スペインを旅行したのはもう12年前。帰国直後の2008年1月にレポートを掲載したが、当時はサーバーの容量が小さく写真の点数を制限したこともあり、拙速且つ不十分な記事のまま放置してあった。今になって古い記事を焼き直すのは、ネタ切れの事情もあるが、南米の国々で荒々しい政変が繰り返されるのを見るにつけ、かつてスペインの植民地だったこれらの国で「スペインの血」が騒いでいるのでは?と思ったことに発する(この点については追って書きたい)。

前にも書いたが、子供の頃の「歴史=不得意」意識が尾を引き、「歴史オンチ」を自認してきた。せっかく歴史豊かな国を旅しても、まさに「ボーっと観光してんじゃねーよ!」で、風物の写真を撮るだけで、それが語りかけるものを読み取ろうとしない。スペインも歴史の予備知識ナシで訪れたが、濃密な歴史に接して思い当たったことがある。小生の歴史嫌いは年代と人名を憶えられなかったからだが(「学習障害」は今も続くが)、年代や人名を正確に憶えなくても、「どんな流れで世の中が動いたのか」に興味が湧けば、歴史は実に面白いのだ。

スペインの変転極まりない歴史は、地中海の西端に突き出たイベリア半島の地勢が影響している筈だ。ピレネー山脈の険しい壁でヨーロッパから隔絶され、逆に北アフリカとはジブラルタルの狭い海峡で接している。紀元前からのローマ帝国の支配は北アフリカのカルタゴ(現在のアルジェ)から及び、5世紀からのゴート族(ゲルマン)の支配も地中海経由。ゴート族がもたらしたキリスト教は、8世紀に北アフリカから侵入したウマイヤ朝がイスラム圏に塗り替えた。首都コルドバが西ヨーロッパ最大の都市として栄えたのは、当時のイスラム教が異教徒(キリスト教、ユダヤ教)に寛容で、民族・宗教を越えて経済活動が盛んだったためと言われる。

そのウマイヤ朝が11世紀に滅び、イスラム世界が分裂してキリスト教の勢力が次第に挽回した(レコンキスタ=再征服)。戦国大名が割拠する時代が続いたが、1469年に当時の2大勢力だったカスティーリャの女王イサベル1世とアラゴンの王子フェルナンド2世の結婚で王国の統合が実現。中央集権化が進んでスペインの原型が出来ると、その後の展開は早い。1492年にイスラムの最後の砦だったグラナダが陥落、同年にイサベルの資金でインドを目指す航海に出たコロンブスが「新大陸」を発見するや、冒険的開拓者たちが我れ先に中南米各地を「征服」し、半世紀後にはフィリピン・グアムにまで覇権が及んだ。「陽の沈むことのない帝国」が「金銀財宝」を手に入れた経緯は、現代の感覚では「海賊・強盗」としか言いようがない。

「勝者必滅」は世の習いで、坂を転げ落ちるのも早い。1571年にオスマン帝国と闘って国力を削がれ、プロテスタントとの宗教戦争に巻き込まれて憔悴し、1588年にはスペインが誇る「無敵艦隊」が英国海軍に敗れた。配下だったポルトガル、オランダが独立し、フランスとの紛争にも勝てない。18世紀初頭にスペインの王位を巡ってヨーロッパ列強が争い、その結果スペインの王家はハプスブルグ系からフランスのブルボン系に代わった。そのブルボン系を廃したのがナポレオンで、1808年に兄のジョゼフを王位に据えると、旧勢力がこれを屈辱として反乱を起こし、19世紀を通して混乱が続く。国力は衰退の一途で、1898年にキューバを巡る米西戦争に敗れてグアム・フィリピンを米国に奪われ、「陽の沈まない帝国」のタイトルが過去のものになる。

20世紀前半のスペインはハチャメチャと言うしかない。ゼネストの嵐が吹き荒れ、王政・共和制・軍事政権が頻繁に入れ替わり、収まらない内戦にソ連とナチスの干渉が入り乱れる。1939年にナチスの支援を受けたフランコ将軍が独裁体制を築き、ファシズム政権は第二次大戦後も1975年にフランコが死去するまで続いた。動乱連続のスペインにしては奇妙な安定期だが、この長期独裁政権を支えたのが米国からの潤沢な資金流入(政府がらみを含む)だったらしい。ちょっと奇異に感じるが、東西冷戦時代にスペインの左傾を防ぐ米国の戦略だったと聞けば、ナルホドと思う。

1975年にフランコの遺言で王政復古し、元国王の孫ファン・カルロスが王座に就く。1978年に立憲君主制に移行してからは、1981年に軍事クーデター未遂事件はあったが、それなりの安定が続いていると言えよう。右派政権と左派政権が入れ替わる度に汚職暴露でゴタゴタするのも、ある意味で健全と言えないこともない。スペインには「老衰した帝国」の先入観があったが、訪れてみると予想より強い経済的活力が感じられたのは、EU加盟が効いているのかもしれない。



赤三角: 2008年の旅で訪れた都市


マドリード

地名の「カタカナ読み」が現地で通じないのはよくあることだが、「マドリード」もダメ。Madridのスペイン語読みは「マドゥリ」で、英語でも語尾の「d」は殆ど聞こえない (中国語の表記も「馬徳里」)。現地訛りでは「マドゥリース」と聞こえるらしいが、ここでは由来不明のカタカナ読みを使う。

マドリードには9世紀に後ウマイヤ朝が建てた小さな砦があったが、11世紀にキリスト教圏になってイスラムの痕跡は消された。マドリードがスペインの中心になったのは、1561年にフィリペ2世がマドリードに宮廷を築き、事実上の首都になったことに始まる(当時の皇帝は常に領地の城を巡回し、特に首都を定めなかった)。大航海時代の栄華がピークを迎えた頃で、世界中から「金銀財宝」が流れ込んだ筈だが、マドリードはコルドバやグラナダに比べると「金ピカ」の度合いが薄く感じられるのは、凋落の時代に食いつぶしたからだろうか。とにかくピークを過ぎたマドリードは反乱と内戦に明け暮れたようだ。

1939年に内戦に勝利したフランコ将軍がマドリードに入城し、首都としての機能が再生した。工業化が進んで地方から人口が流入し、5百万を超える都市圏が出来た。21世紀に入り、2004年に列車爆破テロ事件で多数の死傷者を出したが、我々が訪れた2008年には、路上でスリにしつこく狙われたが、治安上の不安は感じなかった。

ホテルの窓からの眺め。教会の屋根が二つ見える。
高層住宅の洗濯事情。
古い住宅は貫禄がある。
市内移動は地下鉄。料金は1€均一だった。車両はモダンなデザインで清掃も行き届いているが、スリに要注意と言われる。
プラド美術館の前に立つゴヤは17世紀に活躍した宮廷画家。

スペイン広場のセルバンテス像(1616年没)。足元にドン・キホーテとサンチョパンサの銅像。セルバンテスはオスマントルコとの戦いで名誉の負傷をした。

マヨール広場とその周辺。1619年にフィリペ3世が建造、王家の儀式や闘牛、祭りの場として使われた。中央にフィリペ3世の騎馬像が立つ。
アルムデナ大聖堂。建設計画は16世紀に始まったが、着工したのは19世紀末、完成は1993年で、スペインの混乱の歴史を象徴する。

内部の写真は他の教会が混じっているかもしれない。

現在の王宮は、ブルボン王朝の初代国王のフィリペ5世がベルサイユ宮殿風に建てさせ、1764年に完成。2700を超える部屋があり、現在も公式行事等で使われているが、現国王一家は別の宮殿で質素に暮らしておられる由。

アルマス広場に面した王宮正面。
王宮前広場のフィリペ4世像(在位1621~1665)。この頃は凋落期に入っていた。
衛兵交代に出会う。
王宮の広場からカンポ・デル・モーロの庭園を見下ろす。


トレド

マドリッドから南へ1時間、トレドには中世の帝都がそのままの姿で残っている。560年にゴート族がローマ帝国を退けて地中海を制覇し、「西ゴート王国」の首都を築いた。ゴート族はいわゆるゲルマン民族で「ゲルマン民族大移動」は歴史ギライだった小生も憶えている。「ゲルマン民族」の起源を「北欧バイキング」とする説は疑わしいらしいが、北ドイツの暗い森を出て南下し、ローマ帝国を押し潰して「地の果て」のイベリア半島まで進出したのである。彼等が祖先の宗教を捨ててカトリックを強く奉じたのは、東ローマ帝国(ギリシャ正教)との対立からだろう。

711年に北アフリカから進出したウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼし、トレドはイスラムに塗り替えられた。ゴート族の支配は苛烈で、弾圧された異教徒の多くが祖国を捨てたが、新たに支配者となったイスラムは異教徒に寛容で、キリスト教徒もユダヤ教徒も自由に商売でき、トレドは文化と産業の中心地として栄えた。

ウマイヤ朝も代を重ねるにつれ堕落を免れず、王家の内紛から分裂が進み、750年の革命で本国(ダマスカス)はウマイヤ朝からアッパース朝に代わる。ダマスカス脱出に成功したウマイヤ家の孫ラーマンは、756年にイベリア半島に渡って「後ウマイヤ朝」を立て、コルドバで本国を凌ぐ繁栄を築く。後ウマイヤ朝も権力継承争いで1031年に崩壊・分裂する。トレドにはイスラム小部族の「トレド王国」が出来るが、1085年にキリスト教を奉じるカステイーリャ王国に包囲され、入城を許してキリスト教の復活が成る(レコンキスタ=再征服)。トレドは王国の中心地として産業(主に鉄製品)・文化(文学、絵画)の中心地として大いに栄える。1561年にフィリペ2世が首都をマドリードに確定してトレドは首都の地位を失ったが、その後500年の混乱の時代を経ても荒廃を免れ、さりとて近代化されることもなく、フリーズ状態で繁栄の時代の姿を今に残しているのは、不思議といえばフシギである。

タホ川にU字型で囲まれたトレド旧市街は中世の姿を残す。
左側の建物が大聖堂。
壮大な城砦(アルkサル)は軍事博物館に。
建物は不明。
大聖堂の入口(たぶん)。
大聖堂の内部は中南米から集めた(略奪)黄金に飾られている。
聖書まで金ピカ。
エル・グレコの「オルガス伯の埋葬」
異教徒の拷問に使った器具。末期には異教徒狩りが強化された。

セゴビア

マドリッドから北西へ車で1時間のセゴビアには見るべきものが2つある。一つはローマ時代の水道橋で、紀元1世紀に造られた長さ728m、高さ28mの巨大な石の構造物は今も健在で、15Km離れた水源からセゴビアに水を供給している(19世紀に水道溝から鉄パイプの水道管に換装されたが)。塩野七生の著書でローマ時代の「公共事業」のレベルの高さを知ったが、現物を見て心から納得。

水道橋の威容。2000年前の建造物とは思えない。
最上部の水路を水道管に換装して現役で使用中。
聖母子像は後のキリスト教の時代に追加されたものだろう。

セゴビアのもう一つの観光名所はアルカサル(城)。1474年にイザベルがカスティーリャ女王に即位を宣言した場所とされるが、城内に残るイスラムの文様は、1862年に火災で大部分を焼失後に再建された際に、イスラム風に復元されたものだろうか。美しい外形はディズニーの「白雪姫」の城のモデルと言われる。

秋深い遊歩道でアルカサルに向かう。
途中にカテドラル(大聖堂)。
アルカサルのゲート。
ゲートの下は深い落とし穴。
中世騎士の武具の展示。
イスラム式の天井と壁は、近年に修復されたものだろうか?
ステンドグラスはキリスト教かイスラムか判然としない。
城下の街が夕日に燃える
下から眺めるとデイズニー「白雪姫」の城のモデルと分かる。


スペイン新幹線(AVE)

マドリードでの2日間の観光を終えてセビリアに移動。「小鉄ちゃん」(ちょっとだけ鉄ちゃん)の希望がかなって新幹線に乗った。マドリードからセビリアまで550Kmを2時間半で走るAVE(Alta Velcocidad Espaniola =スペイン高速)は、セビリア万博の開催にあわせて1992年に開通。車両はフランスTGVの技術供与で国産、軌道・信号システムはドイツのLZBを導入した。EUのいいとこ取りだが、客車はスペイン独特のタルゴ方式(小型軽量の連接車体)で、高速化と軌道の負担軽減、曲線通過速度向上を実現。最高速度は時速350Kmだが、営業運転は300Kmに抑えているらしい。

日本の新幹線は動力分散方式(電車)だが、日本以外の高速鉄道は強力な電気機関車で客車を引っ張る動力集中方式が主流。夫々利害得失はあるが、日本の新幹線と決定的に違うのは輸送力(乗車定員)で、新幹線が1編成で約1300人を運ぶのに対し、AVEは400人足らずで、2等車でも車内はゆったりしている。それにつけても日本の「一極集中」は異常で、新幹線網がそれに拍車をかけていることは間違いない。

中央駅で発車を待つタルゴ特急。強力な機関車で小型軽量客車を引く。
セビリア行きの新幹線列車。
タルゴ式連接客車の連結部。台車は単車軸。
大きな手荷物はここで預ける。
2等車でも日本のグリーン車に近い。
日本では姿を消した軽食堂車。