毎度「歴史オンチ」の恥を曝すが、日本の明治維新に影響を与えた国は「アメリカ」だと思っていた。確かに幕末史の中で「黒船」とペリーの強談判で徳川幕府に圧力をかけた米国の存在感は大きいが、米国流の社会システムは明治の日本にあまり入り込んでいない。この点で見るならば、日本を維新へと突き動かし、且つ明治の国造りに最も強く関与した国は「イギリス」だったようだ。

幕末時、ゴチゴチ攘夷派だった薩摩藩と長州藩は英国にケンカを売り、両藩とも英艦数隻の返り討ちでコテンパンにやられた(薩英戦争、馬関戦争)。「近代国家」の実力に圧倒された攘夷派は一夜にして開国派に変身する(この変わり身の早さは80年後に米国を相手に再現した)。徳川幕府を大政奉還(1867)に追い込んだ両藩は明治政府の中核となり、近代国家のあり方を欧米から学ぼうとする。

明治4年(1871)11月、岩倉具視を団長とする総勢107名の使節団が欧米歴訪の旅に出た。メンバーは新政府トップの木戸孝允、大久保利通、伊藤博文や、中江兆民、団琢磨、牧野伸顕、津田梅子など、国造りへの強烈な意気込みを感じさせる面々。

最初に訪れた米国で大歓迎を受けて8ヵ月間を過ごすが、キーマンの大久保と伊藤はすぐ一時帰国し、再渡米後も条約改定交渉に出ただけで、米国をじっくりと見ていない。当時の米国は南北戦争(1861~1865)の疲弊を色濃く残していた筈で、交渉の不調も加わり、米国の印象はイマイチだったのではないだろうか。

大西洋を渡った使節団は英国で4ヵ月を過ごす。彼等が見た英国はビクトリア女王(在位1837~1901)の時代で、大英帝国の絶頂期。国に勢いがある時は、その政治やシステムも理想的に映るもので、明治政府は国造りの範を英国に求めることになる。とりわけ立憲王政の「君臨すれど統治せず」には、「これだ!」とヒザを打ったに違いない。

法律や制度のみならず、産業や文化も「イギリス」が手本になった。明治元年から同33年(1900年)の間に日本が招いた外国人顧問やお雇い教師の数は、英国人が4,353人で、フランス1,578人、ドイツ1,223人、米国1,213人を大きく引き離す(source: wikipedia)。この間に日本から英国へ渡った留学生も万を超えた筈で、夏目漱石や高村幸太郎なども英国で吸収した近代芸術のタネを日本に持ち帰った。

世話になった「イギリス」に足を向けて寝られない気もするが、英国の「親切」の底には「敵の敵は、味方」という冷徹な国家戦略があった筈(仮想敵は帝政ロシア)。日本にとって幸いだったのは、この時期の大英帝国が「何でもアリ」の傍若無人を卒業していたことではないだろうか。歴史に「if」は無いと言うが、もし徳川幕府の崩壊が20年早かったら、日本がアヘン戦争の場になっていたかもしれない。そう思うとゾッとする。


湖水地方 (Lake District)

英国は日本の本州ほどの大きさの島国だが、地形は大いに異なる。プレートが重なり合って造山運動が激しい日本列島の地形は複雑で深山幽谷もあるが、英国は「大陸の切れ端し」のようにのっぺりとしている。加えて産業革命初期に製鉄で木炭を大量に必要としたため森林は伐採し尽くされ、毛織物業の牧羊で丘陵地は人工的な牧草地と化した。英国の自然は産業革命でほぼ全滅したと言われる。

高地で岩だらけの「湖水地方」は開拓の手を辛うじて免れていた。この地の環境保護を訴える牧師に賛同した絵本作家ベアトリクス・ポター(1866-1943)は、「ピーター・ラビット」の印税を投じて土地や家屋を買収し、ナショナル・トラストに寄贈して乱開発を防いだ。しかし英国随一の景勝地とは言え、息を飲む絶景はなく、湖の周辺は日本の有名観光地並みに「俗化」している。英国人が世界の秘境探訪に熱心なのは、自国の自然景観に飽きたらないからかもしれない。

スコットランドからイングランドへ。

湖水地方の山中。英国では最も高い山でも1千mに届かない。

(湖水を撮った写真がない)

ポター以前にも、湖水地方の自然保護運動に係った文人や画家は少なくない。中でも詩人ワーズワース(1770-1850)はかなり戦闘的だったようで、湖水地方への鉄道延長に猛反対したことで知られる。その理由が「この別天地を労働者階級の遊興地にしてはならない」だったというから、上流社会・知識人のエゴ丸出し。そんな気分が今の英国の激越な環境保護団体(反捕鯨など)に受け継がれているような気がするのは、小生の曲解だろうか。

詩人ワーズワースの住居、ダブ・コテージ。
ワーズワースの墓標は後世に作り直したものだろう。
ワーズワースの墓もこれに似たものだったのだろうか。
ブロンテ姉妹が育った住居(ハワーズ)。
小説「嵐が丘」には陰鬱な印象しかなかったが、その景観は思ったより明るくひらけていた。

チェスター

チェスターの歴史は古代ローマ軍が築いた城塞に始まる。日本の弥生時代にローマ帝国がここまで版図を拡げたことには驚くほかない。現在のチェスターはローマ時代の城塞の上に作られた中世の都市で、英国有数の観光地になっている。当時の姿が良く保存されているのは、チェスターが「産業革命に乗り遅れたおかげ」と言うのは、ちょっと皮肉。

チェスター銀座、ザ・ロウズの町なみ。2階部分も回廊式の歩道になっている。
少し新しい建物だろうか。
重厚なチェスター大聖堂。
大聖堂の内部。

ストラトフォード アポン エイボン

「エイボン川沿いのストラトフォード」はシェークスピア(1564ー1616)の生地・没地(作家としての活動拠点はロンドン)。53年の生涯に40作の長編戯曲を残し、その殆どが今も世界各地で再演され、数多くの「名せりふ」が人生の格言として引用され続けている。深い洞察力を示す名作を量産した才能と田舎出身の無学な経歴とが結びつかず、フランシス・ベーコン筆名説や、作家集団説もあったが、今は実在のシェークスピアが一人で全作品を創作したとする説が有力らしい。

ロイヤルシェイクスピア劇場で「Measure for Measure」を観劇。恥ずかしながらこれでも学生時代にシェークスピア講読の授業を受けたのだが、「せりふ」が全く聞き取れぬまま、眼が覚めたら芝居は終わっていた。考えてみれば、日本語で演じられる歌舞伎も殆ど聞き取れないのだから(昨今の日本の洋風はやり歌も同様)、古典英語が聞こえなかったからと言って自己嫌悪に陥ることもない。

ちなみに、シェークスピア劇の和訳は源氏物語の現代語訳よりもたくさん出ているようだ。最初の全訳者は坪内逍遥で、1909年(明治42年)~1928年(昭和3年)に全40篇を出版した。小生は逍遥訳の丸暗記で試験をこなしたせいで、英語力は全くつかなかったが、古めかしくて味のあるせりふ回しや、英語のリズム感が伝わる名調子にいたく感服。日本語能力が高くないと語学ではメシは食えないと納得して、英語をマジメに勉強する気を失くした。(ついでながら、近松門左衛門の作品を英訳したドナルド・キーン氏にも敬意を表したい。)

シェークスビアの生家。
裏庭に回ると「曲り屋」になっていた。
シェークスピアの妻、アン・ハザウェイの実家。
ロイヤル・シェークスピア劇場。
劇場前のポスター。劇は現代風の装置や衣装で演じられた。
役者のアパート。
ホテルは中世の建物。内部は日本の古い旅館のように細い廊下がクネクネ。天井が低いのは当時の英国人が小柄だった証拠。
当時の町なみが保存されている。
エイボン川の朝。
米国の大型キャンピングカーと同様、英国では船上生活がリタイア族の夢らしい。


コッツウォルズ丘陵

コッツウオルズ地方は羊毛の集散地として栄えたが、今は独特の雰囲気を持つ観光地。蜂蜜色の石灰岩で作られた町の景観に英国の「落ち着き」がしみじみと感じられる。トイレ休憩ついでの見学では時間足らずで、もっとじっくりと味わいたかった。

コッツウオルズ点景
落ち着いた生活感が漂う。

オクスフォード

オクスフォード大学は、何十校もの全寮制カレッジの集合体と言う。その仕組みはよく理解できないが、モノの本に拠れば、学生は教師と1対1でみっちりしごかれ、本気でヤル気を出さねば卒業できないらしい。英語圏で最も古く権威ある大学だけに、大物政治家やノーベル受賞者を輩出してきたが、実業界への就職は稀で、圧倒的に多いのはフツウの学校の先生だという。教師の薄給は英国も例外ではないらしいが、英国の知的エリートには「仙人」が多いのだろうか。

この記事を書きながら、カナダ駐在で「この国は士商農工だな」と実感したことを思い出した。「士」の政府・公営企業や「商」の銀行が巾を利かせ、「工」の製造業の影が薄いのはカナダ特有の事情と思っていたが、旧本国のコピーだったようだ。英国は200年前に「工」のピークを過ぎ、「英国病」と称される不景気に苛まれ続け、サッチャーの荒療治でやっと息をついたのは金融業だけらしい。日本は20年前に「工」のピークを過ぎたが、これからどんな道を歩むことになるのだろうか。

最大のクライストチャーチ・カレッジは1546年の建学。
右奥の建物は日本の皇太子が入寮したカレッジと聞く。
図書館のラドクリフ・カメラは18世紀に医師ラドクリフが遺産で寄贈。「写真機」の語源の「カメラ」は「円天井の部屋」を意味する。
この哲人は誰だろう?
学生アルバイトなのか「本職の物乞い」なのか不明。