お前はクビ!」(You are fired!)の決めせりふが大当たりした「罵詈雑言のお笑い芸人」だろう。お笑い芸人にも尊敬に値する人物は少なくないが、聞くに耐えない罵倒しか芸のない下卑たしぐさの人物が「超大国大統領」に再選されるのは、他国のことながら容赦しかねる。


1970年5月に海外営業部門に異動した。担当したのは米国向けの電話局中継用マイクロ波通信システムで、世界最先端の米国で売れるのか半信半疑だったが、半年で初受注した経緯は米国50州雑記帳ニューヨーク篇に書いた。イケるとなるとがむしゃらに突っ込むのが日本企業の習性で、71年1月にチームを組んで出張、3ヵ月に渡ってワシントンDC郊外の事務所を拠点に米国各地へ訪問販売に飛び回った。71年2月の1ヵ月間で国内線の離着陸回数(乗継ぎもカウント)が42回を数える猛烈ぶりで、週末も事務所に籠って資料作りに没頭し、観光は息抜きに事務所近くの首都モール(国会議事堂前の広場)周辺を歩いただけで、PEN-Fの出番もその時だけだった。


左:ポトマックの桜とワシントン記念塔
上:ワシントン記念塔最上部の展望台から円形広場と
ホワイトハウス。

モール東端の国会議事堂

独立宣言を起草した第3代大統領ジェファーソン記念館はポトマックの中洲州にある。

上:モールの西端の第16代大統領リンカーン記念館。
右:第35代大統領ケネデイの墓(炎)。背後の建物は南軍のリー将軍マンション(「邸宅」が本来の意味)。


1976年9月 子供の七五三で「逆輸入一眼レフ」購入

PEN-F は新婚旅行や子供の成長記録でもガンバってくれたが、10年も使うとシャッターの動作が不安定になる。この間に妻が再就職して二人の子供が保育園に通うようになり、妻用に当時流行の「バカチョン」を購入して、小生もしばしば借用したが、何を買ったか思い出せない。

子供の七五三の写真を新しいカメラで撮ることにした。この頃オリンパスが出した一眼レフ「OM-2」が大人気だったが、同じオリンパスの一眼レフでもPENーFのレンズは転用できず、望遠レンズも揃えると10万円を大きく超えた。

カメラ屋の店頭で逡巡していると「これ、良いですよ」と出されたのが「ペンタックス K-1000」。OM-2 より一回り大きくズッシリ重いが、値段は OM-2 の半分だった。輸出専用の商品が国内に流出したもので説明書も粗末なザラ紙だったが、「円高でお得になってます」としきりに薦める。会社では円高亢進でヒーヒー言っていたので、カタキ討ちに円高メリットを享受してやる、と屁理屈を付けて買った。

K-1000 は質実剛健でセルフタイマーもなかった。TTL露出計(レンズを通過した光量を測定)は付いていたが自動露出ではなく、ファインダー下部の針が中央を指すようにダイヤルで設定する。フォーカスもファインダーの画像を見て合焦点を求める。今の全自動に比べれば面倒だが、シャッターを押す前に踏むべき手順をがあると、一瞬考えるチャンスが出来て、無造作にパシャパシャやるより良い写真が撮れるような気もする。

1974年に右耳の鼓室形成手術(人口鼓膜)で飛行機の旅を禁じられたが、76年に出張を再開し、ロスを拠点に西部地区の顧客開拓に励んだ。 K-1000 はゴロンと存在感があって地方出張のお供をさせ難かったので、ロスの日系人地区(Gardina)の写真屋で「バカチョン」を買った(これも型名を思い出せない)。

その頃、日本では街のあちこちに手軽な写真屋が出来て、自動処理機でネガカラーの現像からプリントまで即時にやってくれたが、仕上がりが雑で安っぽく、数年で褪色した。ロスの写真屋はバカチョンで撮った写真も惚れ惚れするほどキレイに仕上げてくれた。その後トロント、バージニア、ダラスで使った写真屋は日系人ではなかったが、どこも見事な仕上げだった。「日本は丁寧、外国は雑」の固定概念とは逆だが、日本の街の写真屋は「バイト任せ」で、自動処理した写真の出来ばえに「こだわり」がなかった。昨今「非正規任せ」の外食チェーンが粗雑な食い物を供するように、「新自由主義」が日本伝統の「こだわりのある商売道」を淘汰しているが、「街の写真屋」がその先駆だったかもしれない。

米国の辺地の代表格、アイダホまで単身で売り込みに歩いた。 帰りのフライトまでの時間つぶしに山間の駅へ。

1979年4月 トロント駐在

1979年4月、トロント駐在員事務所に赴任した。カナダは度々の出張で「勝手知ったる」つもりだったが、現地に腰を据えると出張で見えなかったものが見えてくる。その最たるものが「カナダ人の米国嫌い」だった。外から見ると米国とカナダは仲良し兄弟のようだが、隣国どうしが仲が悪いのは世界共通で、米国とカナダも例外ではなかった。

米国とカナダは、中国と台湾の関係と似たところがある。国境を接し、民族・言語がほぼ共通。大国は「革命で出来た国」・小国が「革命を避けた人の国」だったことも似ている。小国は大国への警戒を怠らず、カナダのあちこちに残る要塞の大砲の筒口は米国を向き、今もカナダ軍は原則として米国製兵器を採用しない。経済でも一線を隔すが、実利的な民間交流は「なりゆきに任せる」点も、台湾と中国の関係に似ている。そんなカナダ人との商談で「米国での成功例」など引き合いに出せば、反感を買うだけと知った。

最も困ったのは、小生が手がけてきた電話会社用通信機器の商売が「ミッション・インポシブル」だったこと。カナダには世界的な通信機メーカーがあり、「国策会社」として電話会社の所要をまかなっていた。衛星通信でもカナダは世界に先駆けて国内衛星を打ち上げ、地上局施設も国策メーカーで足りていた。当社に商機があるとすれば、カナダメーカーが作らないニッチな領域か、実用試験段階の新装置に限られた。民需品は当社の不得意分野で商売にはならない。

ある意味で救いだったのは、法人格のない駐在員事務所は「連絡事務所」で、「商売」を行うと違法行為になることだった。売り込みに成功しても、契約行為は顧客と本社で直接やってもらうか、商社に扱ってもらうしかない。言い換えれば、駐在員は「利益責任」がなく、資金繰りに奔走することも税務署と向き合うこともない。「気楽な稼業」と言われればそのとおりだが、カナダ市場では駐在員1名 秘書1名の「連絡事務所」が相応だったと、今も思っている。

家族にとって初めての海外生活は心配だらけだったが、「案ずるより生むが易し」だったことは「カナダ駐在員回顧録-3」に書いた。カナダは移住者に優しい国で、英語ゼロの子供を一般クラスで受け入れる。おかげで1年後に「お父さんの英語でも通じるんだね」と親をからかってくれた。平日は日本の職場並みの残業が要ったが、通勤時間が短いので朝・夕食は一家揃って出来た。土曜日は子供を日本語補習校に送って食料品の買い出しに回り、昼に子供を拾ってランチや街歩きを楽しんだ。日曜日は郊外に足を伸ばして豊かな自然を楽しむ余裕もあり、カナダ駐在の「役得」のおかげで、一家でかけがえのない経験をさせてもらった。

オンタリオ湖北岸のトロント中心部。オフィスは高層ビルの上階。 オフィスの窓から。トロントアイランドのフェリー
トロント市街中心部に残るヨーク砦。 小学校の「日本デイ」。
夏の博覧会最終日の航空ショー。 市内にも豊かな自然がある。紅葉に色づく公園。
ナイアガラはトロントから1時間のドライブ。 厳冬期のナイアガラ。

1981年8月 カメラ置き忘れ事件、一眼レフを新調

日本では財布を置き忘れても「拾得物」で戻ってくるが、外国では「神様からの贈り物」にされる。治安が良いと言われるカナダも例外ではなかった。

駐在2年で帰国休暇をもらった。一家でトロントに帰って空港でタクシーを拾い、自宅に着いて大量の荷物を降ろし、やっと落ち着いたところで、カメラがないことに気が付いた。領収書でタクシー会社が分かり、カメラを探すように依頼した。空港ターミナルと航空会社にも置き忘れがなかったか訊ねたが、答えは何れも「見つかりませんでした」。まあ、期待はしていなかったが…

K-1000 を買ってまだ5年だったが、「あれは輸出品横流しの安物」とあっさり諦め、「カッコいいカメラに買い替えるタイミング」の気分になった。ペンタックスの交換レンズが残っていたので、迷わずにいつもの写真屋で「ペンタックス ME」を買った。機能は K-1000 にセルフタイマーを付けた程度で、露出計の電池の消耗が早く常時予備電池を持ち歩いたが、軽くてカッコいいのが嬉しかった。

トロント勤務が3年を過ぎた頃、米国の現地法人に転勤の話が持ち上がった。海外勤務中に国を跨ぐ転勤は珍しかったらしく、引越し費用のルール作りなどで人事部を騒がせた。秘書と2人だけの事務所では休暇のとりようがなかったが、転勤の直前に1週間の休暇をもらい、東ケベックとプリンスエドワード島へ1周5千Kmのドライブ旅行を楽しんだ。

ケベック市要塞の衛兵交代。フランス圏だが衣装はロンドン風。 ケベック東端、ガスペ半島突端の奇景。
プリンスエドワード島の「赤毛のアンの家」。 プリンスエドワード島の田園風景。

1982年9月  米国バージニアに転勤

転勤先は首都ワシントンDC郊外のバージニア州フェアファックス事業所。首都圏の拠点は情報活動が目的と早合点されるが、当社の場合は営業・技術・保守サービスの事業拠点で、小規模だが製造現場もあった。何度も出張して「勝手知ったる」だったが、現地勤務は異次元の世界になる。特にこの転勤で重大な初体験があった。小生には「管理職」の経験が無かった。やっと「課長試験」に通ってすぐ赴任したトロント事務所の部下は秘書1名。管理職は他部門との社内交渉で人脈を作って組織を動かす実力を蓄えるが、トロント駐在員は本社の窓口部門とテレックスで電文のような通信のやりとりをするだけで(国際電話は高くて滅多に使えず)、管理職らしい場面は全くなかった。

そんな「ペーペー」がいきなり200名のボスになった。しかも部下の大半が現地人である(日本人出向者も若干名いた)。本稿冒頭で、新入社員時代に「危機管理のコツが身に付いた」ようなことを書いたが、その流儀でハラを決めた。パニックは禁物で、先ず悟られぬように深呼吸。先送りも禁物で、状況をつかんだらその場で決める。間違えたらすぐ訂正し、理由を言って謝まる(安いアタマはいくら下げても減らない)。万事に慎重な日本人管理者の中で小生の即断即決スタイルは異質だったが、現地人には「やりやすいボス」と思われたようだ。一方、問題社員(地位にそぐわない怠慢や明白な不正)のクビも即断即決で切ったので、当時米国で人気だった「Shogun」(バッサバッサと人を切る)とアダ名が付いていたらしい。

北バージニアは、日本人には米国で最も住み心地の良い地域だと思う。緯度が仙台と同じで(北緯38度)、東に海、西に山脈がある地形も似ている。米国では珍しくはっきりした「四季」があり、春に桜が咲き、夏は蒸し暑く、秋は紅葉が彩り、冬は雪が降る。 日本人にとって季節のうつろいは「心のサプリメント」で、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、今は厳しくても、暫くガマンすれば良い季節が巡ってくると分かっていれば、人の心と生き方は自然に穏やかになる。米国は生き馬の目を抜く競争社会で、出世を急ぐ米国人はノンキな事を言っていられないが、身分が保障されている日本人社員は、バージニア・ライフを楽しんだ方が得なのだ。

北バージニアで暮らした3年半、ペンタックスME は出番が多かった。トロントでは休暇ナシだったが、バージニアでは「居なくても仕事が進む」(居ない方が進むとも言われた)立場をいいことに、夏季休暇はもちろん、スキー休暇も目いっぱいとり、入社以来の「モーレツ社員」ライフスタイルを一挙にかなぐり捨てた。

「アメリカ50州雑記帳」で首都DC・バージニア」の暮らしぶりを記したが(下の写真は同記事から再掲載)、「ユタ」「マサチュセッツ・バーモント」「フロリダ」のページにも当時の旅の記事があるので、ご興味あればご覧いただきたい。

フェアファックスの借家は典型的な中流家庭用。 住宅地の桜並木。
初夏、郊外のチェサピーク運河。 7月の独立記念日、首都モールのリンカーン記念館前で花火大会。
秋、ハロウィーン用のかぼちゃ市。 秋、ペンシルバニアの保存鉄道。
12月、ホワイトハウス前の広場に巨大ツリーが並ぶ。 冬に数回の大雪が襲う。家の前の歩道の除雪は住民の役目。

「カメラ遍歴」と題しておきながら「会社員自叙伝」になった。駄文は写真の「時代背景」と読み流していただきたい。前篇で書いたように、当時は「作品」を意図して撮ったことがなく、家族や友人のスナップ、旅のメモ代わりなど、誰でも撮るような写真ばかりだった。持っていたカメラも、写真が趣味のマニアなら「笑っちゃう!」ような安物ばかりだが、まがりなりにも「一眼レフ」だったのは、「バカチョン」のユーザーより少しだけ「写真が好き」だったからかもしれない。