文字のなかった時代の出来事は、口承によって後世に伝えられる。こうした「伝説」に真偽が入り混じるのは仕方がない。エファテ全島を取り仕切ったという大酋長、ロイ・マタの生涯も、こうした伝説の一つと考えられていた。

それによれば、ロイ・マタは、その偉大な人格によって、戦いに絶え間のなかった諸部族を統一し、平和な時代を築いた。しかし嫉妬に狂った兄弟の毒矢に倒れ、衰え行く体力を振り絞って周辺の島々を巡り、ついにレレパ島で亡くなった。その亡骸は巨大な洞窟に葬られたと言われるが、海底の洞窟を抜けてエレトカ島で埋葬され、その際に46人が殉死したという説もあった。

1967年にフランス人考古学者がロイ・マタの実在を確認するため遺跡の発掘を申し出、酋長たちの許しを得てレレバ島とエレトカ島の調査を行った。レレパ島の洞窟には墓は見つからなかったが、驚くべきことに、エレトカ島には伝説通りの光景があり、そこを発掘すると、ロイ・マタと推定される墓が、46人の殉死体と共に見つかったのである。

エレトカ島の遺跡は元通りに埋め戻され、今は聖地として渡航が制限されている。ロイ・マタが生きた時代は13世紀中期と考えられていたが、発掘物の年代を炭素測定した結果、もっと後世の17世紀中期だったようである。

ロイ・マタが住んだと伝えられるエファテ西部の海岸の村と、対岸のレレパ島の洞窟を巡るツアーが、バヌアツ民族博物館と地域住民の協力によって開発され、9月の週末、ポートビラ在住のJICA関係者19名がそのツアーに参加した。案内の現地人や村人たちにはまだ不慣れなところも見えたが、我々は大酋長の伝説を学び、且つ村人たちの村おこし(現金収入獲得)に少々の貢献をした次第である。

メレ海岸村人によるロイ・マタ時代をしのばせる寸劇。異集落の間で戦いが始まった ロイ・マタに扮した老人が争いを仲裁する。
和解が成立すると、両者が貢物を持ち寄って「手打ち式」を行う。 ロイ・マタの時代から村人を見守り続けるガジュマル。人間の全てを見通す知恵を持つと考えられている。
木製タムタムはキリスト布教時代に全て廃棄させられた。これは後世に再現されたもの。 レレパ島の巨大洞窟。火山灰が海底に堆積した凝灰岩を荒波が穿ち地殻変動で上昇、現在は海面から15mほど上に。 
洞窟内の壁画。この他に鯨を描いたものもある。 ロイ・マタの死を描いたと考えられる壁画。洞窟内を発掘したが遺体は発見されなかった。
洞窟入り口からエレトカ島(通称Hat Island)。ロイ・マタと殉死者の遺体が右斜面直下で発見された。 観光客の昼食は島民が提供。一生懸命に作ってくれたことがよく分かる。