バリ島は日本から直行便が日に数便も飛ぶポピュラーな観光地らしい。「らしい」と書いたのは、小生の旅にはその実感がなかったから。日本人が多い観光地に行くと(自分を棚に上げて)日本人を避けたい気分になるが、バリ島では、日本人も日本人相手の商売も気にならなかった。
それには理由がある。ガイドをしてくれたのがバリ島に居を構える同級生で、日本人の団体との鉢合わせしないように旅程を組み、バリの人たちの普段の暮らしを重点に見せてくれた。おかげで短い滞在だったにもかかわらず(3日間、内1日はゴルフ)、バリ島のエッセンスに触れたような気がする。だが他人任せの旅の常で、どこをどう歩いたのか地理的な記憶が薄く、この記事を書くのに苦労している次第。
バリ島は赤道直下(南緯8度)だが、そんな感じがしない。訪れたのが7月(真冬?)だったせいかもしれぬが、日本の夏よりよほど過ごしやすく、標高1500mのブドゥグルなどはまるで軽井沢で、高原野菜の白菜やレタスが採れるのに驚いた。バリ島は面積が愛媛県ほどしかなく、爽やかな海風が島中を吹き渡るためだろう。
ものなりの豊かな土地に共通の特徴として、時間がゆったりと流れ、人々は悠々迫らず、先祖伝来の神々と共に生きている。ここで宗教オンチに疑問が湧く。インドネシアは世界最大のイスラム教国だが、バリ島だけヒンズー教が優勢なのは何故だろうか。そもそも一神教で偶像崇拝を厳しく禁じるイスラム教と、多神教で偶像オンパレードのヒンズー教とは水と油。圧倒的なイスラム勢力の中でバリ島にヒンズー教が残ったのには、何か特別な事情がある筈だ。
宗教オンチの独断と偏見で言えば、生きることがつらい風土では、唯一絶対の神が万物をしろしめす宗教が成り立ち、穏やかでものなりが豊かな風土では、個性豊かな神々と人間が和やかに共生する宗教が成り立つ。穏やかな風土に不似合いな一神教が広まったのは、世俗権力が宗教を統治のツールにした名残りではないだろうか。バリ島にイスラム教が浸透しなかったのは、この島の支配者が世話役的な小領主で、つらい人生を神様のせいにする必要も無く、人々は衣食足りてゆったり生きることが可能だったからではないだろうか。
そんなバリ島で爆弾テロが起きた。犯人はイスラム教原理主義を名乗るグループらしい。アメリカ人のたまり場に近付かなければ大丈夫と言うが、テロに巻き添えはつき物で、油断出来ない。バリの同級生の雇い人にイスラム教徒がいて、「犯人は反社会的なならず者集団(チンピラ)で、イスラム教徒を名乗る資格はない」と怒りを込めて語ったのが記憶に残る。思えば小生が米国で付き合ったイスラム教徒も温和な人たちばかりだった。テロ事件とイスラム全般を安易に結びつける風潮が、「自称イスラム教徒」を一層調子づかせるような気がする。
この旅で訪れた場所 (原地図:Google)
バリ島と日本の時差は-1時間で、その分早く目が覚める。窓の外が薄明るくなり、コテージから出てみると、波打ちぎわにイスラム姿の若い女性たちがたむろしていた。日が昇っても礼拝するでもなく、ホテルの従業員寮らしい建物に三々五々戻って行った。他所の島から働きに来る人たちはイスラム教徒なので、バリ島の観光業が繁盛すればする程、バリ島のイスラム人口が増えることになる。
インドネシアのイスラム教は戒律がゆるく、日に5回の礼拝をする人は少ないと聞く。一方のヒンズー教は、さまざまな行事が日常生活に風習として組み込まれている。毎朝自宅と街角の祠にお供え物を上げるのが一家の主婦の重要な役目で、祭礼の日などはてんてこまいになるという。日本人は宗教心が薄いと言われるが、折々につけ社寺に参ったり先祖の霊を祀ったりする風習が廃れたわけではない。一神教徒はこうしたアジア的信仰を「原始宗教」とバカにするらしいが、人類が自然と調和して平和に生きる上では、「原始宗教」の方が神の意に近いような気がする。
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バリ島中央部のウブドは、米作が中心ののどかな農村地帯だが、「芸術の村」と呼ばれるらしい。16世紀にジャワ島の王朝が崩壊して王侯貴族がバリ島に逃れ、その折にもたらされた王朝文化がこの島の文化的な基盤になった。やがて亡命王朝も衰退したが、19世紀にウブドの王(地方豪族)が「村おこし」で芸術振興を図り、絵描きや音楽家を集めたのが基になって、世界中から芸術家が来て住みつくようになったと言う。ウブドがバリ島で最も魅力ある村として観光客を集めているのは、150年前の為政者が「先を読み、手を打った」成果と言えよう。こんな王家の子孫なら住民は敬意を払い、多少立派な家に住み続けても不平を言わない。
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ウブドが「芸術の村」と言っても「奇抜さ」とは無縁。この村の「芸術」は、人々の日常が織りなす穏やかなたたずまいと見事に融けあっている。
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ジャワ島から渡来した権力者は競って寺院を建造したが、没落に伴って荒廃したという。我々が見学したダマン・アユン寺院は17世紀に建立され、19世紀に荒廃、20世紀になって再興されたもの。スポンサーが誰かを聞き忘れたが、繊細な多重塔の再建には相当なオカネがかかった筈。維持の人手とコストも大変だろうが、ぜひ頑張り続けて欲しい。
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バリ島で是非見たいものがあった。伝統芸能の「ケチャ」で、若い頃に日本人のグループが演ずるのを見て強く印象に残った。その時に見た「ケチャ」は、奏者が両手に竹竿を持って向かい合い、独特の速いリズムで竹竿を打ち鳴らすと、激しく動く竹竿を踊り手が巧みに跨ぎながら踊る。バリ島の友人に聞くと「ガムラン」なら劇場で毎晩やっているという。たぶんそれだろうと思って見物に出かけた。
情報が混乱しているのが分かった。伝統的な「ケチャ」はバリ島の呪術が舞踏劇化されたものだが、観光客向けに演じられる「ケチャ」は古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」を舞踏劇に脚色したもの。「ガムラン」はドラなどの打楽器で演奏する伝統音楽を指す。小生が「ケチャ」と思っていた「竹竿踊り」は「ケチャ」でも「ガムラン」でもなく、流行の創作パフォーマンスの一種らしい。
劇場で演じられたのは「観光ケチャ」だったが、それはそれで面白く見ごたえがあった。観光客に見せる「伝統芸能」がパフォーマンスになり、厳密な「伝承」から外れるのは止むを得ない面もあるが、正しく「伝承」されるべき方も崩れてしまうのが心配。
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バリ島の時間はゆったりと流れる、と書いたが、人々は決して怠け者ではない。バリ島の農業は水稲栽培が中心で、この農業が労働集約的であることは世界共通。加えてバリ島の平野部では季節を分かたずに稲作が可能で、田植えと草取りと稲刈りが同時に進行する。農作業に季節的な切れ間がなく、これでは「勤勉」が身に付かざるを得ないだろう。とは言えこの忙しさは「自然」が相手。オカネと時間に追われる現代社会の「焦燥感」とは違って、人の心を蝕むことはない。
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バリ島は火山島で、標高2000m級の火山が東西に並んでいる。中央部のサンギャン山(2093m)中腹のブドゥグルに一泊した。目的はガラにもなくゴルフ。冒頭に書いたように軽井沢を思わせる高原のリゾートで、立派なゴルフコースもある。小生は平素ゴルフを嗜まないが、バリ島の友人に強く勧められ、スコアを数えないでプレイさせてもらった。日本のゴルフ場はバブル時代に狭い国土と自然を傷つけ、公費接待所になったこともあって気が乗らなかったが、ゆとりのある自然の中でストレス抜きに遊ぶゴルフは、小生も嫌いではない。
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旅の締めくくりはジンバラン海岸の野外レストランでの夕食。ここで初めてバリ島がポピュラーな観光地と納得した。海浜にレストランが軒を並べ、砂浜の数百のテーブルが日暮れと共に満席になり、波頭にさざめく太陽の残り火と潮風がビールと魚介に最上の味付けをしてくれる。
それが恩師との「最後の晩餐」になった。実はこの旅は、難病にとりつかれた中学時代の恩師とご家族の旅行に同行させてもらったのである(小生は急用で繰上げ帰国したが)。前年のクラス会で難病の告知を語られ、バリ島在住の教え子に冗談半分で「冥土の土産に」と言われたのがきっかけで、この旅が実現した。バリ島での先生は病人とも見えず、元気一杯に旅を楽しまれたが、旅の2ヶ月後に再入院、4ヶ月後に亡くなられた。旅が寿命を縮めたかもしれないが、病床で「冥土の土産」を喜んでおられたとお聞きして、恩師に人生の終わり方まで教えていただいたような気がしている。
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