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中国 各地   (訪問した時:1996~2004年、 記事のアップ:2011/4/1)

1月の記事で、中国と米国の地理的条件が似ていると書いた。信じない読者がおられたが、下図のように同縮尺・同緯度で地図を重ねると、米国の大陸部分(アラスカ、ハワイを除く)が中国とピッタリ重なる。中国の領土面積は9,596千平方Km、米国は9,827千平方Km(アラスカ、ハワイを含む)で、差は2%。緯度も同じと納得していただけるだろう。

中国の国土は広いが、西側の3/4は高原と砂漠に少数民族が点在するだけで、14億の人口の92%を占める漢民族は、東の沿岸部に集中している。この地域を訪れて強く感じるのは、とにかく「人が多い」こと。夜明けと共に路上に人が湧き出すのを見ると、中国政府が危機感を持って「一人っ子政策」を推進し、「一党支配するしかナイ」と悲壮感を強めるのも、ムリも無い、と思えてくる。

一党支配を弁護するつもりは無いが、中国の近代化の環境は日本の明治維新よりも厳しく、「国民」という概念を具体化できたのは毛沢東以降ではなかっただろうか。それまでの「国」は争いに明け暮れるのみで、「民」にとって「国」は税と兵役を科すだけの疫病神だった。「国」の主が替わっても疫病神のタチが悪くなるだけで、「民」は「国」にそっぽを向く状況が2千年続いたのではないか。そんな「国」が西欧の列強に伍せる筈が無く、毛沢東が「国」を再興するにあたって、「国」の目指す方向に「民」を巻き込む事が先決と考え、強引に「毛語録」で啓発したようにも見える。

「文化大革命」の反動で一党支配のドグマ主義が薄れ、米国以上に「何でもアリ」の市場経済で成長を続ける中国だが、組織の末端では、虎の威を借りた手あいが「葵のご紋が見えないか!」とばかりに現場を仕切るらしい。そうなると、中国伝統の「人治主義」(コネ)と「何でもアリ」が相乗して、ウラの利権構造が肥大する。汚職は政治体制の如何を問わないらしいが、一党支配下の方が隠れ場所が多いかもない。そんな輩には「即死刑」の厳罰主義など畏れるに足らない。

毛沢東後は「実力主義」で権力層の世代交代も進み、いわゆる「独裁国家」とは異なる道を進んでいようにも見えるが、「特権階級」に甘い汁が集中する社会は、いずれ腐敗・崩壊するのが世の定め。マルクスが説いた社会体制に「特権階級」など生じない筈だが、一党支配に都合の良い理論だけつまみ食いされ、否定した筈の市場経済の暴走まで見せられて、知らぬ間に名義貸しさせられたマルクスは、さぞ面喰っていることだろう。


中国とアメリカ合衆国大陸部分(輪郭) (元の地図:Google)


北京(ベイジン)

小生が北京を訪れたのは1996年と2002年。その頃の北京は発展途上国「丸出し」で、表通りにはハデなビルが立っていても、一歩裏に入ると「スラム」と呼ぶしかない貧しげな居住区が目に付いた。だが、東京が1964年のオリンピックを機に大変身したように、北京も2008年を境に大変貌を遂げたに違いない。

96年に出張の折、天安門近くの北京鴨料理店で、香港人の接待に与ったことがある。招待側(中国人)の人数が外国人客より少ないとダメとの規則がある由で、北京在住の友人を呼んで数合せまでしてくれた。建物は校舎風で質素だったが、味はさすがで、普段は鳥料理を敬遠する小生が給仕されるままに全部平らげ、酒精度53°の芽台酒もサラサラと喉を通った。帰ろうとすると、政府高官の車が去るまで待てと止められ、ご馳走になったのがそういう場所と知った。

天安門。毛沢東の肖像は今も掲げられているらしい。
天安門広場と毛沢東記念堂。
ホテルの窓から。立体交差の立派な交差点。
北京の銀座にあたる王府井(ワンフーチン)大街の百貨店。
屋台店が並ぶ。ゲジゲジ串焼、ヤモリ姿焼などのゲテモノも。


故宮博物館

金曜の午後、用件を早目に切り上げ、閉館間際の故宮博物館に急いだ。天安門をくぐると、映画「ラストエンペラー」で見た「紫禁城」があった。東西600m、南北800mの城域は、旧江戸城より少し広い。旧江戸城は自然豊かで今も高貴な方が住まわれるが、人工空間の旧紫禁城は「もぬけのカラ」。王宮を飾っていた宝物は、日本軍の進攻時に国民政府が南京へ、更に四川省へと退避させ、その後の国共内戦で台湾に運ばれ、今は台北の故宮博物院にあるという。北京故宮が「もぬけのカラ」になった原因は、日本が作ったらしい。

大和殿。重要な儀式が行われた正殿で、中央奥に玉座がある。
急いで歩きまわったので、どこで何を撮ったのか記憶にない。
奥まった居住区には小さな建屋がゴチャゴチャとあり、方向を失って迷子になった。


万里の長城

遼東半島の付け根から西域の嘉峪関まで、総延長8851kmの城壁が続く。英語で「the Great Wall」は「無用の長物」を意味し、実効性の薄い投資を揶揄する時に使うらしい(小生も言われたことがある)。2千年前に始皇帝が長城を築き始めた頃は、異民族の兵馬を防ぐ軍事施設として機能したのだろうが、明王朝が改築・強化した頃は、戦いの道具が兵馬から火薬に代わり、長城の軍事的実効性は失われていた。

明王朝がムダを承知で「無用の長物」に大金を投じたとは思えない。軍備の目的は外敵と戦うことと考えがちだが、実際には、現体制維持の為に自国民に対して行使されるケースの方が多いし、軍備が「国威発揚」の道具であることは、一党支配国家のパレードを見れば分かる。「圧政」で歴史に名を残した明王朝の万里長城への投資も、「国威発揚」と「内乱抑制」の内政が目的だったに違いない。

北京から八達峯の展望台まで1時間足らず。帰国のフライトが土曜昼だったので、タクシーと交渉して遠回りしてもらった。
数百メートル毎に築かれた見張所。中に兵士のたまり場がある。城壁見学には登山並みの体力が要る。


ケーブル、馬、ラクダなど観光業も盛ん。



上海(シャンハイ)

上海には数回出張したが、毎度少々変わった用事で、下町の零細商店や職人の仕事場を見て歩いたり、アパートを物色したりした。行き先は現地に詳しい同僚任せだったので、市内の地理が頭に入っていない。

上海で感じたのは、とにかく旺盛な中国人庶民の生命力。一生懸命に働き、大声を出し、食う。当時の庶民生活は安上がりで、簡易食堂では朝食が10円、夕食が100円くらいだった。万博後の上海は、庶民にとってさぞ暮らし難い町になってしまったことだろう。

朝の通勤ラッシュ。交通信号は守られているようだ。
上記の交差点脇の簡易食堂。中心街にもこんな風景が残っていた。
裏通りの庶民市場。

夜明けと共に太極拳が始まる。
朝の通勤時、人が湧き出てくる。
早朝で人通りがないが、秋葉原の電器街のような所だろうか。
説明するまでもないが、米国の底力を感じる。
下町で開店祝いの爆竹に出会った。



武漢(ウーファン)

中国の「ヘソ」に位置し、市の中央部を長江(揚子江)が流れ、1911年の辛亥革命で孫文率いる国民党が中華民国の建国を宣言した都市として知られる。今も人口1千万を擁する重要都市だが、小生が訪れた1998年頃は日本企業の進出は稀で、日本料理店も日本食材店も無く、長期出張の同僚は日本風ラーメンやカレーライスに飢えていた。最近の状況を知りたくてネットを調べたら、100社近い日本企業が進出し、日本商工クラブも出来て活発に活動しているようだ。

長江の橋のたもとの楼閣。黄鶴楼と思うが自信なし。
ホテルの窓の下。露店風の小さなさなカラオケ屋もあった。
戦国の英雄像だろうが、どこで撮ったか不明。
東湖を見下ろす磨山の楚天台。
東湖の夕暮れ。



深圳(シンセン)・東莞(ドンガン)

1980年の改革開放で、香港に隣接する深圳が経済特区に指定された。日本の高度成長がフル回転していた頃で、メーカーは先を争って進出し、生産拠点を築いた。中国の若年女性労働者の技能は、日本人よりも優秀という評判が立ち、日本国内の製造業は一挙に空洞化した。

香港返還の頃、深圳は製造業から商業・金融・サービス業へと変身し、製造業は少し内陸の東莞に移った。2002年に東莞を訪れて知ったことがある、中国のハイテク産業は台湾人が仕切っていて、外交的には仮想敵国同士の台・中が、商売ではアウンの呼吸で完全に一体協業していた。加えて、日本のトップメーカーが、製品の設計も含め、中国側に「完全丸投げ」している実態も知った。昨今は中国名のブランドが世界市場で定着しつつある。日本の製造業に「立つ瀬」は残っているのだろうか。

高速道路で深圳市街に入った。
深圳の繁華街
ケイタイの広告も結構あかぬけている。
東莞の工場群。工場裏に従業員寮が立ち並ぶ。
中国ではカネが出来ると先ずこの種の楼閣を建てるらしい。



香港(ホンコン)

1996年に香港に初めて出張した時の緊張感を今も憶えている。今は閉鎖された啓徳空港に、ジャンボ機が翼端で高層ビルをなでるように着陸するのが凄かったし、ホテルまでの雑踏も凄かった。高層ビルの谷間の暗闇が怪しかったし、街路にビッシリと軒を並べた狭い間口の商店や、店頭のまがまがしい商品にも圧倒された。

圧巻は九龍のホテルからの香港島の眺めだった。当時は返還直前で「灯が消えたようだ」と言われていたが、それでもマンハッタンに負けない摩天楼と、派手なネオンのキラメキがあった。特に目立ったのが日本企業の広告塔で、中に小生の本籍があった会社のものもあった。

現代の常識で考えると、昔の列強国の傍若無人さは想像を絶する。中国から茶、陶磁器、絹を大量輸入した英国は、貿易赤字の穴を中国への阿片貿易で埋めていた。清国政府が阿片を輸入禁止にすると、言いがかりをつけて「阿片戦争」を仕掛け、戦利品として香港を分捕ったのだから、ひどい話である。英国人は何かと足かせの多い本国でのウサを晴らす如く、植民地にした香港で思う存分にカネモウケをしたらしい。

返還前後に一時沈滞した香港だが、2003年の最後の出張で見た香港には、「何でもアリ」のバイタリテイが戻っていた。中国政府は香港を注意深く別管理下に置きつつ、バイタリテイのメカニズムを本土に移植中のように見える。

1998年7月に閉鎖された啓徳空港。離着陸が世界一難しい空港と言われた。
九龍から朝の香港島を望む。スターフェリーが頻繁に往復する。
夕暮れの香港島。
香港仔(アバデイーン)。水上生活者が多い地区。


 
香港島のメインストリート。英国流の二階建バスだけでなく、路面電車も二階建。
ヴィクトリアピークに登るケーブルカー。丘の斜面に住む住民の足でもある。
ヴィクトリアピークからの眺め。


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