ドロミテはヨーロッパ南部を東西に走るアルプス山脈の東端にあり、ドロマイトと呼ばれるピンク色の苦灰岩(マグネシウム質石灰岩)で出来た特異な山容の山塊で、風景写真屋は一度は撮りに行くべき場所と言われる。小生も本年9月にドイツ旅行のコースを南に大きく捻じ曲げ、ドロミテ山中に4泊の旅をした。

石灰岩は海底に堆積したサンゴの化石で、造山運動で海底が隆起すると石灰岩の山が出来る。世界最高峰エベレストの山頂部も貝の化石が出るという。小生が高校で地学を習った頃は、隆起のメカニズムがあいまいだったが、1968年にプレートテクトニクス理論が確立してから、アルプスが形成された過程を、合理的且つ簡明に説明できるようになった。約1億年前にアフリカ大陸がヨーロッパ大陸と衝突し、ぶつかった部分のテーチス海が押し上げられ、盛り上がったシワがアルプスなのだ。(ちなみに、ヒマラヤはインド亜大陸がアジア大陸とぶつかって出来たシワ。)

急峻な山容は、今も隆起が続いていることを示す。1年に1センチの隆起でも、10万年で1千m上昇する。隆起した部分が風雨や氷河で浸食され、削られた部分が深い谷になり、残った部分が鋭い峰となる。隆起より浸食の速度が勝てば、地形はやがて平坦になってゆく。万年・億年単位の時間の流れが、地球上に地形を作り続けている。

小生は文系だが、何故か地学が好きで、今も関心を持ち続けている。理数教科は論理的に厳密な答を出さないとダメだが、地学では細かいことを言わない。地球と宇宙に流れている万年・億年単位の時間を大ざっぱに掴めばOKで、そんなアバウトさが性に合っているのかもしれない。(専門の地球物理学者は緻細だが。)

地球が生まれて46億年、宇宙の果てまで137億光年など、俗人の想像力を超える数字は「天文学的」と形容されて来た。先頃「906兆」という超ド級の数字を耳にしたが、さしずめ「日本国借金的数字」とでも呼ぶのだろうか。国民1人あたり8百万円、当家の分は孫まで入れて約5千万円。身に覚えは無いが、この借金の担保は大半が日本国民の預貯金らしい。いつか踏み倒されそうな予感がするのは、被害妄想だろうか?


ヨーロッパアルプス全図。ドロミテは東端の「南チロル」にある。(地図出典:Google)


サンタ・クリスチナ周辺

車でドイツからオーストリア経由で北イタリアに入った。国境検問はなく、日本の県境のように「ここからイタリア」の看板があるだけ。ドロミテのある南チロル地方は、第一次大戦で敗れたドイツがイタリアに割譲した地域で、百年後の今も民族対立が根強く残っているが、両系の住民の話し合いで平穏が保たれ、公用語もドイツ語とイタリア語が併用されているという。日本人はチロルと聞くと、平和でのどかな楽園をイメージするが、現実はこういうことらしい。日本人が民族問題にオンチであることに気付かされ、同時にEU統一の理念の重さに思いが及ぶ。

2泊したサンタ・クリスチナは、西ドロミテの観光拠点オルチセイの先の小さな村。シーズン外れの9月でも予約満杯で、娘がネットでやっと見つけたという小さなホテルは、別に愛想が良いわけでもないが、リーズナブルな料金、清潔な部屋、充実したドイツ風朝食も食べ放題で嬉しい。夕食は近所にカジュアルなイタリアレストランに行くしかないが、程々の値段、味もマアマアで、リラックスした雰囲気が楽しい。日本のリゾートは経営が厳しいと聞くが、規模を追求しなければ、知恵で生きる方法はありそうだ。

サンタ・クリスチナ到着は薄暮。ドロミテらしい岩峰が迎えてくれた。
谷の斜面に教会と小さなホテルが並ぶ。
サンタ・クリスチナのメインストリート。
冬は一帯がスキー場に。一部のリフトは登山用に動いている。
泊ったホテル。夕食は出さないが、食べ放題の朝食が充実。
ホテルの窓から見えるピークは後述のサッソ・ルンゴ。

ドロミテ第1日目、小雨模様だが、雨も天気の内。手始めに近場の山を歩くことにした。いつもは地図を見て現在位置を確かめながら歩くのだが、今回は「老いては子に従え」で、娘夫婦について行くだけ。楽と言えば楽だが、自分がどこにいるのか、途中でどんな風景が見える筈かも分からない。やはり他人任せでは山歩きの感興が薄れるようだ。

帰ってから地図を見て復習。オルチセイからゴンドラでセチェーダ山群の裾まで行き、2時間歩いてセチェーダの肩に。峠が近づくにつれてガイスラーの針峰群がせり上がり、眼下に放牧地とブログレス小屋が見えた鞍部が終点。ホテルの朝飯をくすねて作ったサンドイッチを急いで食べ、写真撮りもそこそこに、雨脚が強まる前に下山した。

登山道の後方に見えた山はサッソ・ピアット(2954m)か?
山道をオジサングループのマウンテンバイクが下ってくる。
冬はスキー場、夏は放牧場。
登山道で出会った花。
セチェーダの肩で。ガイスラー針峰群とブログレス小屋。
この峰はサンタ・クリスチナから見えたセチェーダの裏側らしい。

二日目の早朝、隣村のセルヴァに出かけた。地図で写真になりそうな地形と睨んだのだ。山の写真は太陽の位置が低い日の出と日没時が定番で、晴れて且つ雲が少し流れてくれると具合が良い。今日はダメかと思っても、急に雲が動いて望外の絶景が現れることがある。風景撮影は「その時、その場所」に居ないことには始まらない。とにかく行って待機するしかないのだ。

北斜面の道路を終点まで上り、三脚を据えて日の出を待つ。夜が白むにつれて山の様子が見え始め、雲が赤く染まり、高い山から順に陽があたり、やがて全体が朝の光に包まれる。この間40分、カメラを振り、レンズを交換し、ピントを確かめ、偏光フィルターを回し、露出を変え、シャッターを押す作業が続く。「朝めし前」に撮った83コマは「作品候補」が1点も無かったが、シロウト写真のヒット率は「千三つ」以下。叉のチャンスを作るしかない。

6:45、1コマ目。まだ薄暗いセッラ山脈に初冠雪。
7:02、24コマ目。東の空が焼け始めた。
7:09、48コマ目。村の風景が見え始める。
7:14、59コマ目。サッソ・ルンゴに雲間から光が当たった。
7:18、68コマ目。明るさを増すが、山肌に陽があたらない。
7:25、83コマ目。朝の光が回ったところで早朝撮影終了。

セッラ峠とサッソ・ルンゴ(3181m)

早朝撮影から戻って朝食、チェックアウトして移動開始。この日はドロミテを横断し、東端のミズリーナに夕食前に着けばOKで、午前中をハイキングに使える。出発して30分のセッラ峠に車を置き、サッソ・ルンゴの裾を1/4周して、コミチ小屋まで往復。「サッソ・ルンゴ」は「長い岩」。段丘から衝き出た円錐状の岩山で、標高3191mは槍ヶ岳より1m高い。サンタ・クリスチナのホテルの窓から見えた岩峰も、セルヴァで朝日を浴びた岩塔もサッソ・ルンゴで、槍ヶ岳と同様、どこから見ても目立つ山だ。

トレッキングコースに「ハイカー用」と「乳母車用」の標識。「乳母車用」は勾配が緩く幅もあるが、石コロ道で、真に受けて乳母車を押すと、親は汗だく・子供は乗り物酔いになる。「ハイカー」用も安全に整備されているが、自然の保全に気配りが感じられ、日本のように「整備=コンクリート」と考えないところがエライ。

セッラ峠。
トレッキングコースにハイカー用と乳母車用の表示。
サッソ・ルンゴ東壁を背にコミチ小屋。
コミチ小屋から北側の景色。
やっと雲が切れてサッソ・ルンゴが全貌を現した。
中央凹部に懸るゴンドラ。岩壁スレスレで、電話ボックス状のキャビンに立って乗る。

ドライチンネ(トリチーメ)

ドロミテは「見どころ」が多すぎ、限られた日数でどこを見るか迷うが、ドライチンネ(三つの尖峰)だけは見逃せない。登山口のミズリーナで前泊。1956年の冬季オリンピック(猪谷千春が回転で銀メダルを取ったコルチナ・ダンペッツオ大会)でスピードスケート会場になった。天然の屋外リンクで競技が行われたのはここが最後とか。湖畔のホテルも当時建てたものと思うが、さすがに貫禄を感じさせる。

ドロミテ3日目、ホテル周辺を散策の後、標高2320mのアウロンゾ小屋の駐車場へ。数百台が駐車しているが、大半がチンネ周遊の日帰りハイカー。我々は時計短針の6時の位置からチンネの裾を時計回りに歩き、1時の位置のドライチンネ小屋までなので、時間的に余裕たっぷり。天気は上々、山の眺めも申し分ない。

ホテルの窓から、ミズリーナ湖とラチェスタ山塊(2767m)
湖の反対側から、モンテ・ピアーナを背景にグランドホテル・ミズリーナ。
ミズリーナからドライチンネはひとかたまりに見える。
ハイキング開始。クリスタリーノ山塊の左奥にミズリーナ。
山頂部がバラ色の山がクローダ・ロッサ(3139m)。
チンネの西麓から。北向きの壁面は逆光に。

コースはほぼ平坦だが、ドライチンネ小屋直前の急な下りと登り返しが少々キツイ。ハイカーの年齢層は若者から老人まで幅広いが、30代、40代の現役バリバリ世代が多く、平均年齢は中高年ハイカーばかりの日本よりだいぶ若い。日本では定年退職までリフレッシュの余裕など無く、リタイアと同時にヒマを持て余す。日本が成熟社会になれない原因?結果?などと考えながら歩く。

標準3時間を4時間かけ、午後2時にドライチンネ小屋着。日帰り客で大繁盛の小屋に荷物を置いて裏山に登る。山頂からのドライチンネと周辺の眺めはまさに絶景だが、日が陰って「写真にならない」のが残念。

コースの案内板。日本のものより分かり易い。
東の稜線は仏像を並べたよう。
小屋近くのキリスト像。日本のお地蔵さんに相当?
キリスト像とは別にチャペルもある。日本の山頂神社に相当?
裏山に登ると、パーテル・コーフェル峰(2746m)と同じ高さに。
裏山山頂からドライチンネの全景。光線状態がイマイチ。

小屋に戻って空模様の変化を待ったが、夕食の時間になっても好転せず。ヤケワインを飲んで食事を始めたら、何やら叫ぶ声がする。外に出てみると、雲が消えてチンネに夕日が当たっているではないか!これだから油断がならない。部屋に三脚を取りに戻る数分を惜しみ、小屋の支柱に腕を回してカメラを固定、陽が沈みきるまでシャッターを押し続けた。

よほど日頃の行いが良いのか、雲が切れて夕日が当った。
絶好の光線状態。
最後の光。
残照のパーテルコーフェル
翌朝、裏山中腹の洞窟からドライチンネ。
左下にドライチンネ小屋。

ドロミテ4日目(最終日)、日の出前に小屋裏の山の中腹で三脚を据えたが、太陽の出る方角が悪く、チンネの壁が照ってくれない。ゆっくり朝食を食べて小屋を後にし、パーテルコーフェルを一周してチンネの東麓を経由、北面に沿って駐車場に戻る。前半はアップダウンの多い登山道だが、変化があって疲れを感じない。後半は日帰りルートと合流し、小屋の補給車両やマウンテンバイクも通る遊歩道。午後2時に駐車場帰着。いくら見ても見足りないドロミテだが、今回はこれにてウチドメ。

さらばチンネ小屋。右上が全景写真を撮りに登った裏山。
犬連れのハイカー。
パーテル・コーフェルの裏側。
チンネは見る角度によって様々な表情を見せる。
チンネを東麓から見上げる。
後半は日帰りルートと合流。マウンテンバイクもOK。

インスブルック(オーストリア)

日本では山を下ると温泉と郷土料理がご褒美だが、ドロミテでは汗をかかず、食事も山小屋とは思えぬ豪華版だった。それでも里に下りると「精進落とし」がしたくなる。近くの町がインスブルックで、2度の冬季オリンピックを開催(1964年、1972年)、ハプスブルグ家の王宮もある世界的観光地。行かぬ手はない。

高い山に囲まれて城のある観光地という点で、松本市に似ている。人口は松本の半分(12万)だが、賑わいではインスブルックが勝る。滞在したのは日曜日だったが、観光名所に旅行客が溢れるのは別として、市民の家族連れやオジサンのグループなどワンサと公園や運動場に出て、太陽の下で元気溌剌と活動しているのだ。近頃何度か松本を訪れたが、これほど快活なオジサン・オバサン達を見なかったし、若者にも開放感を感じられなかった。オーストリアが特別に夢と希望に溢れた国というわけではない。遺憾ながら、日本は道に迷って途方に暮れたままだなあ、と思うしかない。

北側に聳えるノルトケッテ連峰のハーフェレーカ展望台から。
市の中心部。イン川に架かるブルック(橋)も見える。
ハーフェレーカ展望台に遊ぶ市民たち。
都心と山の手を結ぶケーブルカーは最新式の平登兼用型。
聖ニコラウス教会
イン川の夕暮れ。大聖堂の尖塔も見える。

オーストリア訪問は今回が初めて。ウィーンやザルツブルグは見ていないが、インスブルックもハプスブルグ家の帝都だった時代がある。観光の中心は18世紀にマリア・テレジアが改装した王宮。絢爛たる絵画や装飾品に目を奪われるが、外観は古い役所かホテルのように見えないこともない。考えてみれば、王宮の主たる用途は政府の事務所とホテルで、機能的に作ればあのような建物になる。906兆円の借金で建てたヘンに前衛的なハコモノを持て余している我々に比べれば、18世紀の王侯貴族の方がよほど質実剛健と言えるかもしれない。

黄金の小屋根。マクシミリアン1世が市場の行事を見物する為に作らせた。
15世紀に建てられたた王宮を18世紀にマリア・テレジアが改築。
宮廷教会の内部。王侯の等身大立像が囲むマクシミリアン1世の棺はカラとか。
モーツアルトやゲーテが泊まったホテル。レストランは値段が程々で美味い。
シックな路面電車。東京にもこんな電車が走ると良いのだが。
月曜朝の市場。まだ閑散としている。