インド旅行の経験者は、はまってリピータになる人と、二度と行きたくない人の両極端に分かれるという。前者は文明発祥の深奥と混沌たる人間模様に興味をそそられた人、後者は眼をそむけたくなる貧困と非衛生に辟易した人、と想像がつくが、何れにしても、インドの「毒」はかなり強いようだ。
今回訪れたインド北部のダージリン地方は、インドの中では特異な地域で、住民の8割がネパール系。日常言語がネパール語、宗教はチベット仏教で、アーリア系の「インド人」とは人種的・文化的に異なる。その為か、インド的な「毒」は強くないが、反面、ネパール系や他の少数民族による反政府活動・独立運動が根強く、この地域はインド政府にとって「トゲ」のような存在であるらしい。
ダージリンはシッキム王国領内の小さな村だったが、1835年に英国東インド会社が譲渡を受け、英国人入植者の保養地として開発した。標高2140mのダージリンは冷涼で、ヒマラヤの景観にも優れている。加えて気候が茶の栽培に適しているため、中国に代わる茶の供給地としての開拓も急速に進んだ。その労働力として、隣国のネパール人が大量に駆り出されたのである。170年後の今日、大英帝国の遺産は世界的観光地・高級紅茶産地のダージリンとして継承され、ネパール系移民子孫の生活を支え続けている。
労働移民が被差別的な立場に置かれ、経済成長で格差が顕著になると、民族的対立となって暴発しかねないのは、多民族国家に共通の悩み。インドの場合、これにチベット族・対中国の外交問題も絡まって複雑さを増す。身動きままならぬ中で物事を進めるのが政治の仕事だが、某国では一番面倒な国内の民族対立が無いのに、騒々しいばかりで物事が一向に進まない。政府の質は国民の成熟度に比例すると言われるが、若い頃の苦労が足りなかったのだろうか・・・
ダージリンは標高2140mの尾根の脊梁部にある (原地図:Google)
インド的混沌を象徴する都市「カルカッタ」は、2001年にベンガル語の「コルカタ」に変わった。今回の旅では深夜着・早朝発で素通り同然で、インド的混沌を味わう機会はなかったが、ホテル周辺と空港への車窓で見た限りでは、コルカタは「巨大スラム」の印象を免れない。中国と共に経済成長の著しいインドだが、政治的に不安定な西ベンガルの州都は、発展から取り残されているのかもしれない。
コルカタから国内線で1時間、ヒマラヤ南麓のバグドグラに到着。ヒマラヤ中腹のダージリンまで通常はバスで3時間程だが、大雨で土砂崩れがあった由で、ネパール国境沿いの田舎道を5時間かけて登った。ガタガタ・クネクネの山道は疲れるが、沿線の人々の暮らしが見える分、旅の収穫は豊かになる。山道にさしかかると茶畑が切れ目なく続く。庭師が手入れしたような日本の茶畑に比べると粗放だが、視界の届く限りの山肌が全て茶畑で覆われているのは、それなりに壮観である。
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今回参加したのは一般の観光ツァーだが、早朝のカンチェンジュンガ展望にこだわった企画が嬉しい。カンチェンジュンガは世界第三位の高峰(標高8548m)で、写真屋の間では「カンチ」の通称で人気の山なのだ。山の写真は万馬券のようなもので、何度もトライしてチャンスに1度恵まれるかどうか。1回目はダージリン到着の翌朝4:00にジープに分乗して出発。南へ1時間のタイガーヒルは、ヒマラヤの名山を一望する屈指のポイントで、条件が良ければエべレスト、マナスルも見えるという。
早起きの功徳で展望ビル(?)最上階の窓際ソファを確保できたが、写真屋は楽が出来ない。広場に下りて北面の角地に三脚を据え、寒さに耐えつつ日の出を待つ。星明りに白峰がほのかに浮かび、期待感が湧く。山頂部がピンクに染まり始め、息を止めて最初のシャッターを押す。霞が邪魔をしてスッキリ見えないが、デジタル処理で何とかなるかもしれない。
気が付くと広場は観光客で満員。コーヒー売りの子供がつきまとうが、それどころではない。カメラを振りレンズを換えピントを確かめ露出を動かし、とにかく30分一本勝負なのだ。太陽が昇って足元が明るくなると写真屋の時間が終わる。低い角度で射した光が春霞に乱反射して全体が青っぽく滲んで、成果はイマイチ。2回目以降に望みをつなぐことにしよう。
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ダージリンの発祥は英国人入植者の保養地だが、高級リゾートではなかったようだ。金持ちは本国に帰省するか地中海の保養地に行き、ダージリンには中流以下が病気療養に訪れたらしい。そんなことを知ると、ゴチャゴチャ輻輳した狭い路地にパッとしない建物が軒を接し、開拓村のような貧乏くささが漂うダージリンの生い立ちが、何となく分かるような気がしてくる。
ダージリンの現人口は10万。尾根上の住民は観光業がらみで暮らしていると考えてよいだろう。尾根を少し下った茶畑の労働者は、農園内の小屋に住み込むようだ。午前中に摘み取った茶葉を工場に集め、生乾きにして機械で揉むと自然に醗酵し、程よく熟成したところで熱風乾燥・選別して出荷する。この全工程がわずか3日とは意外だった。最高級紅茶をダージリン流の淹れ方で試飲させてもらったが、ほんのりと香りはするものの、色と味は白湯の如しで、何となく物足りないのは、日頃安い渋茶を飲み慣れているせいだろうか。
地図ではダージリン市街からもカンチが見える筈。2日目早朝、三脚・カメラを担いで出かけた。薄暗い中を散歩やジョギングの人たちが行き交う。市街の北端に小さい展望台があり、ベンチにオジサンが3人座り込んでいる。ホームレスではないようなので、小生も仲間入りして日の出を待つ。白峰がピンクに染まり始め、小生は撮影作業開始、オジサンたちは太陽に向かって礼拝を始めた。この日も春霞が濃く、肝心のカンチ本体は雲に隠れたままだった。
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「小鉄チャン」を自認する小生は鉄道体験も旅の楽しみの一つ。ダージリン・ヒマラヤ鉄道はユネスコ文化遺産で、ヒマラヤ南麓とダージリンを結ぶ標高差2千m、総延長88kmの登山鉄道。1879年に着工してわずか3年で全線開通した。1872年に日本最初の鉄道を新橋ー横浜間に開通させたのも英国。大英帝国絶頂期の余韻が残っていた時代である。
鉄道建設の目的はダージリン産の茶と保養客の輸送。開通を急いだため、馬車道の脇に軌間610mmのトロッコ線路を敷き、オモチャのような小型蒸気機関車(SL)にマッチ箱のような客車・貨車を引かせ、その様子から「トイ・トレイン」の愛称が付いた。速度は馬車より少し早い程度だが、輸送力は当時としては画期的だったことだろう。
創業当時のSLが130年後も現役で走っている。小さいボイラーを水タンクと石炭庫が跨ぐ珍しい構造(サドルタンク式)で、出力は200馬力くらいか。急勾配・急カーブの連続なので、機関士、助士の他に、先頭部で線路に砂をまいてスリップを防ぐ要員が2名乗る。現在はSLの運用はダージリン~グーム間の観光列車だけで、全区間を走る列車は小型ディーゼル機関車が引くようだ。
SLが引く列車に乗るだけで嬉しい「乗り鉄」もいるが、「撮り鉄」は煙を吐いて力行するSLを撮らないと気が済まない。自分専用のアシと自由時間が無いので諦めていたが、バスで移動中にSL列車とスレ違い、走行中の姿を1枚だけカメラに収めることが出来た。
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登山は元来個人的な「遊び」の筈だが、初期のヒマラヤ登山は国威高揚の「国家プロジェクト」にされた。英国は南極点・北極点初踏破を逃したリベンジを賭け、1921年からエベレストに遠征隊を送り続けた。1953年5月、エリザベス女王の戴冠式に合せて初登頂に成功、山頂に立ったのはエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイ・シェルパだった。
テンジンはネパールのクーンプ(エベレストの麓)出身とされたが、本当はチベット生まれだったらしい。中国に配慮して真相を秘したようだ。少年時代に家を出てダージリンのシェルパ族集落に住みつく。1930年代から英国エベレスト登山隊のポーターとして働き、7度目の1953年に世界最高点に立った。インド政府はテンジンを「インドの英雄」として遇し、インド人登山家を育成する登山学校をダージリンに開設、その初代校長に迎えた。テンジンの生涯は、英国・インド・ネパール・チベット・中国の複雑な関係を象徴するようだ。
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仏教発祥の地はインド亜大陸の北東部で、ダージリンからさほど遠くない。その地域の仏教がチベットから逆流して来たのは何だかヘンだが、原始仏教の時代、この地方には人が住んで居らず、8世紀にチベット人とチベット仏教がこの地に入って来たと考えれば、理屈は合う。しかし、現在の住民の大半は19世紀以降に流入したネパール人だが、何故彼等が本国伝統のヒンズー教からチベット仏教に転じたのか、疑問が生ずる。
宗教オンチに、もう一つ分からないことがある。日本では、金箔や塗色が失われて地肌の露出した仏様が尊ばれるが、外国の仏様は例外なくキンキラ・厚化粧。古びて色が褪せると「新品同様」に修復するのが信徒の努めらしい。日本でも奈良・平安の頃はキンキラ・厚化粧だったそうだが、大仏様の金箔を張り替えたという話は聞いたことがない。
仏像だけでなく神社仏閣の建物も同様で(伊勢神宮は別として)、補修の際に「古さ」を出すのが宮大工のワザだという。それが日本人特有の美意識、ワビ・サビの心と聞くが、何故そうなったのだろう?「オカネが無くて」という理由ではなさそうだが、どなたか、歴史・宗教オンチに分かるように教えていただけると有り難い。(当サイト掲示板があります)
(日本にもキンキラ神社があった。右:茨城県 加波山「たばこ神社」)
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ダージリン→グームから東へ2時間ほど走ると、標高が1000m下がり、気候が高原から亜熱帯に変わる。カリンポンはチベット交易で発展した町と聞き、シルクロード時代の話かと思ったら、ダージリン同様、19世紀に英国人が来てからの由。大繁盛したらしいが、チベットと何を売買したのか聞き忘れた。1959年に中国とインドの間で国境紛争(いわゆる中印戦争)が勃発、カリンポンは交易所としての役割を失い、寂れたという。我々が訪れたカリンポンはダージリンに負けない賑わいだったが、何で復興したのかも聞き忘れた。
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