北インドのダージリン・シッキム地方とブータン王国を巡る旅をした。「ブータンを早く見せろ」とのお声があり、旅程と逆になるが、先ずこのユニークな王国を前後2篇でレポートしたい。
旅に出発したのは東日本大震災の前日。3月11日夕刻ダージリンに着き、ホテルでBBCニュースを見て仰天した。ツァー参加者の家族の無事を確認して旅を続けたが、行く先々で現地のテレビが流し続ける映像に釘付けになった。絶対大丈夫だった筈の防潮堤を漁船が乗り越え、絶対安全だった筈の原発が吹き飛ぶのを見ると、人間の小賢しい「想定」や「高度技術」など、自然が秘めたパワーの前に全く無力と思い知らされる。その一方で、近代文明から置き忘れられたような山村のあちこちで、地震・津波の被害と原発事故へのお見舞いの言葉をもらったことも、忘れられぬ旅の思い出になった。
ブータンはヒマラヤ山中の人口70万の小国。大国のインドと中国に挟まれ、人種・文化的に近いネパールとも微妙な関係にあって、今にも踏みつぶされそうだが、独立国としての威厳を保ち、最貧国でありながら、「世界一幸福な国」を自他共に認めるという、誠に不思議な国である。不思議の源泉は、伝統文化の継承を国是に掲げた歴代賢君の親政にあると聞くが、その辺りは続編で考えてみたい。
今回のブータン旅行の目玉は伝統行事の「チェチュ」見学。ヒマラヤ地方にチベット仏教を伝えたパドマサンババ師を讃える法要で、師の布教の様子を再現し、無学な村人に分かりやすく仏教の教えを説く行事でもある。チェチュは「10日の祭り」を意味し、師が顕した12の秘跡の全てが月齢10日に起きたことに因むという。月齢10日から満月までの5日間にわたって執り行われ、開催時期は僧院によって異なるが、中でも大規模なパロのチェチュは、本年は太陽暦の3月15日~19日に開催。我々は旅程の制約もあって、4日目と5日目のハイライト部分だけ見せてもらった。
黄色線はバスで移動したルート、赤点はツァーで訪れた場所
外国人がブータンに入国するルートは事実上2つしかない。1つはブータン唯一の空港パロから。ブータンの航空会社ドゥルク航空がバンコク、ダッカ、カトマンズと結んでいるが、パロ空港の気象条件が厳しく、予定通りに飛べないことが多いという。もう1つは北インドから陸路でプンツォリンに入るルートで、時間はかかるが予定は立ちやすい。我々も北インドのシッキムから陸路でブータンに入った。
インドのジャイガオンで出国手続きをして国境の門をくぐったとたん、インド亜大陸の熱気と人酔いしそうな雑踏が消え、穏やかな空気に包まれる。プンツォリンのホテルはスイートルームで、秘境ブータンに来たことを忘れてしまいそうだ。翌朝プンツォリンを出発、照葉樹林の中を一気に高度を上げる。
ブータンは鎖国こそ解いたものの、観光客を含めて外国人の入国を厳しく制限しており、街道筋に頻繁に設けられた検問所で厳しいチェックを受ける。本意は周辺のインド、ネパール、チベットの反政府運動家の潜入と難民の流入防止にあるらしいが、検問所を過ぎればのどかな山村風景に戻る。
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パロのチェチュは大規模で見ごたえがあるが、近郷近在や外国人の見物客で大混雑し、じっくり楽しめないという。パロに向かう途中のツィマポチ村でもチェチュ開催中と分かり、バスを止めてチェチュ見学の「予行演習」をさせてもらった。
ツィマポチは標高2000mにある山腹の小さな村。チェチュ会場の広場にテントが立ち、村人が集まって和気あいあいと見物する光景は、日本の分教場の運動会を連想させる。ラッパと太鼓の間延びしたお囃子に合わせ、色鮮やかな衣装が穏やかに時に激しく舞う。群舞は不揃いだが、動作をキチンと合せることは念頭に無さそうだ。立ち入り自由の会場を撮り回っている内に集合時間になったが、素朴な山村の祭りをもう少し見ていたい気分だった。。
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ブータンは今も政教一致の国。各地方の中心地に郡役所と僧院を兼ねる「ゾン」が置かれ、多くの僧侶が起居し、役所の仕事も僧侶が執る。チェチュはゾンの広場で行われる。パロの会場は数千人を収容できるが、ビッシリの観客で「かぶりつき」に入り込む余地は無く、丘上の外野席(?)から超望遠で演者を追った。
我々が見学した4日目午前の演目は「鹿の舞」のようで、面をつけた僧侶たちが勇壮に舞い踊る。ソロの見せどころで歓声が沸き、道化役が卑猥な動作で見物客をからかって盛り上げる。やがて巨大な閻魔大王が担ぎ出され、広場を練り歩いて正面に据えられる。これから大王の裁きが始まるところだが、我々は次の観光予定があり、チェチュ見学はここまで。
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チェチュ最終日(5日目)、早朝3時に会場に着くと、若者がゾンからトンドルを担ぎ出すところだった。暗闇の中でこの日の為に買い替えた一眼デジカメを超高感度モードにした。
トンドルは釈迦を中心に描いた布製の巨大な仏画(来迎図?)で、年に一度だけ開帳される。30人ほどの村人で包みを解き、縦20m、横30mの壁の前に展開して静かに吊り上げる。釈迦像が現れると僧侶と村人が礼拝を始め、五体投地する人もいる。トンドルの前の祭壇に燈明が灯り、護摩が焚かれ、村人が列を作ってトンドルの前に進み、額に触れて祈る。
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8世紀にチベットからこの地に仏教を伝えたパドマサンババ師は、虎の背に乗って空を飛んで来たという。師が瞑想した岩棚に僧院が建てられたのは17世紀。その時代、垂直な崖にどうやって資材を運び入れて建てたのだろうか。当時の僧院は1998年に不審火で焼失し、現在の建物は2004年に再建されたものだが、それでも感嘆に値する。
ブータンの僧院は今も宗教施設として戒律が保たれ、観光の対象ではない。特にタクッアン僧院は厳しく、ガイドブックには外国人参詣不可とあるが、我々は奥院まで入山出来た。但し標高差600mの急坂に加え、800段の狭い石段を往復せねばならず、途中の展望台(茶屋もある)で折り返す人が大半。
2時間登って奥院に着き、入口で荷物を預け(カメラは勿論禁止)、脱帽脱靴、ボデイチェックを受けて入堂。岩棚に巧みに嵌め込まれた堂を巡って最奥の本堂に入ると、本尊の脇に坐した老僧が黙々と経典を繰っていた。
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パロは標高2300mの盆地にある。山深いブータンではこれでも平地の多い方で、ブータン唯一の空港もパロに作られた。人口は2万人くらいか?標高は北海道の大雪山頂(2290m)より高いが、昔から棚田が拓かれて農業が盛ん。その富がパロを豊かにし、大勢の僧侶の生活を支え、大規模なチェチュの開催を可能にして来た。
ブータンの農業近代化に貢献した日本人がいる。西岡京治氏は1964年にJICA専門家としてブータンに派遣され、日本式農業の普及に努めた。当初は保守的なブータン人の抵抗に遭ったが、伝統文化との融合を図ることで次第に支持者を増やし、ブータン農業の父と崇められるまでになった。1980年に外国人として最初で最後のダショー(勲一等に相当)を受章、1992年にこの地に骨を埋めた。氏の業績を顕彰する仏塔(チョルテン)がパロの町と棚田を見下ろす丘に立っている。小生もJICAボランテイアOBとして西岡氏の苦労が想像できなくもないが、努力の質・量は全く足元にも及ばない。
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