当サイトのあちこちに書いたが、小生の仕事での米国との関わりは、社会人1年生の1964年から、北米担当をお役御免になった1995年までの31年間。最初の6年間は工場のライセンス生産用資材の輸入にかかわる業務で、2度の出張も若輩ながら「お客様」扱いされたが、1970年に対米輸出部門に移ってからの9年間は、地方回りのセールスマンとして米国各地を飛び歩いた(当時米国には2000社近い電話会社があり、夫々が独自で設備調達していた) 。

当時の日本は戦後25年を経て工業国として急速に力を付けた時代で、内職雑貨品の輸出から始まった「安かろう悪かろう」のメイドインジャパンは、トランジスタラジオやカローラに代表される「安くて壊れない」メイドインジャパンに変身し、さまざまな日本製品が雪崩を打って米国市場に流入した時代でもあった。しかし一般民需品ならともかく、小生が担当した商品は電話会社の基幹回線用の通信機、敢えて言えば「国家の安全保障にかかわる社会インフラ」で、いくら新技術が使われているからといって、敗戦国のメーカーから調達するようなモノではない。だが、それを試してみたいという技術者がニューヨークの電話会社に現れ、使ってみたら「経済的で壊れない」と実証されたことから、小生の任務は「ミッション・インポッシブル」ではなくなった。

とは言え、米国が「自由市場」であり続けたわけではない。1950年代まで圧倒的な経済力・技術力を誇った米国も、ベトナム戦争後の60年代はあちこちで歪みが噴き出し、無敵だった産業界も「井の中のカワズ」になっていたことが露呈した。先ず南部の伝統産業だった綿製品が日本品の急伸で壊滅に追い込まれ、業界に突き上げられたニクソン大統領が佐藤首相との会談で「自主規制」の圧力をかける事態に陥った。これが日米貿易摩擦の原型となり、70年代には鉄鋼、カラーテレビ、自動車がヤリ玉に上がり、80年代の半導体で摩擦熱は沸騰点に達した。

日米貿易摩擦がヒートアップした時期と、小生が駐在員として米国で過ごした時期はほぼ重なる。摩擦は政府間の政治的利害の衝突で、日本政府から有形無形の「行政指導」を喰らった本社は大変だっただろうが、現地で顧客との関係に変化が生じたわけではなく、「経済価値の高い良品」を買ってくれる顧客を相手に、相変わらずの商売を続けることが出来た。変わったことと言えば、輸入規制を避ける為に「現地生産」したくらいで、それはそれで大変ではあったが、売る立場からすれば、工場が手近になったことで商品企画や需給調整に柔軟性が増し、むしろ顧客対応が容易になった。

日本品の勢いが止まらないことに業を煮やした米国政府は、日本に市場開放を迫る戦略に転換した。国会議員がラジカセを叩き潰して「ジャパン・バッシング」を扇動したことや、FBIが「おとり捜査」で駐在員を逮捕し、日本の不透明な商習慣をヤリ玉に挙げたことは、今も鮮烈に記憶に残る。1989年にブッシュ(父)大統領が宇野首相に申し入れた政府間協議は、米国側の表題では「Structual Impediments Initiative」、即ち「(日本の)構造障害に対する主導権(の発揮)」だったが、日本政府はこれを「日米構造協議」と言い換えて受け身の立場を糊塗した。米国側が意図したキモは、その後小泉首相が「日本をブッ壊す!」とタンカを切って進めた規制緩和と市場原理導入そのもので、結果として、米国が占領時代にやれなかった日本の社会構造の米国化が、戦後60年にしてようやく完成したと言える(念のため付言するが、小生は喜んでいるわけではない)。70年目の本年、現政権は「一蓮托生」で行くつもりらしいが、成り行きでイケイケドンドン走る日本人の習性が出はしまいかと心配になる。  (この項 2015年5月記)



アイダホ   辺境のハイテク行商   (訪れた時: 1978年)

ポテトくらいしか思い浮かばない北の辺境まで、技術者でもない私が一人で最新式の通信システムの売リ込みに歩いたのだから、我ながらイイ根性をしていたと思う。州都ボイジに電話会社の技術事務所があると聞き、電話で担当者を探して出かけた。78年当時、ボイジ空港にジェット旅客機は入っていたが、ターミナルは木造の掘立小屋で、荷物も誘導路のわきで手渡しされた。こんな田舎の飛行場にもレンタカー会社が4社あって、カローラからキャデラックまで揃っているのは、さすがに米国だと思った。

私がアメリカで感心したことの一つは、アイダホの電話会社に限らず、誰の紹介もない「馬の骨」同然の東洋人の飛び込みセールスを受け入れ、珍奇な英語の商品説明をとにかく真面目に聞いてくれたことである。売リ込もうとする商品も、バケツや文房具ではなく(注)、億円単位の基幹回線用通信システムなのだ。興味が湧けば設備計画を広げ、その場で概算見積の検討が始まることさえある。このオープンさは、おそらく米国以外では期待できないのではないだろうか。私の技術知識は門前の小僧に等しく、質問されたらすぐに化けの皮が剥がれるが、それでもつまみ出された経験はない。(注:日本の通信市場開放にあたり、当時の通信会社幹部が採用可能な輸入品の例として挙げたと言われる。)

当時、デンバー郊外に西部全域を担当する小さな事務所があったが、このセールスマンが突然辞めてしまった。たまたま長期出張中の私が臨時にこの地域を担当することになり、ロスに新事務所を開設する役目を引き受けた。前任セールスマンの怠慢で西部地域には受注実績がなく、ファイルをめくっても手掛りは何もなかった。とにかくどんな客がいるのか手当たり次第あたって見ようと思い立ち、担当地域を一巡したのである。先方がヒマで面白半分だったせいもあっただろうが、前述のようにどの客も気軽に会ってくれた。私がロスで採用して業務を引き継いだセールスマンも、通信機は私以上にズブの素人だったが、私同様の飛び込みセールスを続け、1年以内に数件の契約をまとめあげ、短期間で地盤を固めることが出来た。と言ってもまるきり白紙からだったわけではなく、東部での評判が電話会社の技術者間で伝わっていたことが、西部の飛び込みセールスが成功した要因だったことは間違いないが。 (この項 1994年記)


州都ボイジ郊外。現在の人口は21万は米国の
典型的な地方都市だが、市街の様子は記憶に無い。

ボイジ郊外のWolf Creek駅。線路があればとにかく撮るのが
小鉄チャンの習性だが、列車は滅多に来ない。

モンタナ 大きな空    (訪れた時:1978年、1993年、1994年)

モンタナの西半分はその名前のとおり「山だらけ」である。日本では山の中というと「山嚢」「山峡」など暗い谷間の語感が強く、何やらおどろおどろしい怪奇小説の舞台になりそうだが、モンタナの山にはそういうジメジメしたところがない。「モンタナの大きな空」という名のスキー場があるが、モンタナの広々とした開放的な感じを想像させる良い命名だと思う。 78年春に出張した州都ヘレナも丘陵地帯の明るい町だった。

モンタナの東半分は大平原である。93年初秋にダコタに行く途中、モンタナの南東部を車で通過した。ワイオミングから323号線を北上すると、モンタナ州境で突然舗装が切れた。「ここから先70マイル砂利道!」の標識が立っている。幌馬車ならともかく、床の低い米国製中型乗用車で走るのにはいささか心細い道だ。少し走ってみると、案の定ゴツゴツと小石が床下を激しく打つ音がする。ガソリンタンクに穴があいたり、ブレーキパイプが切れたりしたらおしまいだ。一台の対向車も来ないが、道路の両側は粗末ながらも鉄線をめぐらせた牧場で、無人の荒野ではなさそうだ。万一故障しても、一日に1台や2台は通リかかる車があるだろう。秋晴れの良い天気だ。ここまで来たら走リぬくしかない。

少し走ると大胆になって、ゴツゴツもガンガンも気に止めなくなった。牧場の境界に沿って時々屈曲しながら、なだらかな起伏の大地を北に向かってひた走る。景色は8割が空、2割が枯草の牧草地だ。あまりに広すぎて視界には牛一頭見えない。遠くに岩の塔を頂いた丘が連なり、午後の太陽を受けて白く光っている。2時間弱走って、小さな村落の先でやっと舗装された7号線に出た。道路の両側は牧場から麦畑に変わっている。

車を止めて地図を見ると、70マイル(120km)一直線の道路である。なだらかな丘の先まで見える限りまっすぐ、丘を越えるとまた見える限りまっすぐだ。中間の35マイル地点で道路はわずかに1度ほど右に振れた。70マイルの両端から測量しながら直線道路を作ってきたら、地球が丸くて円周と直線の誤差ができてしまったのだろう、と一人合点する。刈り終えて黒い土が出ている畑と、まだ刈り取りの終わっていない黄金色の畑が、長方形のモザイクになって果てしなく続く。これだけ走っても、農家らしい家は数軒あっただけ。

アメリカは本当に大きい。こういう場所に来るとしみじみそう思う。牧場や農場が悠々と広がる風景を見ると、アメリカは食料が自給自足でき、工業力も思う存分に拡大できる余裕綽々の国だと痛感する。こういう国を相手に戦争をした日本は「井の中の蛙」だったと心底思う。

私には、現在のアメリカが抱えている問題の多くは、あまりにも徹底した自由市場、自由競争の原則が生み出した歪みではないかという思いがある。圧倒的な力で成長した時代は、歪みが表出しなかったが、ベトナムの泥沼が深くなった頃から、固定化した社会的弱者が声を上げはじめ、日本をはじめとする中進国が、部分的にせよアメリカに拮抗する工業力を発揮しだした。自由市場の原則は、国外に富を流出させる仕組みになりかねないが、それでも原則は曲げられない。荒廃した大都市には傷付いた巨人が見えるのだが、しかし、こうした悠々迫らざる農業大国アメリカを見ると、とてつもない潜在力を感じてしまう。 (この項 1994年記)

323号線を北へ走る。
無舗装の砂利道が続く。
舗装された7号線に出た。120㎞の直線道路が始まる。
「モンタナの大きな空」スキー場(上記の旅とは別の機会に撮影)

グレイシャー国立公園

1994年秋、長かった米国駐在の先が見えた。帰国後は米国と縁が切れることになりそうだったので、「卒業旅行」を思い立った。米国全50州の踏破は終っていたが、ロッキーとイエローストーンに行きそびれていたので、取りそこなっていた夏休みを使い、日本の留守宅からカミさんを呼んで1週間の旅をすることにした。

ロッキー北部のグレイシャー(氷河)国立公園はカナダ国境と接する山奥にある。近くに主要都市がなく、米国で最も足の便の悪い「辺境の地」と言ってよいだろう。どこから入るか考えた末、仕事で若干の土地勘があり、レンタカーするのに都合の良いモンタナ州都のヘレナを選んだ。

モンタナ州は日本全土とほぼ同じ面積を持ち、人口は99万人。その90%が白人で、ヒスパニック系は少なく、東洋系、アフリカ系の人口比率も米国で再下位。つまり人口の大半は西部開拓時代に入植した人たちの子孫で、ドイツ系、スカンジナヴィア系が多い。土地を巡って先住民(インディアン)との衝突が激しかった地域で、スー族、シャイアン族、アラパホ族がカスター率いる第7騎兵隊を破ったリトルビッグホーンの戦いも、この地での出来事だった。

米国では、首都や州都が必ずしも中核的大都市でないことが多いが、モンタナの州都ヘレナも例外ではなく、人口は現在も3万人に満たない。ここが州都に選ばれたのは、19世紀末にゴールドラッシュ(砂金採り)の中心地だったからだろう。地名は元々「セント・ヘレナ」(キリスト教の聖人名)だったが、砂金採掘夫が「ここは地獄の1丁目」の「ヘル」にかけて「聖なる(セント)」を抜いて呼んだことから、現在の「ヘレナ」なったと言われる。 (この項 2015年5月記)

ソルトレイクから小型機でモンタナ州都ヘレナへ。9月下旬は紅葉のまっさかり。
赤い紅葉は北米では珍しい。
ヘレナ空港へアプローチ。
ヘレナ空港のターミナル。
ターミナル内の展示。
空港の案内サイン。
モンタナ州議事堂と開拓者像。
ヘレナ市内「ラストチャンス・ガルク」の砂金採りモニュメント。
ヘレナ駅。大陸横断の旅客列車が通る筈だが出会えず。
平原を行く長い貨物列車。
西部開拓時代の雰囲気を残す街道筋の茶店。
山岳地帯に分け入る。クリスマスツリーの農園。
スネークリバー。ここでも砂金掘りがあったのだろうか?
公園入口に近いマクドナルド湖。
レイク・マクドナルド・ロッジ。我々がシーズン最後の客だった。
名物の観光ツアーバスは既に冬季休業。
20世紀初めに建設されたロッジ内部はクラシックな雰囲気のまま。

グレイシャー国立公園はカナダ側のウォータートン・レイク国立公園と接し、両公園を合わせて「ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園」と名付けられ(国境を跨いだ公園、という程度の軽い意味らしい)、我々が訪れた翌年の1995年にユネスコ自然遺産に登録された。造山運動で押し上げられた古い時代の石灰岩を氷河が削り出した地形だが、19世紀に150以上あった氷河は今は25ほどしか無く、2030年迄に全ての氷河が消滅すると予想されている。我々が1994年に見た氷河は道路から望遠できる1か所だけだったが、既に消滅寸前だった。

国立公園のゲート。

Going to the Sunと名付けられた山岳観光道路。

標高2025mのローガン峠。大陸の分水嶺でもある。
氷河が見えるが、後退が激しい。
山をいったん下って平原に出てカナダ国境に向かう。
北に走ってカナダ国境へ。北緯49度線の国境は防火用の伐採帯。

観光シーズンが終わって国境ゲートは閉鎖。事務所も無人で歩いて無断越境は可能だが、そんな不心得者はいないのが前提。

カナダ側の国境事務所も無人。
深まるロッキーの秋。

氷河に削られた石灰岩の岩がそびえ立つ。
ヒドウン・レイク。ローガン峠のロッジ裏のトレイルを歩き、丘を過ぎると突然現れる。名前のとおり神秘的な湖。
ライチョウが現れた。
分水嶺の峰々。
チーフ・マウンテン(2768m)。
公園東麓のセントメアリーレイク。
平原に下ってイエローストーンに向かう。見渡す限りの麦畑が続く。