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南イタリアの旅 その1 「シチリア島」   (2010/3/1)

2009年10月、2度目のイタリア旅行をした。シチリア島と南イタリアの観光に加え、トスカーナの農家民宿でオリーブ収穫体験もする盛り沢山の企画で、気心の知れた旅仲間と楽しい旅をさせてもらった。今回のレポートはシチリア篇です。

「ネイチャー派」の小生は寺院や遺跡を巡る旅の経験が乏しく、歴史の勉強も苦手意識が先に立ち、予習せずに出発する。シチリアの予備知識も ”マフィアの本拠” 程度だったが、旅先で強い刺激を受けて帰ると、少しは復習をする気が起きた。

紀元前8世紀に始まったギリシャ植民地時代は、ギリシャ人同士の戦争に明け暮れ、紀元前3世紀はローマ帝国とカルタゴの戦場にされた。5世紀まで続いたローマ属州時代も内戦の場で、帝国衰退後は「蛮人」に支配され、6世紀に東ローマ帝国の領土となり、9世紀にはアラブ人に征服されてイスラム圏に入った。11世紀にノルマン(北欧)の侵略でキリスト教圏に戻り、12世紀は神聖ローマ帝国、13世紀はフランスのアンジュー家の支配下におかれた。14世紀から17世紀までスペイン王国の時代が続いたが、18世紀中期にオーストリア・ハプスブルグ家の支配を受け、19世紀はブルボン系のナポリ王国に統合され、1861年のイタリア王国統一で、ようやくイタリアの一部になった。

こう概観すると、有史以来シチリアは踏みつけにされ続けてきたようだが、文化遺産を見る限り、侵入した征服者達は、シチリアで母国文化を開花させ、都市を繁栄させたことが分かる。民族の流動と侵略はヨーロッパ史の通奏低音みたいなもので、「お互いに、もういい加減にしませんか」というのが、現代の「EU」の企てのようにも見えてくる。

シチリアにとって最悪の時代は、イタリアの一部になってから始まったという。中央政体は混迷の連続で、辺境のシチリアは無政府状態で放置された。この時代、マフィアがこの島で生まれたのも不思議ではない。ヤミの世界が跋扈するのは、国家が機能していない証拠なのだ。

マフィアと国家の戦いは今も噂されるが、今回のシチリア旅行中、治安で不安を感じたことは一度も無かった。泥棒にもボッタクリにも遭わず、物乞いもおらず、市街は清潔で、交通秩序も悪くなかった。政治が良くなったのか、それとも地下のマフィアが仕切っているのか、旅行者の知り得るところではないが。


パレルモ

成田→ヘルシンキ→ローマ→パレルモと丸1日飛び、夜半過ぎにホテル着。まどろむ間もなく窓外が騒がしくなった。青果市場が隣にあった。異国情緒を味わうには市場を覗くのが一番、さっそく早朝取引を見学した。激しく動き回る仲買人と荷物に突き飛ばされながら、地中海のものなりの豊かさと、シチリア最大都市70万人の健啖ぶりに圧倒された。

パレルモの歴史遺産は、11世紀のノルマン王朝以降の建物が並ぶ旧市街。バイキングが遠征してイスラムを追い払ったと聞くと、地球規模の大戦争かと思うが、北欧とシチリアは北海道と九州ほどの距離。北アフリカの旧カルタゴとも対馬海峡ほどの隔たりにすぎない。ヨーロッパの距離感を実感しないと、歴史もEU構想もピンと来ない。

ホテルから市場を見下ろす 青果市場の様子 北部市街とベッレグリーノ山 坂本龍一コンサートの看板
ガリバルディ劇場 マッシモ劇場前 クアットロ・カンテイ(四つ辻)と守護聖女像 旧市街地で

歴史オンチは困ったもので、バイキング=海賊=野蛮人と決めつけていたが、パレルモの歴史遺産を見て、考えが変わった。9世紀に北欧を漕ぎ出た頃のノルマンは、確かに海賊そのものだったろうが、行く先々で定住して国を作った。ノルマンの侵攻が無ければ、イギリスもフランスも「文明開化」が遅れたかもしれないし、シチリアも、辺境の島として寂れ果てたのではないだろうか。

歴史オンチは「宗教オンチ」も兼ねるが、ノルマンがキリスト教を奉じつつ他国統治を進めたことにも、「深い戦略」を感じる。もし彼等が母国の北欧神話を押し広めようとしていたら、異国の民を治められなかっただろう。「強い宗教」を「鬼に金棒」に使う術は、祖先が神様の東アジアの国では、なかなか身に付かない。

カテドラーレとその内部 マルトラーナ教会 ノルマン王宮 ギリシャ賢人像
王宮内のパラテイーナ礼拝堂 モンレアーレのドウオーモとベネデイクト会士の回廊

アグリジェント

アテネのパルテノンで「ほんもの」を見たので、シチリアの片田舎にギリシャ神殿があると聞いても、村のお稲荷さん程度だろうと、あまり期待していなかった。だが、アグリジェントの「神殿の谷」には、「ほんもの」に劣らぬ壮麗な神殿が建ち並んでいた。

アグリジェントは、紀元前5世紀からギリシャ植民地最大の都市として栄華を誇り、紀元前3世紀にカルタゴを敗走させた頃は、「人間の都市のうちで最も美しい」と称えられたという。2千年余の間に幾度も大地震に遭ったが、コンコルディア神殿だけは倒壊を免れ、当時の姿で立っている。ローマ帝国後期にキリスト教会に転用され、内部に増築した礼拝室の壁が補強材となって、激震にも耐え抜いたという。異教の宗教施設をリサイクルするのは、ヨーロッパ流「もったいない」の一表現らしい。

ヘラ神殿 コンコルデイア神殿 ヘラクレス神殿 城壁の一部 人像柱テラモーネ ガイド氏

ピアッツア・アルメリーナ - カサーレの古代ローマ別荘

シチリア中部の小高い丘に歴史都市ピアッツア・アルメリーナがある。その郊外の農地の中に、古代ローマ帝政時代の遺跡が見つかったのは19世紀初めだったが、本格的な発掘が行われたのは1950年代になってからという。その結果顕れたのがモザイクの床である。あまりの見事さに皇帝の別荘とする説もあったが、建設時期が帝政末期でもあり、大農場主の館と考えるのが妥当らしい。それにしても壮大且つ精緻なもので、すぐれた芸術家と多くの職人を抱えた古代の豪族の財力に驚くと共に、そのオカネの使い方にも敬意を表したい。

狩猟の間 ビキニ娘の間 トイレの間 これから発掘 ガイド氏

シラクサ

「アルキメデスの原理」発見者はギリシャ人の筈だが、その墓がシラクサにあった。彼がシラクサに生まれシラクサで死んだギリシャ人と初めて知った。原理発見の元になった王冠の持ち主「ヘロン王」も、シラクサを治めたギリシャ人の王様。当時のシラクサは、芸術家や科学者も輩出する文化都市だったようだ。

古代遺跡の他に、大聖堂や修道院のあるオルテージャ島も観光スポットになっている。この島にも古代から都市があり、その上に中世の都市が築かれたが、17世紀末の大地震で壊滅したという。現在の建築物は18世紀のバロック様式だが、繁栄の時代が去った後の、もの哀しい残照と感じられる。

シラクサの朝 街角で オルテージャ島のアポロ神殿跡 オルテージャの裏通り 果物のようだが砂糖菓子 議事堂 大聖堂
(ドゥオーモ)
ドウオーモの内部 ローマ時代の円形闘技場 生贄を捧げる祭壇 石切り場 ギリシャ劇場

エトナ山

標高に3326mと3323mの2説あるが、噴火の度に測り直すのだろうか。自分だけは大災害に遭わないと考える人間心理は万国共通のようで、エトナ山でも中腹まで人家や果樹園が続く。2920mまでロープウェイで登り、終点から火山灰の登山道を少し登ったところで日没になったが、山頂から噴煙が吹き下ろし、ヨーロッパ最大の活火山の貫禄は十分だった。

ケーブル乗り場 ケーブル終点から山頂部を望む エトナの月 雲海に日が沈む 下りは四駆で

タオルミナ

ヨーロッパ屈指の観光地タオルミナは、イオニア海とエトナ火山を望む景勝地で、ギリシャ劇場の史跡もある。旅先での早起きは三文の得。朝食前の散歩で展望台まで足をのばし、エトナ山の全身を撮った(以降、噴煙と霞で山頂は姿を隠した)。午後の自由行動で、裏山のカステッロ城塞に登ることにした。朝の散歩で見つけた登山口への近道のつもりが道に迷い、着いたのは更に上のカステルモーラ山上集落。疲れたが、ウニの特別料理とワインでシチリアの旅を締めくくり、大満足だった。

イオニア海の朝 市の中心部 市街からエトナ火山 背後の丘 ギリシャ劇場 イオニア海
ハロウィーン姿の幼稚園児 坂道の菓子屋の店員 カステルモーラの山上集落から。遠景の城塞が当初目的地だったカステッロ シチリア北端のメッシーナ

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