後期高齢も2年目になり、山で遭難して世間様にご迷惑をおかけしない内に、そろそろ自粛モードに入ろうかと思い始めたのだが、幸いつれあい共々元気で痛いところもなく、未練がましい。昨年はツアー不成立だったキリマンジャロ登山が今年は催行決定と誘いがあったが、標高5895mと旅費(2人で百ン十万円)を考え併せると決心が鈍る。そんな時に見つけたのが「キナバル ゆっくり登頂」というツアーである。
キナバル山はマレーシアのボルネオ島にある標高4095mの独立峰で、山頂の岩峰群の奇景と共に、赤道直下の熱帯雨林と高山植物が共存する山として知られる。標高が4千mを超える山で、登攀技術や装備を持たないシロウトでも安全に登頂できる山は、世界に数える程しかなく、その点でもキナバルは貴重な存在だが、難点が一つある。5千m経験者として4095mの標高にはビビらないが、登山口と山頂の標高差(約2300m)がなかなか手ごわいのだ。
登りは途中の小屋で泊るので何とかなるにしても、翌早朝に820m登って登頂した後、登山口まで標高差2300mを一気に下るのが一般的な行程で、下りに苦手意識の強い小生は二の足を踏む。下りは息がきれないのでバテないと思いがちだが、脚の筋肉の使い方にムリがあり(筋肉が伸びた状態で強い負荷をかける)、疲労が急激に進行する。ヘバッタと自覚した時はもう極限状態で、だから山の事故や怪我は下りの方が起きやすいのだ。この点「ゆっくり登頂」は、登頂後に小屋でもう一泊して下山するので、疲労の蓄積が避けられる。費用はその分余計にかかるが、後期高齢者は安全第一。これならダイジョウブだろうと行く気になった。
マレーシアは初めて訪れる。ちょっと調べてみるとなかなか興味深い国だが、着いた翌朝山に入って下山翌日帰国の登山オンリー旅程で、超近代都市と言われる首都クアラルンプールも素通り。最小限の知識だけでも頭に入れておくと、人口は35百万でマレー系、中国系、インド系の多民族国家。国土はマレー半島とボルネオ島に分かれ、独立前は半島は英国植民地、ボルネオ島は英国自治領だったが、1942年~45年に日本の占領時代があった。一人当たりGDP27,300ドルは日本の約7割だが、資源国で且つ成長率も高く、追いつかれるのは時間の問題。貿易相手国は中国、シンガポール、米国、日本、タイ等にバランスよく分散し、それを反映してか、外交政策も夫々に適当な距離感を保っているようだ(2月の金正男事件迄は北朝鮮とも友好関係にあった)。緊張が高まる世界情勢の中で、アジアの非同盟国が、世界の調停役として平和に貢献することも期待できそうだ(日本はその役目からますます遠ざかっているが)。
map: google
ボルネオ島のコタキナバルへは直行便(週2便)もあるが、我々はクアラルンプール経由で飛んだ。 マレーシア航空の成田→クアラルンプール便は最新鋭のA380型(総2階建)。定刻にゲートを離れたが誘導路で立ち往生し、部品交換して2時間遅れで離陸した。クアラルンプールで乗継便に間に合わず、到着ゲートで次の便のボーデイングパスを渡されたが、その便も1時間遅れ、大雨で荒れ模様のコタキナバルに着陸したのは深夜12時、ホテルにチェックインして寝たのは2時を過ぎていた。5月のチベットツアーでも出鼻をくじかれたので、旅の神様に見放された気分になる。
クアラルンプールで合流予定だった関空発の参加者は、予定の便に乗れたが、コタキナバルが荒天で着陸出来ず、ミリ空港に迂回して天候回復を待ち、コタキナバル着は朝4時だったという(我々も乗り継ぎに間に合っていたら、同じ目に遭っていた)。14日の下山時に出合った他のグループは、11日に乗る予定だった成田→コタキナバル直行便が欠航、1日遅れでコタキナバルに入ったが、12日の登山許可が無効になり、入山料と諸費用を2度払いして13日に登った由(我々は直行便でなくて良かった!)。それ程11日のコタキナバルの天候は悪かったようで、少し回復した深夜にタイミング良く着陸出来た我々は、むしろラッキーだったことになる。
朝7時にホテル出発。明け方に着いた関空組は一休みする間もなかった筈だが、疲れを見せないのは我々より少し若いからだろう(ツアー参加7名中、我々が最年長)。コタキナバルからキナバル国立公園まで車で2時間、前日から続く雨の中を走る。道路はサバ州の州都コタキナバルと第2の都市サンダカンを結ぶ幹線で、郊外まで片側2車線が伸び、交通量はかなり多い。山道にさしかかると片側1車線になり、重量物を積んだトラックを追い抜きながら、予定どおりキナバル国立公園本部(標高1564m)に到着。
事務所で入山手続きをして登山許可証(右)をもらう。入山者の数は山小屋の収容人数(4軒で120人ほど)がリミットで、予約した登山日の変更は不可。山岳ガイドの同行が必須で(ガイド1人にトレッカー5人迄)、ポーター雇用も通例らしい。登山者の安全確保に加え、地元住民の雇用も配慮したルールだろう。我々のグループはトレッカー7名(男3女4、添乗員ナシ)に日本語ガイド(現地人女性)、山岳ガイド2名(1名はポーター兼)、ポーター1名(女性)の計11名。
入山料(約6千円)は、登山道の整備・監視、登山者救護やトイレの整備保守等の費用負担に加え、下山後に公園本部のレストランで供される豪華ランチも込みなので、高いとは言えない。日本では登山は原則無料で、富士山が「保全協力金」の名目で1人1千円を徴収し始めたが、支払いは任意で、すり抜ける登山者が少なくない。登山道の整備、遭難者の救助やトイレ問題は山小屋の所有者に委ねられたかたちで、これが山小屋の経営を圧迫し、外国の山小屋に比べて料金が高く、且つ設備やサービスの質が劣る原因とも言われている。
何事につけて政府の関与を嫌う米国でさえ、全ての国立公園を完全国有化し、連邦政府が直接管理運営しているのを見るにつけ(ホテル、レストラン、土産物屋の経営も含め)、日本の山岳行政が「民間主導」で丸投げなのは、単に政府が無為無策なだけではないかと思えてくる。日本では戦後に登山の大衆化という他国にない現象が起き、対応が後手後手になって成り行き任せに流れた上、既得権益が最優先する政治風土も、「民間主導・丸投げ」に影響しているのだろう。
閑話休題。公園本部に旅のトランクを預け、着替え等の荷物はポーターに委ね(一人5Kgまで)、自分は弁当と水を担ぎ(小生は重いカメラも)、シャトルバスで1866mの登山口まで運んでもらう。雨具を着て、ゲートで許可証のチェックを受け、10:00登山開始。雨脚は依然強く、カメラはザックの奥深く仕舞い込むしかない。そんなわけで登山途中の写真がない(防水コンデジを買うべきだったと反省)。
ゲートを出ると先ず急な下り。帰路は最後の急登になるので、イヤだなと思いつつ下ると立派な滝があり、滝を過ぎると本格的な登りが始まる。急な場所には石段や木の階段に手すりが設けられ、足元が危険な箇所はない。日本ではこれほど整備の行き届いた登山道を見たことがない(ニュージーランドのミルフォードトラックに匹敵)。500m毎に現在位置を示す標識が立ち、疲れたなと思った頃、あずまやの休憩所(水洗トイレ付き)がある。休憩所にはゴミ箱が置かれ、空になったペットボトルや弁当のカラ、飴の包み紙までその都度処分できるのも有難い(ゴミ全て持ち帰りの日本では、数日縦走するとゴミ運びをしている気分になる)。スタッフがゴミを頻繁に搬出しているのを見て、入山料がキチンと還元されていると実感できる。
雨の日の連続急登は辛い。登山用の雨具は随分進歩したが、それでも気温が高いと汗で内側から濡れ、メガネも曇る。ゲートから小屋までの標高差1400mの連続急登は、北アルプスで急登名所とされる「合戦尾根」(燕岳)や「ぶな立尾根」(烏帽子岳)よりキツイが、適所(6ヵ所)に休憩所があるおかげで、「次の休憩所までガンバロウ」と励みになる。標高3000mを超えると雨が弱くなり、雲の間からキナバルの南壁も見えたが、空気が薄くなって苦しく、ちょっと登って休み、またちょっと登って息を整え、やっと小屋にたどり着いたのは17:30。標準6時間を7時間半かけて登ったことになる。
小屋と書いたが、正式には「ラバン・ラタ・ロッジ」。その名のとおり立派な宿舎で、水洗トイレにシャワーもあり(太陽熱利用で殆ど冷水だが)、2段ベッドの部屋は広さも十分。広々とした食堂はビュッフェスタイル(食べ放題)、料理の品数は8種類以上あって、バラエティ豊かで味も上々。ロッジの宿泊客だけでなく、周辺の3軒の小屋の客も食事はここに来るようだ。食材と燃料(ガス)の輸送はヘリを使わず、歩荷(ポーター)が毎日担ぎ上げているというから、省エネの努力も褒めるべきだろう。それにつけても日本の山小屋のメシは…、とつい思ってしまう(ごく稀に心のこもった小屋メシに出逢うことがないわけではないが)。
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01:30起床、02:00軽食(内容は朝食と同じ)、02:30出発。早発ちは「ご来光」が目的ではない(山頂に登って日の出を拝む風習は、「天岩戸神話」を持つ日本人だけかもしれない)。連泊ゆっくり組は我々だけで、他の登山者は登頂後に一気に麓まで下るので(中には午後の便に乗る人もいる)、出発が早くなる。それに合わせてか、標高3668mのサヤサヤ小屋のチェックポイントを05:00迄に通過できないと、登頂不適格(高度障害、体力不足)と判断され、カットオフされるルールがあり(→登山中止・強制下山)、「ゆっくり組」もマイペースで登るわけにはゆかないのだ。
ロッジからサヤサヤ小屋(宿泊不可)まで、南壁の大斜面に設けられた階段をひたすら登る。上部は階段も架けられない急角度の岩壁で、固定ロープにつかまってよじ登る。薄い空気に息も絶え絶えになるが、それでもチェックポイントを04:15に通過し、カットオフは余裕でセーフ。ここを過ぎればもう急ぐ必要はない。「ゆっくり組」らしくたっぷり休息をとって、最後尾をゆっくり登る。
サヤサヤ小屋から上はキナバル特有の一枚岩の緩斜面で、滑りやすそうに見えるが、花崗岩の岩肌が靴底をしっかり噛むので安心して登れる。6時を過ぎると少し明るくなり、雨もほぼ上がったのでカメラを出すが、霧が視界を塞いで周囲の景色は何も見えない。サヤサヤ小屋から標高差400mの岩の斜面を2時間かけてゆっくり登り、最後の急なガレ場を登りきると、キナバル山頂。07:20登頂!
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山頂の気温は手の冷たさから推定するに2~3℃だろう。赤道直下でも標高4千mの朝の気温はその程度の計算になる(標高100m上がる毎に気温は0.6℃下がる)。天候が悪く視界が利かないと、登頂の感慨にひたる気分は起きない。記念写真を撮り合って、そそくさと下山にかかる。
30分ほど下ると、左前方の霧の中にぼんやりと黒い影が浮かんだ。「何か見えるみたいだね」と言っている内にみるみる霧が薄くなり、奇怪な岩塔が姿を現わした。「醜い姉妹」(Ugly systers)と呼ばれる岩群だろう。続いて右前方にもサウスピークの秀麗な尖塔(4091m)も現れる。急いで下山した人達はこの景観を見られなかった筈で、山の神様が日本人シニア「ゆっくり登山隊」に特別のご褒美を下さったに違いない。
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09:10 サヤサヤ小屋のチェックポイントに帰着、許可証を示して登頂を申告する。監視員がこの情報を麓の本部に送り、下山時に交付する「登頂証明書」を準備するらしい。登りは暗闇の霧の中だったので周囲の状況が全く見えなかったが、巨岩が小屋に覆いかぶさるように聳え、垂直の壁に2015年6月の地震で剥離した傷跡が生々しい。落ちた巨岩が小屋のすぐ先に転がっていて、辛うじて直撃を免れたことが実感できる。
この地震で日本人を含む16名の登山者が死亡した。ラバン・ラタとサヤサヤ小屋間の岩壁の登山ルートは崩壊し、新たに現在の登山道が設けられたが、新ルートでも完全に危険を避けることは難しそうだ。忘れた頃に次の地震が起き、また犠牲者が出るかもしれないが、自然災害は人間の力で防ぎきれるものではない。「その時はその時」と割り切るのも、人間の知恵と言えるかもしれない。(ちなみに、入山時にサインさせられる誓約書にも、登山は自己責任であって、天災等による事故は免責と書いてある。)
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早い人は1時間足らずでロッジまで下るが、我々は休みながら2時間かけて、10:50にロッジに無事帰着。一息入れて昼食になったが、食欲がないのは疲労かもしれない。昼食後に昼寝を2時間、スッキリ目が覚め、食堂に下りてビールを買う。高所では原則禁酒にしているが、もう精進することもなかろう。ちなみにイスラム国のマレーシアには「地ビール」がない。シンガポール産を売っているが、「禁制品」ゆえヤミ値段は仕方がない(320cc缶が約900円)。もっともビールの値段はコタキナバル市内でもほぼ同額で、「山岳料金」をボッているわけではない。夕食時に食欲が戻ったのは禁断ビールのおかげで、値段にモンクはない。(富士山の360㏄缶600円也には、言いたいことがあるが。)
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深夜2時頃登頂に出発する人達の靴音で目が覚めたが、すぐ眠りに戻って朝5時までぐっすり。昼寝を入れると12時間寝たことになる。おかげで体調万全、足腰の痛みもない。食堂は02:30に登山者を送り出すと一旦閉め、07:30に再開する。その頃になると早くも登頂を済ませた登山者が戻り始め、そそくさと朝食を済ませて下山して行く。
08:10 ロッジ出発、中国系と思われるオーナーが愛想よく見送ってくれた。天気が良いと気分も脚も軽くなるが、段差のある階段の連続下りは思いのほか脚の負担がキツく、調子に乗って飛ばすと急にガックリくるので要注意。途中6ヶ所のあずまやでキチンと休憩しながら下る。
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メンバーの中には健脚者もいて、もっと早く歩きたい気持ちが見えるが、団体登山では最弱者のペースに合わせるのが黄金ルール。登山ガイドもしっかり心得ていて、ゆっくりペースを崩さないのは有難い。おかげで長い下りにへばることなく、無事に下山することが出来た。公園本部でガイドから「登頂証明書」を贈られ、付属のレストランで豪華ランチを供される。ご禁制のビールも3本飲んだ。
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帰国のフライトは16:30発。それまでの時間を過ごすオプション・ツアーに、参加者全員(7名)が動物園見学を選んだ。市内から30分ほど走った山すその熱帯林の中にあり、ボルネオ島の動物たちを自然に近い環境で見ることが出来る。しかし、とにかく蒸し暑く、汗ダラダラでの見学になる。ここは赤道直下(北緯6度)で、しかもこの季節は太陽が頭上真上にあるのだ。それにもキナバル登山隊は弱音を吐かない。動物園奥のキツイ坂道を登って植物園まで足を伸ばした。
動物園見学後市内に戻って昼食。禁制のビールで最後の乾杯を交わして、目出度く旅を打ち上げた。
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