15年前、縁あって「山岳写真」の会に入れてもらったが、重い機材を担いで撮影スポットで粘って撮る「本格派」に進化できず、今も山歩きのついでにパチリの自称「ついで派」のまま。機材もシロウト用で、三脚さえ持たないことが多い。そんな甘い根性でクロウトの審査員をうならせる傑作が撮れる筈がなく、コンテストの類に応募したことがない。
かくもグータラな会員だが、写真展には欠かさず参加するので、追い立てられるような気分で出展作品を撮る旅に出る。「ついで派」とは言え、それなりに構図や光の具合、雲の流れなど気になって、ヘンな場所で小休止して撮ったり、小休止が大休止になったりする。そんな勝手が許されないツアー登山では、写真展で褒めてもらえそうな「作品」が撮れることは、まず無い。
そんなわけで、ツール・ド・モンブラン(TMB)でも、ツアー中の写真は「旅の記録用」と割り切って、「作品用」はツアー終了後に1週間延泊して撮り歩くことにした。前半はイタリア側のクールマイユールを拠点にモンブラン山群を南側から、後半は拠点をフランス側のシャモニに移して北側から撮る作戦に、南ドイツ在住の娘が車持参で合流し、宿の手配やアシの提供で親孝行をしてくれた。
7月2日朝、TMBツアー一行と別れて氷河撮影に向ったが、雨が降り出してショッピングに変更。シャモニは登山用品が安いと聞いていたが、異常なユーロ安もあって確かにお買い得。バーゲン心理で買わなくて済むものまで買ってしまう。
シャモニからモンブラン・トンネルをくぐってイタリア側へ。モンブランの真下に穿たれたトンネルの延長は11.8kmで、日本の関越トンネルとほぼ同じ。片側1車線の対面通行を走った感じも、関越の開通時と似ている(開通はモンブラントンネルが1965年で、関越トンネルより20年早い)。イタリア・フランス・スイスを結ぶ要路で、1999年のトンネル火災で3年間封鎖の間は交通が大混乱したというが、平日昼間の交通量は日本の地方国道並み。関越や中央道の輻輳に慣れた我々の目には「閑散」と映り、開通後47年の今も片側1車線のままに納得がゆく。
クールマイユールの宿舎は「滞在型ホテル」。ゆったりサイズの2LDKは拙宅の建坪よりも広く、ベランダからモンブランがバッチリ。58室予約満杯というが、ロビーや廊下はひっそりして他の宿泊者に会うこともない。料金を3人で割れば1泊4千円で、日本の山小屋の素泊まり料金と同じだが、内容が天と地ほど違うのは、前号で論じた「社会の豊かさ」の違いだろうか。
7月3日、ラッキーなことに好天気のサイクルに入った。先ずは光線状態の良い朝の内に山上の展望台へ。ロープウェイで麓のラ・パルード(1370m)から稜線上のトリノ・ヴェッキオ展望台(3335m)まで一気に昇る。上高地(1500m)からロープウェイで奥穂高山頂(3190m)に直行するようなもので、味気ないと言えば味気ないが、非登山者でも氷雪の山の醍醐味を味わえるし、本格登山派は核心部直行で訓練の密度が上がる。30分毎運転のロープウェイは軽装の観光客と重装備の登山者が混じってほぼ満員。
期待して乗ったロープウェイだが、目下架け替え工事中で、山頂部の展望回廊は閉鎖。山頂部を空中遊覧するフランス側のゴンドラへの乗り継ぎも不可で、眺望はモンブラン東南面とグラン・ジョラスの西端部に限られ、「作品撮り」には少々もの足りない。工事の様子では、上方に100mほど延長し、岩峰のてっぺんに駅舎を新設するらしい。完成すればモンブラン核心部の360度パノラマで、気楽な観光客の心にも、大自然への畏敬の念が生れるだろう。
ちなみに、日本の代表的な山岳ロープウェイは、西穂高岳(2908m)に架かる新穂高ロープウェイ(1305m→2158m)と、木曽駒ヶ岳(2955m)に架かる駒ヶ岳ロープウェイ(1661m→2611m)。どちらも中腹止まりで、稜線に出るだけでも登山道を1時間以上登らねばならず、登山装備のない観光客は終点周辺の散策と景観で満足して引き返すしかない。それはそれで有意義な体験だが、大自然への畏敬の念を実感できる人は少ないだろう。中腹止まりは環境保護や安全対策などとの日本的バランス(妥協)の産物だろうが、中途半端な仕掛けは中途半端な結果しか生まないもの。「どうせやるなら・・」のイタリア式ハラのくくり方がちょっと羨ましい。
小画面(サムネイル)の上にマウスを置くと拡大画面が表示されます。
|
|
|
|
|
気をとり直して尾根登りにかかる。1週間前に重いザックと腰痛で呻吟した箇所だが、今回は荷物も腰痛も無く軽快に急坂を登る。早朝の紅雲が天候変化の兆しだったらしく、山頂の雲が厚みを増して、この日も作品撮りの成果はイマイチ。
|
|
|
|
アオスタ州の公用語はイタリア語とフランス語。地名も(皇帝由来のアオスタを除き)モルジェ(Morgex)、クールマイユール(Courmayeur)、プレ・サン・ディディエ(Pre St. Didier)などフランス系が多い。フランスとは地理的にアルプスの壁で隔てられ、歴史的にもフランスに支配された時代は見当たらず、ちょっと不思議な気がする。この地方がイタリアに繰り入れられたのは19世紀半ばで、それ以前の独立王国の時代には、フランスとの交流が密だったのだろうか。
|