以下は2021/1/1に掲載した「2020年山歩きレポート」から壱岐・対馬の記事を再掲載しました。

コロナの影響はどの業界も受けているが、海外ツアー専門の会社は「自助」しようがなく、最も困っている業界の一つに違いない。ヒマラヤでお世話になる会社(イースター島に行った会社とは別)でアルメニアの登山ツアーを予定していたが、隣国との紛争とコロナの2重苦で中止。他のツアーも全滅で、失礼ながら「大丈夫?」と心配になるが、リスク管理(どんな事態にも即対応)が日常業務の彼等ゆえ、知恵を絞って切り抜けているようだ。

その会社から Go To トラベルの案内が来た。「新しい生活様式の旅」は気に染まぬが、なじみのツアー会社を少しでも応援しようと壱岐・対馬3泊4日のツアーに参加した。山岳ツアーの会社なので「山歩き」が主目的だが、日本と大陸の接点に位置する島の歴史にも興味が湧いた。

1日目、羽田から長崎経由で壱岐空港へ。壱岐着は午後3時で、初日の予定は一支國(いきこく、中国の史書に記述された国名)博物館の見学だけ。壱岐はどこを掘っても弥生・古墳時代の遺跡が出るという。博物館には膨大な発掘物の展示・保存の他に発掘物の修復場があり、作業の様子を見学できる。改めて地図を見ると朝鮮半島はすぐそこ。弥生人は半島からの渡来人とされるが、弥生・古墳の時代に壱岐・対馬が中継地として繁栄した様子が窺える。

2日目、午前中に観光スポットを巡る。壱岐の山歩きは駐車場から島の最高点「岳の辻」展望台までの標高差30mだけ。

壱岐北端の集落、勝本の朝市。出店が少く寂しかった。
城山公園に信州諏訪大社の御柱。壱岐出身で諏訪で客死した武士の縁で両市は姉妹都市に。
勝本城址の石垣。秀吉の朝鮮出兵の際に急遽築かれた。
壱岐島最高点、岳ノ辻(212m)からの眺め。
観光名所の猿岩。
弥生期の一支国の王都を復元。半島からの使節の宿舎もある。

昼のフェリーで対馬に渡り(2時間の航海)、その足で島中央の城山(標高276m)に登る。663年に百済が唐・新羅の連合軍に攻められた際、日本(倭国)は百済に援軍を送った。倭国は仕返しに備えて西日本各地に山城を築き、その一つがこの金田城(かなたのき)。当時の国防最前線で、関東から送られた防人(さきもり)が農作しつつ軍務に就いた。その1200年後、城跡に明治政府が日露戦争に備えて要塞と砲台を築いた。今はその両方が特別史跡になっている。

登山口から山頂直下までの2.6Kmは明治時代の軍用道路で、所々に倭国時代の城跡を示す標識がある。山頂部にコンクリートで固めた要塞・砲台跡があり、そこから急登して標高276mの山頂に立つ。秋の陽は「つるべ落とし」で、山道に夜が足早に迫る。急いで下山したが、駐車場に着いた時は足元が見えず、遭難一歩手前だった。低山を甘く見てヘッドランプを持たずに登ったのは不覚。

登山道からリアス式の内海を見下ろす。
1300年前に築かれた金田城の石垣。
山頂直下に明治の要塞跡。
城山の山頂。
山頂からの眺め。西の海に陽が落ちる。
翌日登る「白嶽」の岩塔も見えた。

3日目はメインイベントの「白嶽」(しらたけ 519m)登山。古くから崇敬されてきた霊峰で、登山道の途中に石仏や鳥居が立つ。山頂直下の祠まで程々の坂道だが、最後の100mはロープが頼りの急斜面で、山頂の岩塔は3点確保の岩登りになる。山頂は1枚岩のツルツルで周囲が切り落ち、高所恐怖症は立ち上がれず、座り込んで写真を撮る。晴れた日は40Km先の韓国の山並みが見えるというが、残念ながらこの日は薄霞がかかって見えなかった。

9:00 バス終点から白嶽を望む。マイクロバスでこの先の登山口まで入った。
9:20 登山口を入るとすぐ不動明王の石像。
11:20 山頂直下の神社から山頂の岩塔(左)を見上げる。
11:36 岩塔をよじ登って登頂。高所恐怖症は立つのが怖い。
雄岩山頂から北の眺め。雌岩の先は犬ケ首湾。
西側の眺め。

4日目、昼前のフライトまで見学と買い物で過ごす。Go To には「地域共通クーポン」も付く。旅行代金の15%相当の金券で、旅行先で購入する物品や飲食に使用できるが、使える店は限られる。今回のツアーではトラベル給付金4万2千円+クーポン1万8千円、二人で計12万円の税金を使ったことになる。落語の「花見酒」を地で行くような施策は本当にオカシイと思うが、「地域経済を救うため」と言われれば矛先が鈍り、クーポンは地酒購入に使わせてもらった。

万松院は対馬付中藩の菩提寺。山門は1615年建立当時のもの。
歴代藩主の陵墓が並ぶ。
諫鼓(かんこ)。領民が領主に諫言する際に打ちならした。これ、ほしいなあ…
小茂田浜神社。元寇の際に元・高麗連合軍が上陸した地点。
対馬国の地頭代だった宗助國は元寇に立ち向かって戦死、祭神に。
対馬空港から長崎へ。