10年前の2009年8月24日、日本百名山の最終百座目で奥穂高岳(3190m)に登った(年月の流れの早さに改めて驚く)。その後5年間は南・北アルプスの山に登ったが、加齢と共に国内の本格登山がシンドくなり、海外トレッキングに転じた。奇異に聞こえるかもしれないが、海外トレッキングは一般にキツイ急登や危険な岩場がなく、1日の行動時間も短い。何よりも荷物をポーターが持ってくれるので「楽ちん」なのだ。その海外トレッキングも、本年2月にベトナムのファンシーパン(3143m)で高度障害でダウン、いよいよ「年貢の納め時」と思った。

そんな心境に反して、何を狂ったか、喜寿の齢も過ぎんとする8月26日に北穂高岳(3106m、以下「北穂」)に登った。狂った原因は7月の北海道山歩きで、「ゆっくり登ればまだイケる」と思い直し、「登り残した山」だった北穂に登る気を起こしたらしい(他人ごとのように言うが、後になって動機が思い当たった)。

北穂は標高日本第9位の名山だが、隣組長(死語?)の奥穂高岳(3190m、第3位)の威光に隠され、百名山に入れてもらえなかった。隣の涸沢岳(3110m)は8位でも百名山の選に漏れている。ボスばかり目立って巾を利かすのは人間社会のイヤな縮図で、「巨人・大鵬・玉子焼き」(これも死語?)を好まぬへそ曲がりは、つい日陰者に加勢したくなる。

北穂の魅力は独特の個性にある。奥穂は穂高連峰の盟主かもしれないが、麓から眺めると、ダラダラ間延びした稜線のどこが山頂か分からない。北穂は槍ヶ岳(3180m)のように容姿秀麗とは言えぬが、無骨なアタマをもたげたずんぐり姿に存在感がある。険しさの点でも、西面の垂直岩壁の「滝谷」は熟達ロッククライマー限定。北側の削ぎ落ちたギャップは「大キレット」と呼ばれ、槍ヶ岳の山塊に伸びる険阻な縦走路は、高度な登攀技術と体力を要する。東面も涸沢まで一気に落ちる崖錐に登攀ルートはない。シロウトが登れるのは南陵ルートのみで、それも「落石注意」連続のゴロ石の急斜面である。

難攻不落の砦のような北穂の山頂に、終戦直後の昭和23年に山男が独力で建てた山小屋がある。長さ6m重さ147Kgの主梁も一人で担ぎ上げたというから、ハンパない。百名山を始めた頃にその手記(小山義治「穂高を愛して二十年」中公文庫)を読んで感服、北穂高小屋が行きたい山小屋のトップになったが、百名山踏破が優先し、行きそびれたまま時が過ぎた。そんなこんなで、北穂は「登り残した山」になっていた。



8月25日(日) 上高地 → 涸沢

北穂登山を思い立ったものの、日々転々する天気予報に諦めかけていた。雨に濡れた岩場は危険で、そもそも雨具を着て歩くのは愉快でない。その予報が金曜(23日)になって「日・月、晴れ」に変わった。また変わる心配をしてもキリがない。ハラを決めて前泊宿と涸沢の山小屋に予約を入れ、土曜昼に家を出た。

北穂登山のスタートは上高地。車で上高地に行く場合は手前の沢渡(さわんど)の有料駐車場に車を置き、シャトルバスに乗り換える。駐車場の近くに無料で車を置いてくれる温泉宿があり、1週間前にネットで調べた時は満室だったが、調べ直すと空室アリ。行ってみるとシーズン中の土曜夜なのに半分空室だった。「韓国客のキャンセル?」の問いに苦笑いが返って来たが、外務大臣が駐日大使を呼びつけ、公開の場で「無礼!」と一喝したツケが地方の温泉宿にも回っているのだろう。

外交に駆け引きはつきものだが、外務大臣がご贔屓スジのウケを狙ってミエを切るのは危険行為で、国交断絶の引き金になりかねない。横滑りの防衛大臣職で再度ミエを切ったら、もっと厄介なことになる。あの大統領でさえ「圧力」路線の補佐官をクビにしたではないか。圧力による和平は相手の「屈服」が前提だが、大国が小国を脅しても「一寸の虫に五分の魂」を刺激するだけで、暴発することはあっても丸く収まった例はない。暴発させて叩きつぶす戦略が「泥沼」への誘導路になることも、イヤというほど学習した筈だ。

閑話休題。日曜の朝は申し分ない快晴になった。沢渡を8時発のバスで上高地に向かう。昨今の観光地はどこも外国人ばかりだが、河童橋周辺の混雑はさほどでもない。インバウンド(来日観光客)の1/4が韓国人旅行者だったのだから、影響が目に見えるのは当然だろう。

上高地から横尾まで、梓川に沿って11Kmの平坦な遊歩道を延々と歩く。別天地へのプロムナードと思う人もいるだろうが、ウンザリする登山者の方が多いのではないか。実は上高地から横尾まで砂利道の車道が通っているのだが、工事・輸送用トラック専用で、客を乗せたタクシーやマイクロバスは通行禁止。南アルプスは北沢峠(2032m)まで乗合マイクロバスが入るが、北アルプスでは国交省・環境省はスジを曲げる気がなさそうだ。「利便性」が自然を壊すことは間違いなく、ここでモンクを言うつもりはない。「観光客」は上高地で十分に楽しめるし、「登山者」は歩くべきなのだ。

9:00 河童橋出発。目指す北穂は正面の奥穂の裏に隠れて見えない。
穂高の反対側の焼岳もすっきり見えた。
10:10 明神から徳沢へ、気持ちのよい樹陰の小径を行く。
11:00 徳沢から横尾へ。左の絶壁は前穂高の東面。
11:10 横尾の手前でサルに出会う。
11:30 予定より早く横尾に到着、山荘でカレーライスの昼食。

上高地(標高1500m)から横尾(1620m)まで、標準3時間を2時間半で歩いた。平地はまだフツーの速さで歩けるようだ。横尾で槍ヶ岳への登山道と別れ、吊り橋を渡って横尾谷を涸沢に向かう。途中の本谷橋(1780m)までの2Km余は緩やかな登りだが、本谷橋から先は涸沢(2300m)まで本格的な登りになる。横尾から涸沢まで標準3時間に4時間を要したが、坂道は上下共に標準×1.3が老人標準と心得ているので、計算はほぼ合っている。

標準:登山地図上に示されたコースタイムで、「平均的なペースで歩いた場合の休憩時間を含まない正味の所要時間」。昔の地図には「40歳の男子が小屋泊まりの軽い装備で歩くペース」と書いてあったような記憶がある。

12:00 横尾を出発。前穂高岳に午後の雲がかかる。
13:00 ふり返ると屏風岩の壁。
13:10 本谷橋(標高1780m)。吊り橋は増水時用で平時は仮設の木橋を渡る。ここから先は石ゴロの急な登り。
14:10 横尾本谷出会に気の早い秋を見つけた。
15:00 やっと奥穂(正面)が見えた。右は涸沢岳。
ザイテングラード(ゴジラ背)と白出コル(鞍部)の小屋に10年前の奥穂登山を思い出す。
15:30 最後の石ゴロの急登。
北穂高岳。中央のガレ場から左の南陵に出て、稜線を登って中央奥の山頂に至る。
16:00 涸沢小屋に到着。
紅葉シーズン前の涸沢テント場はまだ閑散。

北アルプスの山小屋泊は2014年の唐松岳以来で、北ア以外も2015年の北八ヶ岳2017年の富士山だけ。国内の本格登山から遠ざかっていたなあと思う。定員100人の涸沢小屋はほぼ満員で、我々には蚕棚上段の端が割り当てられた。畳1枚分の就寝スペースと荷物置き場があるので、窮屈さはない。6時に夕食が済めばあとは寝るしかない。消灯は9時だが(発電機停止)、殆どの人が7時前から就寝体勢に入り、早速あちこちからいびきが聞こえる。(山小屋泊に不案内の読者のために敢えて注釈すると、山小屋は大部屋で男女の区別なく、着の身着のままで雑魚寝が原則。)


8月26日(月) 涸沢 → 北穂高岳 → 涸沢

朝4時に小屋の外に出てみると、下弦の月が東の空に架かり星もしっかり見えた。申し分ない晴天になりそうだ。早発ちの登山者がヘッドランプを点けて出発してゆくが、我々はゆっくり身支度して5時半の朝食を待つ。

6時半出発。当初は北穂高山頂の小屋に泊るつもりだったが、翌日の天気が崩れる予報で日帰りに変更、不要な荷物を涸沢の小屋に置かせてもらう。昼食は北穂山頂の小屋食をあてにして、非常用の行動食と雨具だけザックに入れ、飲料水も下りの分は山頂で買うことにして、ギリギリ軽量にする。周囲を見るとヘルメット着用の人が多い。小屋番が「長野県が着用を定めています、強制ではないが」と言うので、小屋でレンタルする(落石を受けることはなかったが、急斜面で岩角に何度も頭をぶつけたので、効用アリ)。

小屋を出るとすぐ、山頂からの「ナダレ跡」のガレ場(石ゴロ)直登が待っている。老人登山のコツその1は「息が切れないようにゆっくり登ること」。呼吸が乱れてハァハァ状態に陥ると、休憩してもすぐ乱れるようになる。その2は「登りでは写真撮影を極力抑えること」。シャッターを押す時に息を止めるのがペースを乱す原因になる。ちなみに、山で持ち歩くカメラを一眼デジ(ボデイ+レンズ =2Kg強)からミラーレス(計1Kg弱)に代えて、随分楽になった。

山用腕時計の高度計で現標高をチェックしながら登る。スタートから1時間半で標高2700m地点。ここが登りの半分で、南陵にとりつく長い鎖場と鉄梯子がある。ここまでマイペースで登って来たが、鎖場の順番待ちで心理的に急かされ、ペースが崩れて息を切らした。いったん呼吸が乱れると、休憩してもすぐ苦しくなって足が止まる。標高差200mを45分で登って小休止するのが目安だが、100mで苦しくなって休み、50mになり、20mになる。たった20mで?と思うだろうが、5階建ての公団住宅(これも死語?)の屋上が地上20m。涸沢から標高差800mの北穂登山は、団地の屋上に荷物を担いで40回登るのに等しいのだ。しかも標高3千mの酸素濃度は平地の8割弱、老人がヘバっても不思議はない。

5:20 前穂の稜線に朝の光が当たる。
5:22 南面が赤く染まる。朝食の時間になって朝の撮影終了。
6:50 登山開始から20分、お花畑をトラバース(横断)。
9:51 南陵のガレ場(石ゴロ)を登る。右奥が北穂山頂。
10:07 山頂直下から前穂高岳。
10:07 山頂直下から奥穂高岳。

「苦しくても、諦めずに歩き続ければ必ず山頂に着きます。それが登山です」と田部井淳子さんが富士登山の福島の高校生を励ましたTV番組を思い出す。10:20 北穂山頂着。涸沢から標準3時間に3時間50分を要したが、標準×1.3には収まった。

山頂からの大展望は予想どおり。北は大キレットの先に槍ヶ岳、その先の水晶岳、黒部五郎岳まで確認できる。槍の右に見える筈の立山・剣・白馬方面は雲の中。西は滝谷の絶壁と右俣谷の向こうに笠ヶ岳。南は北穂南峰のドームの先に奥穂がどっかと座っている。昼の雲がどんどん上がって来て、急速に視界が閉ざされてゆく。我々は大展望にギリギリのタイミングで間に合った。

10:20 山頂到着。キレットの先の槍ヶ岳が迎えてくれる。
滝谷の対岸に笠ヶ岳(2989m)。
前穂高岳(3090m)
奥穂高岳(3190m)
北穂南峰に屹立するドームのピーク松濤岩は登山家の松濤明に由来。
飛騨側に落ちる滝谷は岩登りのメッカ。
滝谷にいどむクライマーが点のように見える。
槍ヶ岳の山塊の南端(南岳)からの細い稜線が大キレット。
北穂山頂に近いキレット最難所を行く登山者。

長年の憧れだった北穂高小屋は山頂直下の岩棚にへばりついている。小山氏が終戦直後に建てた小屋はその後増改築されたが、それでも定員70名の小さな小屋である。宿泊を断念していたので、せめてもの小屋食にラーメンを注文。天水(雨水)に100%依存する北穂山頂で「汁物」のラーメンは贅沢食である。やや塩分の強いスープは汗だく急登を終えた体にちょうど良いが、標高3千mの沸点が90℃なので、少々ぬるく感じるのは仕方ない。半分食べたところで急に食欲が消え、胃袋の収縮を感じて箸を置く。高度障害(軽い高山病)の典型的症状である。連れ合いも同じ症状で食べ残す。ゴミ捨て不可の山小屋で貴重な食物を残すのは誠に遺憾だが、小屋番に状態を話して下げてもらう。

山頂直下の崖にへばりつくように建てられた北穂小屋。
小屋の東面。狭いテラスの先は涸沢まで一気に落ちる断崖絶壁。
小屋ラーメン。体調不良で残してしまい、誠に申しわけない。
11:30 下山開始。
山頂直下から険しいガレ場(石ゴロの登山道)が続き、カメラをザックに収めて慎重に下る。

以前にも書いたが、下りは普段使わない筋肉を使うので疲労が加速し、ゴロ石の急斜面で転倒すればタダでは済まない。北穂から涸沢への下りは標準2時間に3時間かかった。涸沢から更に横尾まで下って宿泊するつもりだったが、涸沢に着いたのは2時半。少し頑張れば5時に横尾に着けないことはないが、山でガンバリはケガの元。リスク最少自己管理が山の常識・マナーで、涸沢でもう1泊と決める。昨今は山小屋も予約が原則だが、事情があれば予約ナシで泊めてくれる。涸沢には小屋が2軒あり、前日は北穂登山口の小屋に泊まったが、小屋から北穂が見えなかった。この日は北穂が真正面に見える涸沢カール南端の小屋に泊めてもらう。

昼に山頂でラーメンを食べ残したが、夕食も半分食べたところで箸が止まった。山小屋のメシとしては上等な内容だが、ムリに食べると迷惑な状況を起こしそうなので、ここでも食べ残しを許してもらう。


8月27日(火) 涸沢 → 帰宅

前夜も6時に就寝、夜半にトイレに起き、朝4時までたっぷり寝た。朝食も食欲不振だったが、他に何も不調を感じない。極めて軽度の高度障害だろうが、血中酸素濃度を計るパルスオキシメーターを持参しなかったので、確認できず。

6時半に涸沢の小屋を出て、横尾、徳沢、明神と順調に歩き、昼に上高地着。河童橋脇の食堂で蕎麦を食べてシャトルバスで沢渡に下る。車を置かせてもらった宿で礼を言うと、サービスなので温泉をどうぞと言われる。遠慮なくひと風呂あびてサッパリ、眠気も出ずに快調に運転して夕方に千葉の自宅に帰着、無事に喜寿「本格登山」を終えた。

5:14 北東の谷の先に見える双耳は大天井岳と東天井岳?
北穂高岳の麓に涸沢小屋と涸沢のテント場。
5:25 奥穂高岳の南面に光。
白出コルに奥穂山荘。手前岩稜が奥穂登山道のザイテングラート。
奥穂から前穂への稜線。
涸沢岳と涸沢槍。
北穂の全身に光が回る。
涸沢槍から奥穂の稜線。
6:30 下山開始、北穂高岳に別れの挨拶。
奥穂高岳のこの景色は見納めになるかも。
ツリフネソウ。
オオホタルブクロ。

帰宅の翌日は筋肉痛も出なかったが、足爪を切っていて下肢が少しむくんでいるのに気づいた。月例の血圧検診時に検査してくれたが、同年代の医者は「問題ナシ、齢の割に元気でうらやましい」と診断、むくみも2日で消えた。

「年貢の納め時」か、「ゆっくり登ればまだイケる」のか、心が揺れる。90歳で富士山に登る人やエベレストを目指す老猛者もいるが、我々はかつて百名山を登ったというだけで、日頃山に入りびたるでもなく鍛えることもしない軟弱トレッカーにすぎず、山に執念を燃やしているわけではない。心肺能力は基礎体力のバロメーターとされるが、今回の北穂登山でも標高2300mで高度障害が残った。北海道の山でOKだったのは標高が2千mだったからで、その差300mのどこかに「しきい値」がある筈。そうと分れば3千m級の登山はムリと納得できる。「年貢」は分納にして、細々と隠居山歩きを続けることにしようか。