1970年代、英国は「イギリス病」で呻吟していた。この時期、日本経済もオイルショックと円の急上昇で大混乱したが、ガンバリ通して高度成長を加速させ、世界第2位の経済大国にのし上った。そんな「青壮年期」の日本から見た英国は、昔日の栄光が鼻につくイヤミなヨレヨレ老人で、中には「ザマミロ」と言わんばかりの論調もあったと記憶する。

英国の「青壮年期」は18世紀後半~19世紀の産業革命の時代。1840年に英国に亡命したマルクスは、「資本の論理」に身を任せた荒々しい振る舞いを目撃して、「こんなことをしていると国家崩壊に至るゾ」と心配した。植民地でも体力にモノを言わせて暴れ廻り、武力で土地収奪、奴隷貿易で労働力獲得、あげくは収支不均衡をアヘンの三角貿易でチャラにするなど、「何でもアリ」の無法ぶりは、我々が「ジェントルマン」に抱くイメージからほど遠い。(Gentleman:貴族ではないが武器携行を許された富裕階級。原語に「品行方正」のニュアンスは無い。)

子の稼ぎを容赦なく巻きあげる親に北米植民地が造反。英国側はこの戦争(1775-1783)を「アメリカの独立戦争」(American War of Independence)と呼ぶが、米国では「アメリカ革命」(The American Revolution。革命嫌いの米国も自分の「造反有理」は「革命」と定義)。英国側はドイツ傭兵2万を含む兵員数で圧倒したが、敵王の居城を陥せば「一本勝ち」のヨーロッパの戦争と違い、北米大陸の戦いはゲリラ掃討のようなもので、拠点都市を陥しても勝ったことにならない。フランス、スペイン、オランダも夫々の思惑で植民地側に加勢し、英国は敗北を認めざるを得なかった。

敗戦後も勢いは衰えず、七つの海を制して「パクス・ブリタニカ」を謳歌するが、暴飲暴食・不摂生を続ければ早晩健康を損ねる。1873年の大不況、1890年の「ベアリング恐慌」でスタミナ切れを露呈し、手足にシビレが出て動きも鈍り始めた。20世紀になって2度の大戦で戦勝国になったものの、経済基盤縮小で急速に体力が落ち、慢性不況と高失業率から抜け出せない「イギリス病」に陥る。こうして見ると、英国の近代史は人間の「成人病」の進行と似ている。成人病は生活習慣を変えれば症状が多少改善するが、若返りの根本治療は見つかっていない。

日本と英国も案外よく似ている。国土面積・人口・経済規模(GDP)は同クラス。立憲王政・二院制・議院内閣制など政治の仕組みは英国のコピーで、日本にとって英国は「他山の石」になる筈。英国が陥ったジレンマを「イギリス病」と揶揄したが、バブル崩壊でアッという間に発症した「日本病」は、借金値がチョー高い分だけ悪性らしい(公的債務の対GDP比:英国=79.5%、日本=208%)。

患者に自覚が薄いのが成人病の特徴で、「オレは大丈夫」と放置する間に重症化して手が施せなくなる。「日本は中高年の預貯金がたっぷりあるから財政破綻しない」というが、少なくとも小生の「預貯金」は減る一方。もし同輩諸氏もご同様とすれば、国民の貯蓄性向低下で担保が底をつく。鉄壁だった貿易収支も赤字月が連続し、準ギリシャ状態のアラームが点いた。

「イギリス病」の元凶は「ゆりかごから墓場まで」の高福祉で特殊なケースとする説があったが、民主主義の国が成熟すれば高福祉国家に行き着く。選挙で勝つために福祉予算をバラまき、その財源は国民の経済活動から税金で吸い上げるしかないが、成熟社会に高度成長なく、減税や公共投資が景気を刺激しないことも実証済み。消費税率を2倍にしても財政赤字解消には焼石に水で、麻酔の効かない大手術を避け難いが、イタイのもイヤ。覚悟が決まらず弱音もはけない。行き詰まるとヤケッパチで暴走する悪いクセが出る前に、英国から「老人らしく穏やかに生きる道」を学ぶべきかもしれない。


ロンドン (撮影:1993年7月)

「英米をマタにかけた」と誤解されることがあるが、小生は英国と仕事の縁が無く、ロンドンは観光で1.5日過ごしただけ。その内の1日は、スイス旅行(1993年7月)の帰途、飛行機乗継ぎの「ついで観光」で、ガイドブックの地図を見ながら市内の名所を歩き回った。(残りの0.5日分については後述)

「鳥」属を名乗る小生、生まれつき方向感覚良好と自覚し、方向オンチの連れ合いに優越感を抱いていたのだが、ロンドンでは地図と居場所が一致しないこと再三、オタオタして面目を失った。道路が妙に捻じれていて、角を曲がると方向感覚が狂い、どっちが「北」か分からなくなるのだ。迷路のような市街は中世都市に共通するが、ロンドンは市街をなめつくした大火(1666年)を経て、大英帝国の帝都として大発展し、第二次大戦の爆撃で破壊された。この間に「都市計画」で「再開発」される機会はあった筈だが、その跡があまり見えない。

江戸とロンドンの相似論を読んだ記憶がある(詳細は思い出せないが)。幕府は地方大名の家族を(人質として)江戸に住まわせ、大名に参勤交代を課して領地と江戸を往復させた。大名の「江戸屋敷」は一族の住居であると共に江戸詰め中の居城でもあり、各大名が千人単位の武士や雇人を抱え、彼等に諸サービスを提供する町民や、その町民の生活を支える町民が江戸に集まり、消費都市として巨大化した。

同時代の英国でも、地方に領地を持つ貴族や、事業で財をなした「ジェントルマン」たちは、領地経営を「国家老」に任せ、「ロンドン屋敷」を構えて生活と活動の本拠とした。彼等の周辺に膨大な数の「町民」が集まり、巨大消費都市として発展した事情は江戸と似ている(産業革命で発展したのはマンチェスターやグラスゴーなど北部の都市で、ロンドンには「産業都市」の歴史がない)。

「武家」の壮大な邸宅跡と「町人」のゴミゴミした居住区が入り混じった都市空間は共通しているが、東京は大震災、大空襲、大バブルを経て大変貌した。ロンドンも大空襲から「復旧」したが、「変貌」の度合いは極めて少ない。この違いは、建物の「木造」「石造」の違いだけではなさそうだ。


ロンドン中心部の素顔
都心のホテルの裏窓から。ロンドン銀座の裏側とは思えない眺めだが、東京都中央区にも似たような一画があるかもしれない。
ホテル前の狭い道路を消防車が走り抜ける。
ホテルの近くに小説家サマセット・モームの住まいがあった。
メインストリートにも生活感がある。
ロンドン・キャブが屯す一画。

ロンドン観光スポット巡り
バッキンガム宮殿。女王陛下の平素の居城は近郊にあるウィンザー城で、ここは公務用の「表宮殿」。
高位聖職者の謁見があったらしい。
おなじみの衛兵交代。宮殿前の広場は「おのぼりさん」で埋まる。
カナダのオタワ議事堂前の「衛兵」は学生アルバイトだが、さすがに本場はホンモノの兵隊さん。
ウェストミンスター橋から見た国会議事堂(1834年建造)。
北側の時計塔(ビッグベン)にばかり目が行くが、南側のビクトリア塔もなかなか立派。
議事堂隣りのウェストミンスター寺院は「英国国教会」の総本山。
英国では宗教改革で多くの血が流されたが、「国教会」はカトリックの要素を強く残している。
国会議事堂の周辺は「霞ヶ関」に相当する官庁街。
王立厩舎は今も重要な施設。
少し新しい建物もないわけではない。
大英博物館
ナショナルギャラリー
トラファルガー広場のネルソン提督像
タワーブリッジ。1894年完成時は水力で開閉。第二次大戦でドイツのV1ロケットが命中したが再建された。
殺伐たる歴史を秘めるロンドン塔は現在も王室の宮殿。

ロンドン再訪 (1998年7月)

1998年夏の英国縦断の旅でもロンドンに泊まったが、主催者が「皆さんはロンドンなど見飽きているでしょう」と気を利かせ、市内観光ナシ。チェックインして夕食までの自由時間に、ハイドパークとケンジントンパークを小走りに通り抜け、閉館間際の科学博物館に駆け込んで「産業革命」の熱気を体感。これを0.5日分にカウントした。

ケンジントン宮殿。故ダイアナ元王妃が離婚後も住んだ。
宮殿庭のビクトリア女王像。
宮殿東側の庭園。これぞイングリッシュ・ガーデン?
ケンジントン庭園とハイドパークは続いている。どっちで撮ったのか記憶がない。

バース  (Bath) (撮影:1998年7月)

イギリスと「温泉」は何となく結びつかないが、ロンドンから西へ100㎞のバースは別府の姉妹都市。普通名詞の「風呂」をのまま地名にするのはミもフタもないが、そんな「情緒欠落」も英国流なのかもしれない。

風呂好きの古代ローマ人が温泉を見逃す筈がない。紀元43年に建てた大浴場は帝都ローマの大浴場に劣らず豪奢なもので、首都の「文明」を帝国の隅々まで及ぼすことを当然と考えた古代ローマの政治哲学の面目躍如。

古代ローマの衰退と共に「風呂」も廃墟と化したが、16世紀のエリザベス1世の時代に貴族のリゾートとして復活、18世紀の産業革命の時代に富裕層の「カネの落とし場」として大規模な開発が行われた。第二次大戦の空爆で破壊されたが、18世紀当時の姿に再建されている。

バースが観光業に加えて出版業・ソフトウェア産業の一大拠点となっているのは、良好な住環境に惹かれて集まる知的人材の活用。日本の熱海が知的産業センターとして再開発されないのは、何故だろう?

1770年架設のバルトニー橋。温泉場の雰囲気が漂う。
古代ローマ時代の大浴場。今も温泉が湧いている。
18世紀に建てられた大寺院は重厚な英国ゴシッ様式。
大聖堂広場の大道芸人。
18世紀に建てられた集合住宅のロイヤル・クレッセント

ストーンヘンジ (撮影: 1998年7月)

ストーンヘンジが作られたのは、古代ローマの「風呂」よりも更に2500年前の紀元前2500年頃(エジプトのピラミッド建設と同時代)。夏至の太陽の方角を正確に示す石があり、祭祀を行った場所と考えられる。

小型の石柱(といっても重量4トン以上のブルーストーン)は150km離れたウェールズ西部のプレセリから海上と陸上を運ばれ、25トンを超えるサーセンの巨石は30km離れたマルボローの岩山から運ばれたという。ピラミッドとの共通点を感ずるが、偶然なのだろうか、それともこの時代に古代エジプトと交流があったのだろうか?

遺跡は20世紀になって再建され、今は世界遺産として厳重に管理されているが、それ以前に建設資材として搬出されたり、観光客が砕いて持ち去った石が多いという。
遺跡近くの典型的な農村風景。英国は農業国である。