シーズン初めの山歩きで何処へ行こうかと考え、「熊野古道」が頭に浮かんだ。百名山の八経ヶ岳と大台ケ原の登山で、紀伊半島の山の深さに驚いたのを思い出したのだ。最奥部の熊野本宮に四方から集まる熊野古道には、「山歩き」のルートがあるに違いない。ネットで調べると、高野山から本宮に至る古道の「小辺路」(こへち)の南端に、標高1070mの「果無峠」がある。木津川温泉から標高差900mを登り、峠の反対側の本宮に下る15km のルートは「本格的な山歩き」になりそうだ。「はてなし」の語感も旅情を誘い、出発地の木津川と目的地の本宮に、かけ流しの温泉があるのも申し分ない。桜には少し早いが、連休明けの3月22日から2泊3日の旅に出ることにした。

「熊野古道」がどれほど古いかと言うと、日本書紀(702年完成)に記述があるというから「神代の時代」まで遡ることになる。平安中期に神仏習合が進み、熊野は極楽浄土と見なされ、末法思想(この世の終り)に囚われた平安貴族の熊野詣りが始まる。記録では907年の宇多法皇の行幸が最初で、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇も28回訪れたという。江戸時代になると熊野詣りは、伊勢詣りや富士講と共に庶民の行楽先になり、さながらテーマパークの様相を呈したらしい。

その賑わいは明治になってパタッと止む。明治政府は発足と同時(1868年)に神仏分離令を発して神道・仏教習合の習慣を禁じ、1871年の太政官布告で神道の国家神道化を宣言した。神社の官有化を進め、1906年(明治39年)の「神社合祀令」で神社の統廃合を強行し、熊野周辺では神社の数が1/10に激減したという。テーマパークがリストラされた上に官庁になったのだから、庶民の熊野詣の風習がすたれたのは仕方がない。明治の廃仏毀釈は、中国の「文化革命」やイスラム過激派の「遺跡破壊」と同根の、政治目的で文化を歪曲する蛮行と言わねばならないが、仏像の破壊が限定的だったのは、住民が政府の扇動に安易に乗らなかったおかげだろう。

参詣道は維新以降も住民の生活道路として使われ続けたが、その後の道路整備で国・県道や市街地に吸収されたり、山間部では草生して消滅したルートが多かった。2000年になって「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年にユネスコ世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録されたのを機に、石畳や石仏が残っていて観光資源として価値の出る部分を整備し直し、「熊野古道」の名で復活したものである。小生手元のガイドブックには26のルートが紹介されており、「果無峠越え」の他にも「山歩き」のルートがありそうだ。



十津川温泉へ

果無峠ルートの起点は紀伊半島最奥の十津川温泉。千葉の拙宅から最短(最安)のアプローチは、近鉄の大和八木駅前発の路線バスで半島中央を南下することになる。この路線は高速道路を使わない路線バスとしては日本一の走行距離を誇り、大和八木から終点の新宮までの167㎞を6時間半で走破する。「特急」を名乗っているが、167ある停留所の全てに停車する。便数は1日3本しかないが、住民の病院通いや買い物の足として利用され、短距離利用の乗降が多い。

我々が乗車したのは大和八木から十津川温泉までで、乗車時間は4時間半。路線バスだから座席は窮屈だが、エコノミークラスに12時間座るのに比べれば楽チンと言って良い。運転手は定年近いと思われるベテランで、車幅ギリギリの山道を見事なハンドルさばきと、丁寧な乗客対応で走ってくれた。大和八木から十津川までの料金3,450円は、奈良県内に宿泊すればバス代全額キャッシュバックのキャンペーン中で、実質タダ。スポンサーは奈良県の由で、遠来の客としてはラッキー!だが、乏しい税金の使い方としてはちょっと気になる。

11:45、近鉄の大和八木駅南口から新宮駅行路線バスに乗車。
13:00、五条バスセンターで最初のトイレ休憩。
14:45、十津川の谷瀬吊り橋。60年前に集落の人たちがお金を出し合って架けた。全長297mは生活路用として日本最長。バスは20分休憩で渡橋の時間はあるが、高所恐怖症は遠慮。
16:10、十津川バス停の温泉販売スタンド。10リットル100円。
16:20、十津川温泉の宿舎に定刻で到着。


熊野古道「小辺路」 果無峠越え

十津川温泉のかけ流し湯を堪能し、普段の2倍の睡眠をとって英気を養う。7:50、ホテル出発、「小辺路」(こへち)の標識に熊野古道歩きの気分が高まる。出発早々標高差200mの急坂を登って果無集落を目指す。「はてなし」の由来は、「行けども行けども果て無く山道が続く」の説と、毎年12月20日過ぎ(ハテ)に怪物が現れて旅人を食うので、峠を越える人「なし」、という地元の伝承からとったとする説があるらしいが、ヒネリの効いた後者に軍配を上げたい。

7:50、出発点の標識。随所に標識があり安心して歩ける。
すぐ吊り橋を渡る。山桜が咲き始めていた。
8:00、ここから果無集落まで急登が続く。
8:15、熊野古道らしい小径が現れる。
8:25、眼下に十津川温泉と熊野川。
8:35、果無集落まで登って来た。
農家の庭先を通り抜ける。旅人を迎える心づくしの演出も。
果無集落の世界遺産の石碑。
8:40、果無集落を抜けて林の中へ。
9:00、西国三十三観音石仏をたどって歩く。第28番の観音菩薩像。
9:17、第26番

果無集落を過ぎると急坂は終り、落ち葉の小径をのんびり歩く。路傍の西国三十三観音の石仏がちょうどよい間隔で迎えてくれ、穏やかな表情に旅の心が和む。今回の峠越えで出会った人は、登りで追い越していった初老男性1人と、峠で休んでいる時に登って来た地元の消防職員の若い男性だけ。連休明けの平日のせいもあっただろうが、この峠道を歩く人は少ないようだ。

9:30、茶屋が旅人に米飯を供するための天水の水田があった。
9:42、第24番
9:55、第22番
10:20、観音堂
10:25、観音堂脇の第21番
10:38、樹林帯が切れて十津川の山並みが見える

果無峠は林に囲まれて展望がなく、道標、石仏1体と用途不明の石台があるだけで、山歩きの目的地としてはちょっと寂しい。消防職員の青年は、「本宮への下りは急な箇所やガレ場があるので気をつけて」と親切なアドバイスを残して、来た道を戻って行った。宿で作ってくれた弁当を食べて下りにかかる。青年に言われた要注意個所もあるが、良く整備されているので、山歩きに慣れた者には「難所」という程でもない。

11:20、標高1070mの果無峠に到着。
峠に残された石台の正体は何だろう?
峠に鎮座する第17番の十一面観音。
12:09、峠を下り始める。第15番
12:25、第14番 如意輪観音。
12:32、二十丁石。峠から約2㎞を示す。

下り終えて国道に出た時は出発から6時間半が過ぎていた。長い山歩きの後の平坦な舗装道路歩きは案外つらいもので、半ばヤケクソで先を急いでいると、あの1日3本しかない大和八木発のバスが追い越して行った。本宮までの残り4㎞が「果無」に遠く感じられる。20分ほど歩くとバス停があった。空欄ばかりの時刻表にローカルバスが午後1本あり、そのバスがあと10分で来ることになっている。そうと知ればもう足は動かず、誘惑に身を委ねることにする。

12:45、本宮方面の視界が拓けた。
13:30、第8番と思うが字が読めない
13:54、第4番 十一面観音
14:11、第2番
14:16、国道に合流。ここからしばらく国道を歩く。
14:51、ちょうどバスが来る時間だったので乗ることに。(画面のバスは違う)
熊野本宮大社

熊野神社の本家は熊野本宮大社と思っていたが、出雲(松江市)熊野大社は自分が本家と言っている。言われてみれば日本の神様の本拠地は出雲で、この順序は理屈が通る。熊野本宮大社の祭神はイザナミ、イザナギ、スサノオ、アマテラスの4神で、神仏習合では夫々が千手観音、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来に擬せられる。神仏界のトップ4がまします本宮大社は比類なき聖地で、天災と戦乱の世に当事者能力を失った平安貴族が「神仏頼み」に通ったのもうなづける。

神道の始まりは自然崇拝で、教祖はいないし教義も無い。「宗教」の範疇に入らないという説もあるが、それは考え方に拠る。以下は歴史オンチの独断だが、「原始宗教」は夫々の共同体で時をかけて醸成された共有価値観のようなもので、共同体のルール、共有する幸福感、脅威への恐れや備えを伝承する「教え」を「宗教」と呼んでも不都合はないだろう。むしろ、強烈な個性の「教祖」が唱えた圧倒的な「教義」に立つ「大宗教」が、その確固さ故に排他的で、支配者に利用されて「争い」を生み続けてきた歴史を思えば、宗教は「原始」に戻った方が、人類の幸せではないかとさえ思う。

明治政府が「神道は宗教ではない」とした理由は宗教論ではなく、神道と天皇を不可分に結びつけて「国家神道」として新生国家の「拠りどころ」にしようと思い立ったもので、江戸時代の国学者が儒教の道徳律を混ぜ込んだ教説を下敷きに、「臣民のあるべき姿」を練り上げて「勅語」のかたちで全国民に学習を課した。その「大和魂」はこの国を一時的に高揚させたが、理性を滅した「信念」は同時に「目隠し」にもなる。その結末は71年前に思い知らされたとおりである。

小生は無信心だが、神社では殊勝に「二拝二拍手一礼」の作法と幾許かのお賽銭を献ずる。信仰と言うより「礼儀」のつもりなのだが、この頃は気分が落ち着かない。国家神道は終戦直後に廃され、神社の総元締めは内務省神祇官から「神社本庁」に移った。「本庁」と言っても官庁ではなく宗教法人で、わざと紛らわしく命名した?と疑いたくなる。その神社本庁が現政権の「右のつっかい棒」らしい。その目指すところが「政教一致」の国家神道復古にあると聞けば、無邪気に神様を拝めなくなる。お賽銭を「協賛カンパ」と誤解されても困る。神様への礼儀はお辞儀だけにしておこうか。

幟旗の先に158段の石段。神様の要求はなかなか厳しい。
奥からイザナギ・イザナミの2神、中央スサノオ、左アマテラスを祀る社殿。
檜皮葺きの屋根は最近葺き替えられたもの。
拝殿にしだれ桜。
旧本社殿があった大斎原(おおゆのはら)の大鳥居。社殿は明治22年の洪水の際に現在の高台に移遷された。
湯の峯温泉

当初のプランでは、本宮大社から湯の峯温泉まで古道の「大日越え」(距離4㎞・標高差200m)も歩くつもりだったが、先刻の果無峠で最後の4㎞の平地をキセルした身に、急に体力・気力が回復する筈もない。湯の峯の宿に電話すると、マイクロバスが大社まで迎えに来てくれた。

熊野本宮大社の周辺に温泉が3か所ある。火山の無い紀伊半島に高温の温泉が湧くのは不思議だが、熱源のマグマ溜りは地球の奥深くから湧き出すのではなく、表面近くでプレートが擦れ合って生じる摩擦熱で岩石が溶融して出来るらしい。紀伊半島の下でフィリピンプレートがユーラシアプレートに潜り込み、うまい具合に本宮大社の下にマグマ溜りを作って温泉を湧出させていると考えられる。あるいは話が逆で、温泉が湧いている近くに大社を建てたのかもしれないが。


湯の峯でも湯量豊かなかけ流しを楽しんだ。隣国からの爆買いツアーは紀伊の山奥まで足を伸ばしていなかったが、思いがけずヨーロッパ人の旅行者が多いことに驚いた。彼等はグループ旅行でも貸切バスを使わず、公共交通手段で移動するようだ。早朝のバス停で、出発時間の20分前から白人の数グループ20余名が列に加わった。バスは超満員になり、途中で乗車する地元の人を詰め込んだり、後部に押し込まれた人を降したりで大騒ぎ。小生の前の席はスウェーデン人夫妻で、途中で川下りの船に乗り換えて新宮に行くという。旅費が安くなったので思い切って来日したが、興味深い事ばかりで大いに楽しんでいる由。爆買い客ばかりでなく、異文化に親しむシブイ好みの外国人旅行者が増えるのも悪くない。

湯の峯温泉街。我々の宿舎は下流の少し離れた場所。
源泉の「湯筒」に93度の熱湯が湧き、卵や薩摩芋を蒸かす。
源泉のすぐ近くにある「壺湯」。鎌倉時代の伝説の武将、小栗判官が戦いに敗れてここまで逃げ落ちて病を癒したという伝説の湯。
九十九王子の1つ、温峯王子。
朝のバス停に外国人旅行者が続々とつめかけ、新宮行きのバスは満杯になった。
新宮

バスは湯の峯温泉から1時間半で新宮市に到着。昼過ぎの名古屋行き特急まで3時間ほど時間がある。先ずは熊野三山の一つ「熊野速玉神社」を訪ねる。

上記の本宮大社の段で熊野大社の本家は出雲?と書いたが、新宮の速玉神社も「我こそは全国に3千数百ある熊野神社の元祖」と名乗っている。説明によれば、熊野の神々はまず初めに新宮市の神倉山に降臨し、第12代景行天皇(日本武尊の父)の58年に現在の社地に新しい宮を造営して「新宮」と号したという。景行天皇は1世紀末頃に在位したとされる伝説上の天皇で、新宮の起源も神話の世界だが、神倉山から弥生中期の銅鐸が発見されたと聞くと、「ひょっとして邪馬台国畿内説と関係あり?」などと、歴史オンチは勝手に想像してみたりする。

新宮市中心部の城址に登ったり、明治元年創業という和菓子屋を覗いたりしている内に、名古屋行き特急の出発時間になった。今回の旅を振り返るに、果無峠歩きはシーズン初めの足慣らしにピッタリで、歩き残しを生じたのはいささか無念ではあったが、年齢相応に「ムリしない」クセを身につけるという点で、多少の進歩があったと言えないこともない。

速玉神社の参道。
拝殿
本殿
流麗な屋根の曲線。
新宮城跡から。速玉神社は右の林の中にある。
旅の終り、新宮から名古屋へ。気動車特急に乗ったのは久しぶり。