5年ぶりにドイツを訪れた。本年(2015)6月にオーストリアの観光ツアーに参加し、ミュンヘンで帰国するグループと別れ、南ドイツのウルムに在住する長女の世話になった。とは言え主目的はオーストリア・チロル地方の山歩きで、ドイツには今回もちょっと寄っただけ。
昨今のギリシャ財政危機で、ドイツのEUのリーダーとしての存在感がますます強く印象付けられた。前回のドイツレポートの冒頭で、同じ敗戦国だった日本とドイツの戦後の歩みの違いについて個人的感想を書いたが、今回の旅でもその思いを一層強くした。この国の現政権の粗雑極まりない「新安保法制」や「新国立競技場」の扱いもさることながら、戦後70年を迎えていったいどのようなメッセージを世界に発しようとしているのだろうか。内容によっては日本に対する視線がより厳しくなり、この国の立場を更に歪めるのではないかとの懸念が消えない。
ミュンヘン空港から郊外のダッハウ強制収容所跡に向かう。1932年にナチスドイツが開設した最初の強制収容施設で、その後ドイツ各地や周辺国(ポーランドのアウシュビッツ等)に作られた多くの強制収容所の原型になった。施設は大戦後に難民住居に使用されたが、保守政権時代に一部撤去されて痕跡が消えかけた。しかしドイツ国民と国際世論の強い要求により歴史史跡として2003年に再構築され、一般公開されたものである。管理棟(生体実験が行われたとされる)と死体焼却棟は当時の建物が残っているが、撤去済みだった30棟の居住棟は当時の記録と証言に基づいて再建された。
強制収容所と聞くとユダヤ人差別・虐殺を思い浮かべるが、ダッハウ収容所は政治犯を捕えて強制労働に就かせる施設としてスタートした。政治犯には反政府活動家だけでなく、作家、聖職者、外交官なども含まれ、常習犯罪者や麻薬中毒者などの囚人と共に強制労働に駆り出された。囚人の中にはユダヤ人もいたが、ユダヤ人なるが故に強制収容されたのは、大戦でドイツが劣勢に傾いた1943年以降だったという。ホロコーストが、独裁政権が危機逃れの常套手段として民族意識を掻き立てる極端なケースだったことに、改めて気付かされた。
開設当初の収容人数は約5千人だったが、第二次大戦開戦時に9千人に拡大、末期の44年秋には3万5千人が収容された。居住棟に再現された初期の3段ベッドの居室を見ると、正直言って「山小屋」程度で、2~3泊ならガマン出来そうだが、1棟に1千人余が押し込まれた末期の状況は想像を絶する。当然ながら食事や衛生環境は劣悪を極め、末期の半年間で餓死・チフスによる死者は1万5千人にのぼった。連合軍によって解放された1945年4月29日に撮影された写真の死屍累々の酸鼻には目をそむけざるをえない。ちなみにダッハウ掃討作戦にあたった部隊は、欧州戦線で最も危険な任務を志願したと言われる日系アメリカ人部隊の第442連隊戦闘団だった。
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我々は有料ガイドツアーに加わった(2時間のツアーで料金3ユーロ、ドイツ語、英語、イタリア語のツアーある)。ガイドは現在就活中という若い男性ボランテイアで、ドイツ人らしくジョークも交えずに几帳面に説明してくれた。彼の説明で強く印象に残った一節がある。それは本収容所跡の再構築に関する段で、「第二次大戦敗戦後にドイツが主権を取り戻し、政権についた保守政治家たちは、ナチスの痕跡を消すべくダッハウ収容所の「サラ地化」を進めたが、世論の強い反対で歴史証言の場として残すことになった。ドイツが国際社会で発言権を得ることが出来たのは、この決断と無関係ではない」。戦争責任が1世代や2世代で消えないことを、日本人は知らなさすぎるのではないだろうか。
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話はダッハウ強制収容所からガラリと変わる。ドイツの観光名所と言えば「ノイシュヴァンシュタイン城」にトドメを刺す。ダッハウから城まで車で2時間ほど、名所旧跡にあまり関心のない小生でも、ここまで来て寄らない手はない。案内役の娘は気乗りしない様子だったが、城から車で10分のシュヴァンガウに小ホテルを確保してくれた。ホテルの庭から城が遠望でき、庭先で供された地ビールと田舎料理もなかなかの味だった。
ノイシュヴァンシュタイン城は、バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世が国を傾けて建てた城である。作曲家ワグナーのパトロンと城つくりに熱中して国政を顧みなかった王は、ノイシュヴァンシュタイン城の完成を見ずに怪死をとげた。自殺説もあるが暗殺説が強い。美の世界に没入した王の最後の作品だけに、城はどの角度から見ても絵になる。観光パンフレット等でよく見る湖を背景にした細身の城のアングル(右:ネットから借用)で撮ろうと思ったが、アクセス路がみつからない。この絵柄の絵ハガキを売っているオバサンに尋ねると、「岩登りのエクスパートかヘリをチャーターしなければ撮れません!」。まあ、そこまでしてマネ写真を撮ることもない。
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フュッセンはノイシュヴァンシュタイン城から車で15分の小さな町。昼食のために立ち寄ったのだが、思いのほか雰囲気があって観光客も多い。案内書を見たらフュッセンは「ロマンチック街道」の終点、ナルホドとうなづく。ちなみに「ロマンチック街道」は日本の旅行業者が付けた客寄せ源氏名と思っていたが、ドイツの地図にもそう記されていた。
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ウルムは日本の観光ガイドには載っていない。そのウルムを訪れたのは長女が住んでいるという理由だが、行ってみると歴史豊かで中世の街並みもあり、なかなか興味深い町だった。
ドナウ川に沿ったウルムは14世紀の神聖ローマ帝国の直轄都市の時代に交易で発展し、1397年に市民憲章を制定して自由都市になった。市のシンボルである大聖堂の建設もこの時代に始まったが、宗教改革時にカトリックからプロテスタント都市に転じ、建設中だった大聖堂も宗旨替えしてルター派の教会になった。市の南側を流れるドナウ川はこの市の経済基盤だったが、同時に列強に目をつけられて侵略を受けることになり、多額の賠償金を巻き上げられたりナポレオンの干渉を受けたりする。
第二次大戦では連合軍の空襲で市街の2/3が瓦礫と化したが、戦後は地の利を生かして企業を誘致、産業振興で復興を果たし、歴史的な街並みも再現された。ドナウ川対岸のノイウルム(新ウルム)には1991年まで米軍の大部隊が駐留していたが、全面撤収で広大が土地が生まれ、新たな発展を促すプラス要因になっている。
ウルム大聖堂は、教会建築として世界一高い尖塔(161.53m)を持つ。ここに来たからには、先ずは768段の階段で先端直下の展望台まで登るしかない。
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