加齢で身体能力が低下するのは避けられない。「山歩き能力」が低下すると身の危険と他人迷惑のリスクが生じるので、「マダはモウ」(まだいけると思ったらダメ)が基本。そんなわけで、先々月号の当欄(2018年山歩きレポート)で、自分の山歩きの限界を「1日の累計標高差1000m、行動時間5時間以内」と設定して、転ばぬ先の杖を突いた(つもりだった)。
我々は山歩きに入れ込んでいるわけではなく、三浦雄一郎老のように日頃鍛えているわけでもない。面白そうなツアーが目につくと発作的に行きたくなるだけで、今回のファンシーパン登山も「ベトナム最高峰、インドシナの屋根」のキャッチフレーズに惹かれて思い立ったが、上記で設定した限界クリアーは一応確認して申し込んだ。最高峰と言っても標高は3143m(富士山の8合目)で、高度障害の心配ナシ(と思った)。ツアー旅程によれば、登山1日目は登山口(1995m)から第2キャンプ(2800m)迄の標高差が805m。所要時間が6時間とあるが、標高差から算定すれば(1時間に300mが標準)、ゆっくり登っても5時間以内の筈(と思った)。2日目は山頂までの標高差350m、所要時間3時間で余裕のOK。山頂からロープウェイで一気に下山するプランも、下りが苦手な小生には何よりのゴチソウである。
最高峰登頂だけでなく、ベトナムという国も前から気になっていた。貧乏なアジアの小国が独立戦争でフランスに勝ち、ベトナム戦争で世界最強の米国を敗北させ、その後も中国と戦って押し返した。今も共産主義を掲げながら世界トップの経済成長を遂げ、1党独裁にありがちな問題もあまり聞かない。いったいどんな人たちがどんな暮らし方をしているか、行ってみたくなるではないか。
ベトナム航空で成田を朝10時出発。搭乗すると先ず機内誌巻末の保有機情報を見る。どんな飛行機を飛ばしているかで、その国の「勢い」が分かるような気がするからだ。伸び盛りの国はどんどん最新鋭機に入れ替え、くたびれた国はくたびれた機種を飛ばし続ける傾向がある。ベトナム航空の保有機数はそれ程多くないが、現有機種はエアバス350-800、B787‐9、エアバス321‐neoなど、最新鋭機のオンパレード。やはりベトナムは元気な国らしい。機内食の昼食後、映画を1本見終わらない内にハノイに着いた。ベトナムは近い国でもある。
国際線ターミナルを出て20分走ると、高層アパート(日本語ではマンション)が立ち並ぶ近郊風景になる。大きな橋を渡ってハノイ市内に入ると、ややゴミゴミした下町風景に変わるが、あばら家はなく、それなりにキレイに整っている。道路はバイクで溢れ、2人乗りは当たり前、大人の3人乗りや子供を含む4人乗りも車間距離僅少で走り回り、バイク事故多発が最大の社会問題というガイドの説明に説得力がある。
人口750万の首都ハノイは膨張を続け、地価・家賃は東京をしのぐ状態らしい。1986年に始まったドイモイ(刷新政策)で民主化と市場経済に移行し、通貨危機も乗り切った。一党独裁体制は今も続くが、権力闘争や腐敗の話は聞こえてこない。その体制の土台を作った人物がホー・チ・ミン(以下ホーチミン)で、フランスとの独立戦争を指導し、ベトナム戦争を勝利に導いた革命家。戦争終結(1975年4月サイゴン陥落)を見ずに1969年9月に世を去り、遺体はレーニン、毛沢東、金日成と同様に保存処理を施され、ホーチミン廟に安置されている。公開は午前中のみで、空港から直行して午後4時近くに訪れた我々は廟の外観を見学しただけだが、今も国民の敬愛を受けていることが感じられる。
|
|
初日のハノイ観光はホーチミン廟と周辺だけで、夕食後ハノイ駅に移動して夜行寝台の出発を待つ。 日本は新幹線網が整備され、寝台列車は「瀬戸・出雲」の1本を除いて姿を消してしまった。風情のある乗り物だっただけに残念な思いがする。(近ごろ人気の超豪華観光寝台列車は小生の趣味でなく、対象外)。
ハノイと中国国境のラオカイの間(約250㎞)に、毎晩5往復の夜行列車が運行されている。昼間列車がないのは、高速道路の開通でバスに役目を譲ったのだろう。我々が乗車する3号便(3番目に発車)は9両編成で、全車両が4人コンパートメントの寝台車。夜9時45分発・朝5時25分着なので食堂車の連結はなく、発車前に車内販売が1度だけ回って来る。お茶・コーヒー、スナック、果物の無料サービスもある。トイレは各車両専任の乗務員が頻繁に掃除してくれるようだ。線路の軌間は日本の鉄道と同じ1067㎜の狭軌。東京~浜松の距離を8時間かけて走り、平均時速は約30㎞。線路があまり丈夫でないらしく、かなり揺れる(鉄道の乗り心地はレールの太さと保線で決まる。日本の線路は新幹線用が1m当たり60Kg、ローカル線用は37Kg。多分ラオカイ線もローカル線用の軽量レールだろう)。
|
寝台列車はラオカイに定刻の5時25分着。駅前食堂で朝食にベトナム名物のホウが出る。米の麺の鶏スープ麺で、牛肉か鶏肉のトッピングが付く。疲れ気味の胃にもスルスルと納まり、すっかりホウ・ファンになった。ラオカイは中国雲南省に接する国境の町。民族的に中国側と同じこともあって、住民は気軽に行き来しているようだ。
|
|
言うまでもないが、ベトナムは多民族国家。「ベトナム語」と言われる言語や女性衣装のアオザイは、人口の86%を占めるキン族の文化で、都市生活者の大部分を占める彼等が、政治経済の中心になっている。残る14%は63の少数民族に分かれ、今も山岳地帯の小集落で農業を営み、「ベトナム語」が通じない人たちもいるという。
我々が訪れたバンフォー村は、ラオカイから北へ1時間半ほどの山中にあり、「モン族」が暮らしている。モン族は国境を接する中国文山壮族苗族自治州の「ミャオ(苗)族」と同族で、タイやラオスの山中にも分布しているらしい。この地方のモン族は「花モン族」に細分類される人たちで、赤い衣装に特徴がある。
|
|
|
バンフォー村からラオカイに戻り、更に西のサパに向かう。サパはフランス植民地時代の避暑地。独立戦争に破れたフランスが撤退する際に徹底的に破壊し、当時の建物は残っていないというが、何となくフランスのにおいがする。地図を見ると、フランス軍がベトミン(独立同盟)に降伏したディェンビェンフーの戦場はすぐ近くだった。
ベトナム独立の戦いには日本が複雑に絡んだようだ。20世紀初頭にベトナム北部で興った独立運動の指導者達は、日露戦争で西欧大国に勝ってアジアの雄国となった日本の支援を期待したが、日本はフランスの肩を持ち、日本在住のベトナム人を追放。フランスと談合してベトナムに進駐し、仏領インドシナ政府との二重支配を太平洋戦争の末期まで続けた。1945年3月に至って日本はフランスとの関係を絶ち、旧王朝のバオ・ダイ帝に「ベトナム帝国」の独立を宣言させて傀儡政権に仕立てたが(旧満州国の来歴を再現?)、8月の日本敗戦で頓挫。9月2日にホーチミンが「ベトナム民主共和国」の樹立を宣言し、敗戦日本は新生共和国に降伏するかたちになった。
フランスは1949年にバオダイ帝を復位させ、南のサイゴンに「ベトナム国」を建国させたが、1954年にディエンビエンフーの戦いに破れてベトナムから撤退。フランスに代わって米国がゴ・ディン・ジェムを大統領に押し立てて「ベトナム共和国」を作らせた。日本は北の「民主共和国」に賠償金を支払い済みだったが、南の「共和国」にも賠償金を払うことになる。この間、戦後も現地に残留した旧日本軍人たちが本気で独立勢力を支援し、感謝されて表彰された人たちも多かったという。彼等の活動が過去の日本の「ベトナムいじめ」を帳消しにして、独立後のベトナムの親日感情醸成に多大のプラスになったに違いない。
|
サパ(標高1500m)からファンシーパン(3143m)の登山は、上高地(1550m)から奥穂高岳(3190m)の登山と似ているが、ファンシーパンは標高1995mまで車で入るので、涸沢(2300m)手前の本谷橋あたりから歩き始める感じになる。我々が10年前に奥穂高岳に登った時は、横尾(1600m)から奥穂山頂まで半日で登ったので、途中の第2キャンプ(2800m)で1泊するファンシーパン登山は「楽勝」と踏んだのだが、「そうは問屋が卸さなかった」(この表現は今も有効?)。
我々の老人登山隊は女9名+男7名+添乗員の計17名で、これに現地ガイド2名+スタッフ15名が付く。スタッフはキャンプ設営と食事の世話の他、我々の個人装備も運んでくれる。1泊だけなので荷物は少ないが、客と同数の現地スタッフが付くのは、地元にカネを落とすポリシーだろう。我々が自分で担ぐ荷物は、日帰りハイキングよりも軽い。
団体の登山ツアーでは、先頭の登山ガイドに続いて「弱い人」から順番に1列に歩き、別のガイドが最後尾に付く。今回は女性7名の次に最高齢の小生が歩く(強い女性2人は後尾に)。先頭のガイドは後ろの様子を見ながらペースを作るのが役目で、歩きやすい足場を選びながら、一定のペースでゆっくり歩いてくれる。後に続く「弱い人」がモタモタして遅れたり、立ち止って写真を撮ったり、間を詰めようと小走りしたりすると、更に後ろの「弱い人」は乱れたペースを引き継ぐことになり、知らぬ間に疲れが溜まってしまう。
|
上の記録写真が13:55で止まったのにはワケがある。標高2250mの第1キャンプでの昼食までは快調だったが、キャンプから上は尾根道の急登の連続で、小生の呼吸は周りの人が心配するほど荒くなった。休憩しても平静に戻らず、バテバテで写真も撮れなかったのだ。何とか落伍せずに宿泊地の第2キャンプにたどり着いたが、テントに倒れ込んだまま、荷物の整理をする気力も出ない。到着は午後4時、所要時間は予定通りの6時間(昼食休憩を除く)、ペースが速すぎてバテたわけではない。
夕食に呼ばれてやっと起き上がり、ただのバテではないと気がついた。目まいがして胃がむかつき、突如マッタナシの下痢に襲われたのである。間違いなく高度障害! ヒマラヤの5600mで平気だった者が2500mで高山病? そう、高度障害はその時の体調次第、2500mでも起きることがある。
標高2500mの気圧(=酸素分圧)は平地の75%。平地で血中酸素濃度が75%まで下がれば即酸素吸入で、改善しないと医師に「ご親族をお呼び…」と言われる。通常は体が速やかに反応して血中酸素濃度が上がるが、自律神経の不調で酸素不足が続くと、先ず胃腸の機能が止まる。脳や心肺など重要臓器への酸素を確保するためで、初期の高度障害は生命維持のフェイルセーフ機能が起動した状態。尾根道の連続急登で筋肉が酸素を消費し尽くして、心肺機能が追い付けなかったのだ。自己診断は、まさしく「加齢による基礎体力劣化」。
夕食をパスし、寝袋に丸まって深呼吸を続ける。高度障害は止まったようだが、騒音に眠りを妨げられる。この日の第2キャンプは、タイから来たという2百名近い若い男女で溢れ、70名収容の小屋だけでなく、ビニールハウス風の大型仮設テントまで満杯。我々老人登山隊は2人用テントに分宿したが、若者たちが大声で叫び交わす声が夜中まで絶えず、加えて谷を吹き上げる強風にテントがバタバタ煽られて、眠るどころではない。朝4時に若者たちが早立ちして静かになり、少しウトウトしたところで夜が明けた。
寝不足だったが、高度障害の症候は消え、朝食のフォーが胃にスルリと納まり、ひとまず安心。朝7時、山頂に向けて出発。スタッフは荷物を担いで下山し、我々がロープウェイで下る前にサパに戻っている筈。キャンプから象頭岩まで緩い登りで、息を切らすこともない。ロープウェイ駅舎の直前でいったん大きく下り、観光客用に新設された600段の石段道を避けて昔の登山道を登る。山頂近くで新道と合流し、ロープウェイからの雑踏に巻き込まれる。
山頂の盛り場並みの雑踏にしばし呆然。盛り場ファッションで登ってきた観光客もいるが、不思議なことに高度障害でマグロになった人は見かけない(富士山では路傍に転がっている若者をよく見る)。濃い霧で眺望はゼロ。超満員をかき分けて写真を撮ってサッサと下山。ロープウェイ乗り場はさぞ長蛇の列と思ったら、35人乗りのキャビンが次々に回って来てスグ乗れた(輸送能力をざっと計算すると1時間に約2千人)。ケーブル延長6.3㎞・標高差1410m共に世界最大のロープウェイは15分で麓に到着、駅舎は巨大ショッピング・アミューズメントセンターの中だった。
今回の「登山」で反省すべきことは多々あるが(限界設定の甘さ、その結果「高度障害」、天気運が離れて眺望ゼロ)、それらを差し引いても、ファンシーパンが「素晴らしい山!」とは言いかねる気分が残る。ロープウェイの開通である程度の「観光地化」は予想していたが、「山頂テーマパーク」は想定外だった。前項の「上高地から奥穂高岳」の例を敷衍すれば、標高3190mの奥穂山頂に客寄せのキンキラ寺院や大仏様を建て、1550mの上高地河童橋から山頂直下に直通ロープウェイを架け、観光客が毎時2千人押し寄せたらどうなるか、想像してほしい。
3年前にロープウェイを架けて山頂一帯を「開発」した観光業者は、次のテーマパークをベトナム唯一の自然遺産「ハロン湾」に建設中で、海岸に巨大な観覧車が姿を表わしていた。自然保護もへったくれもなく、客を呼んでカネが落ちれば「これでいいのだ!」と節度のない観光開発をガンガンやられると、「ネイチャー派」はやりきれない気分になる。ベトナムには中国のマネをしてほしくなかったのだが…
|
|