2016年5月23日に硫黄島を訪れた。と言っても民間人の硫黄島上陸は不可で、船で島を1周するツアーに参加しただけ。それでも行く気になったのは、硫黄島で戦死した連れ合いの父親(小生にとって義父)の慰霊の旅に同行を思い立った故で、戦後70年の昨年7月に行く筈だったが台風でドタキャンになり、今年5月催行のツアー参加で実現した。本稿は父島の戦跡訪問を含む5泊6日(内3泊は船中)の旅のレポートである。
硫黄島は太平洋戦争末期の1945年2月~3月、日米が激突した戦場の島として知られる。日本軍の戦死者は20,129名とされるが、米軍も6,821名の戦死者と21,965名の戦傷者を出した。死傷者の総数では米軍の方が多く、栗林中将率いる守備隊が、圧倒的戦力を持つ米軍上陸部隊を苦しめ抜いたことが分かる。それだけに米軍側の硫黄島への思い入れは深く、首都のアーリントン国立墓地(戦没者専用)にある、硫黄島擂鉢山に星条旗を押し立てる海兵隊員の碑(右)は、米国軍人の高い戦意と勇気の象徴になっている。
連れ合いは父親を写真でしか知らず、小笠原の父島から軍用郵便で届いた手紙の束も、老母が身辺整理で焼いてしまったという。想像するに、義父は父島の兵団から硫黄島に増援された部隊の一員で、硫黄島の地下壕で玉砕したと思われる。終戦から数年を経て届いた白木の箱に、遺骨代わりの小石が1個入っていたというが、それが硫黄島の石とも思えない。第二次大戦で戦死した210万の日本兵の多くが、義父と同様「お国のため」に駆り出され、石コロになって帰された。我々は71年後にそのことを思い起こす機会を得たが、この苦い記憶を次の世代につなぐことは容易ではなさそうだ。
硫黄島守備隊の司令官だった栗林忠道中将(以下敬称略)は、小生と同郷で高校の大先輩でもある(長野中学明治44年卒)。栗林が戦場から家族に宛てた書簡集「硫黄島からの手紙」(文春文庫)はベストセラーになり、同名の映画も封切られた(小生は見ていない)。文庫版のオビに「かくも品格ある日本人がいた」とあるが、小生の読後感も同じで、澄み切った知性と愛に溢れる優れた人物像が浮かぶ。帝国陸軍中枢は自己中心の暴走集団と思っていたが、中には「品格ある日本人」も居たようだ。今の世ならさしずめ都知事に推したい人だが、惜しむらくは彼があの時代の「職業軍人」だったことで、その職務を立派に遂行した結果が、2万余の部下を石コロに変え、相手方にも同数以上の死傷を強いることになった。それが「軍国の正義」であって、栗林個人を責めるわけにはゆかないが、戦争というものが究極の「人間の無駄遣い」でしかないことを、つくづくと思わざるをえない。
1985年に硫黄島で日米双方の元軍人による合同慰霊祭が行われ、双方の参加者が恩讐を越えて歩み寄り抱き合ったという(上坂冬子「硫黄島いまだ玉砕せず」文春文庫)。それはそれで感動的な場面に違いないが、戦争の美化に利用したがる人もいるので、うかうか感涙にむせんでいられない。戦争が美談を生む時代が再び来ないことを心から望む。
太平洋戦争で硫黄島が攻防の地になったのは、この島に長い滑走路を作れる平坦な土地があったからで、米軍はまだ戦闘が続く中で2600m滑走路を急造し、B29爆撃機を護衛する戦闘機を発進させ、日本上空で被弾したB29の緊急着陸に使った。都市爆撃が硫黄島占領以降に本格化したことからも、この飛行場の戦略的重要性が分かる。返還後は海上自衛隊と航空自衛隊の航空基地として使われていて、民間機の発着は原則ダメ。硫黄島には港湾施設もなく、そもそも「民間人は上陸禁止」だから、硫黄島旅行はやりようがない。
今回のツアーは、竹芝桟橋と小笠原父島を結ぶ定期船「おがわさら丸」の航路を、年に1度だけ硫黄列島まで延長し、船の上から南硫黄島、硫黄島、北硫黄島を眺める特別クルーズで、父島まで1000㎞、25時間半を要し、硫黄列島へは更に南へ350㎞、片道10時間の航海になる。飛行機なら地球の裏側まで行けるが、船の行先は「東京都小笠原村」で、島を走る車は「品川」ナンバー。ちなみに沖ノ鳥島と南鳥島も小笠原村で、地図の上では村内に日本列島がすっぽり入る。
おがさわら丸は6700トンの貨客船で、700名の旅客と貨物コンテナを積み、月に5~6往復の航海をする。実用本位でクルーズ船の華やかさはなく、キャフテリア式レストランのメニューも大衆的だが、味は悪くない。旅客の大半はカーペットの床に雑魚寝の2等船室の利用者で、寝台列車に似た特2等、1等や、個室の特1等、特等もあるが、数が少なく予約が取り難い。船齢20年の現おがさわら丸は本年6月末で退役し、7月から就航する新おがさわら丸は上級船室を増やすようだ。
10:00に竹芝桟橋を離れる前から、デッキにバズーカ砲の如き超望遠レンズの砲列が、30基以上も並んだのにビックリ。海鳥の観察・撮影グル―プである。写真屋の端くれとして撮影機材の値段はおよその見当がつくが、一式300万円を下らぬ超高級機材がズラリと並ぶのは壮観と言うしかない。小笠原と硫黄列島には珍しい海鳥が生息し、それを狙うバードウォッチャーは年に1度の硫黄島クルーズを首を長くして待つという。彼等は空が明るい間はデッキに陣取り、カップラーメンをすすりながら終日海鳥を追う。山の写真屋も一般に執念深いが、鳥の写真屋には勝てそうもない。ましてチャチな機材で「ついで撮り」が流儀のヘボアマには別次元である。
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海は穏やかで揺れを感じることもなく、11:10に父島二見港に接岸。上陸して昼食をとり、18:00の再集合まで父島観光で時間を過ごす。父島は東京都小笠原村で最大の人口(2,050人)を有するが、その多くは公務員・準公務員の転勤族と、近年になって小笠原の自然に魅せられて移住した若い世代(主として観光業に従事)で、戦時中に強制疎開させられて返還後に帰島した旧島民の子孫は少ないという。我々のガイドを務めてくれたSさんも小笠原に憧れた「新島民」で、同じ思いで来島した女性と結婚、定住した由。そう聞くと父島は「地方創生」の好モデルだが、新島民の悩みは住宅不足で、都営住宅の入居は我々の若い頃の「公団住宅」抽選より厳しく、改善の目途はないという。政権メダマ政策のエンジンは官邸で「カラ噴かし」のままらしい。
小笠原諸島はユネスコ自然遺産に登録されたが、理由は固有の生態系にある。海底火山が頭を出した「海洋島」は陸とつながったことがなく、生息する生物は海流や風、鳥に運ばれて渡来し、島で独自の進化を遂げたもので、いわば日本のガラパゴスなのだ。そのガラパゴスに人間が様々な意図や偶然で外来種を持込み、本来の生態系を破壊している。意図的に持ち込んで野生化した動物には山羊や猫、植物では燃料用木材等などがあり、自然遺産登録を機に駆除を進めているが、予算の制約でイタチごっこと聞く。鉄道や道路を作りたがる政治家や役人はいくらでもいるが、人間の身勝手の後始末がボランティアの善意任せでは、地球と人類の未来は明るくならない。
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南硫黄島
前日19:00に父島を出港したおがさわら丸は、翌朝05:30、南硫黄島のおむすび型の島影を捉えた。硫黄列島の南端に位置する南硫黄島は北緯24度14分にあり、日本最南端の沖縄波照間島(北緯24度3分)とほぼ同じ。標高916mの山頂を頂点とする底辺角45度の円錐形の島で、急峻な海食崖は上陸さえ困難にしている。人が定住したことがなく、十数年毎に調査隊がよじ登って生態系の調査を行うのが精一杯。最近の調査はユネスコ自然遺産登録に備えて2007年に行われ、人が寄り付けない孤島であることからネズミなどの害獣の侵入もなく、自然状態での生物相の維持や生物群集の成立・発展を確認できる貴重な現場であることが確認された。このような島は日本では他に類を見ないという。
山頂は雲に隠れて滅多に見えないと言うが、小生の「日頃の善行」が今回も効を奏し、島の全姿をカメラにおさめることができたが、期待したクジラやイルカは現れてくれなかった。島周辺の水深は意外に浅く大型船の接近は危険らしいが、説明役の専門家によれば船長が「ギリギリまで攻めてくれた」由で、海鳥撮影組は大興奮だったようだ。
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南硫黄島から2時間、8:30に擂鉢山が見えた。山の北側の平坦な台地は、シロウト目にも飛行場に適した地形と分かる。小笠原の島々はどれも峻険な火山島で平地がなく、飛行場を作るとすればここしかない。海軍は南方(東南アジア)と本土を結ぶ航空路の中継地として、戦前の昭和8年(1933)に飛行場を作り、航空兵力1,500名と航空機20機を配置していた。陸軍が硫黄島に兵力を展開したのは、戦況が逼迫した昭和19年(1944)3月からで、大本営は父島の防衛隊から約5千名を硫黄島に進出させ、6月8日に師団長として栗林陸軍中将を送り込み、先住の海軍部隊をその隷下に繰り入れた(栗林は海軍の抵抗と命令無視に手を焼くことになる)。
陸軍士官学校を出て騎兵隊幹部の道を歩んだ栗林は、37歳の時に(1927年)ワシントン大使館付きで米国留学の機会を与えられ、ハーバードで聴講生として語学と米国史を学び、テキサス州フォートリブスの陸軍騎兵隊で実践的な軍事研究に携わった経験を持つ。同期の中で出世は早かったが、陸軍中枢で重用された経歴がないのは、親米派と見られたことや、つい正論を吐く信州人のクセが嫌われたのかもしれない。そんな栗林は、誰よりも冷静・的確に米国の戦力を承知していた筈で、甘い想定に捉われたり、見栄えの良い作戦に自己陶酔するタイプではない。
栗林が先ず着手したことは、米軍を水際で撃退する作戦を主張する部下の更迭だった。米軍と正面衝突してもアッという間に制圧されてしまう。それよりも、敢えて無抵抗で上陸させ、十分に引き付けてからゲリラ的に戦って消耗を強い、時間稼ぎをして、米軍の日本本土への進攻を1日でも遅らせる作戦に徹したのである。7月に島の民間人の疎開を完了させ、2万1千名に増員された兵士には、訓練と平行して地下坑道の掘削を急がせた。計画した25㎞の坑道の内17㎞を掘ったところで、昭和20年(1945)2月16日に米軍の上陸を迎えた。
敵艦隊の接近を見た海軍が栗林の命令に反して擂鉢山から発砲し、重砲陣地の場所を知った米艦隊から山容が変わるほどの砲火を浴び、擂鉢山の壕内に配置してあった重火砲が早々に全滅する齟齬はあったが、3万の米兵が上陸して内陸に前進するまでじっと反攻を抑え、3日後の2月19日になってようやく攻撃を開始した。栗林はバンザイ突撃を禁じ、接近した敵に集中砲火を浴びせて確実に損害を与え、19日だけで500名の戦死者と1800名の負傷者を生じさせた。米軍は当初5日もあれば片付くと思っていたが、日本軍の組織的抵抗を終わらせるまでに1ヵ月を費やし、2万2千名の死傷者を出すことになる。
栗林は3月14日に軍旗を奉焼し、16日夕に大本営に「決別電報」を発信した。翌17日、大本営は栗林を「師団長として硫黄島に在って作戦指導に任じその功績特に顕著」として大将に昇進させ、21日になって「硫黄島守備隊が17日に玉砕」と発表した。しかしそれで戦闘が終息したわけではない。栗林が最後の総攻撃を敢行したのは「玉砕」から9日後の3月26日で、栗林は同日に負傷・自決したとされるが、身分を示す襟章等を外して出撃したので、遺体を確認できなかったという。米軍は生き残った日本兵に投降をよびかけたが、相当数が地下陣地に潜伏して反撃を続けたため、壕を片っぱしから火炎放射器で焼き尽くして入口を埋め潰すしかなかった。
日本兵の捕虜は3月末で200名、終戦時(8月15日)で1,023名と記録されているが、その多くは負傷や衰弱で抵抗できずに「救出」された者で、自らの意思で投降した兵はごく少数だった。米軍が全島を制圧した3月27日時点でも、まだ半数(約1万名)が壕内で生存していたという証言がある(「太平洋戦争全史」河出文庫他)。欧米の戦争の慣習では、勝敗が決した時点で敗軍の将兵が投降し、勝軍は捕虜を人道的に扱うことが国際法で定められている。仮に栗林が軍旗を奉焼した3月14日の時点で兵に投降を許していたら、1万人以上が石コロにならなくて済んだかもしれず、小生も義父と酒を酌めたかもしれない。
栗林は3月17日の最終指令で「最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スヘシ 予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」と督励し、兵は司令官亡き後も戦い続けて玉砕した。まさに「生きて虜囚の辱を受けず」を体現したのだが、「生きて虜囚 云々」は1941年に陸軍大臣東条英機が示達した訓令で、「軍人勅諭」にはこのくだりはない。合理的思考の持ち主で米国留学経験もあり、日本の敗戦が近いことを知り、且つ米軍が捕虜虐待しないことも承知していた栗林が、もし「生きてお国に尽くす道もある」と漏らしていたら、生を保った兵がもっと多かったかもしれないと思うと、栗林が最後まで「帝国軍人の鑑」であり続けたことが、残念に思えてくる。大先輩を弁護して言い換えれば、栗林のような「品格ある」リーダーでさえ、部下を石コロにする道を選ぶしかなかったこの国の歴史を胸に刻み、国の行方には用心に用心を重ねるしかない。
(硫黄島で栗林と共に戦死した異色の軍人を描いた小説に、城山三郎の「硫黄島に死す」(新潮文庫)がある。主人公の「バロン 西」こと西 竹一陸軍大佐は、1932年のロスアンゼルス五輪の馬術競技で金メダルを取り、貴族(男爵)らしい派手な話題をまきちらした人物だが、戦場で部下に人間らしく接した上官として、好意的に描かれている。)
写真説明の○ナンバーは航路の○の辺りから撮ったことを示す |
硫黄島の略史
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硫黄島から1時間半北上して北硫黄島が見えた。北硫黄島も南硫黄島と同じく絶壁に囲まれた火山島だが、人が定住したことがある(現在は無人)。明治32年(1899)に小笠原母島からの移住者が島の東西に2つの村を作り、サトウキビ栽培やサザエ漁で生計を立てた。1915年に人口212名を数え、小学校もあったという。集落跡と言われて望遠で覗いてみたが、谷間の密林に人が住んでいたとは想像できず、ましてや山頂部の平原で牧畜を行っていたという話は「冗談だろう」と思ってしまう。絶海の孤島に村を作った先人の開拓者スピリットに脱帽するしかない。19:00、父島に帰港。
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小笠原諸島は、1593年(文禄2年)に信州松本城主小笠原長時のひ孫の小笠原貞頼が発見したとされているが、これは1876年(明治9年)に日本が領有を主張した際の「創作」が疑われる由。江戸後期に定住したのは、欧米の捕鯨船への補給を業とした欧米人とハワイ人で、今もその子孫がいる。日本の領有が国際的に承認され、本土から移住した人たちは、製糖、果樹栽培、カツオ・マグロ漁や捕鯨やサンゴ漁で生計をたて、人口は7,000人を超えた。
第一次大戦で太平洋島嶼の戦略的価値が見出され、1920年(大正9)に陸軍が父島に築城し、海軍も昭和8年に航空隊を置いた。太平洋戦争直前の1940年(昭和15)、父島列島全域が要塞地域に指定され砲台が建設される。1944年になると米軍機の空襲が激しくなり、6,886人の島民が本土へ強制疎開させられた。同年9月2日に、後のブッシュ(父)大統領(当時海軍中尉)が操縦する艦載爆撃機が父島守備隊に撃墜され、漂流中を米潜水艦に救出されたエピソードもある。
戦略拠点として要塞化されていた父島だが、硫黄島上陸後の米軍が沖縄戦に集中したため地上戦を免れ、旧日本軍の施設は空爆を受けたものの破壊されず、今に痕跡を留めている。戦後の米軍統治時代の痕跡もあり、「元核ミサイル貯蔵庫」と呼ばれる物騒な物件もある(1956から数年間、父島と硫黄島に核弾頭が配備された。同物件は見学できず)。父島には北部の集落を結ぶ道路が整備されているだけで、観光客がアクセスできる戦跡は限られており、雨が降ると密林の奥や急斜面の戦跡は危険で立ち入れない。幸い天気が保ってくれたので、地元ガイドのSさんが効率よく案内してくれた。
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小笠原は観光立村を掲げている。メインはマリンスポーツで、観光局のホームページには豊かな自然と海を楽しむための情報は満載だが、歴史のページを開いても、太平洋戦争のことはチョビっとしか出てこない。我々のように戦跡巡りで訪れる者はあまり多くないようだ。70余年前に日本がアメリカと戦争して惨敗したことを知らない若者が少なくないという。歴史の授業で「期末時間切れ」を口実に、第二次大戦をすっ飛ばす学校が多いらしい。やっかいな議論をバイパスしたいのかもしれないが、苦い歴史の反省を避けて通る民族の将来には、不安を抱かざるをえない。小笠原でマリンスポーツを楽しむ若者が、父島や硫黄島で起きたことに、ちょっとでも関心を持ってくれることを願いたい。
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