米国の「南部」がどの範囲なのか、実はあまりハッキリしない。南部という行政区域があるわけではなく、地理的・文化的にも明確な境界線を引けない。南北戦争で「南軍」となった「アメリカ連合國」(Confederate States of America)を創設した7州(サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス)と、義勇兵募集に応じた4州(バージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナ)の計11州を「南部」とするのも一つの考え方である。

歴史オンチの幼少時の記憶では、「南北戦争」は奴隷制反対の北部がワルイ南部をやっつけた戦争で、「理想のために戦ったアメリカはヤッパリすごい国」と教わったような気がする(その頃日本は占領下だった)。南北戦争が奴隷制廃止州と存続州の間で戦われたことは事実だが、黒人の人権を巡る「理念の戦い」だったわけではない。工業力強化のために保護貿易を強行する北部と、農産物輸出に自由貿易と奴隷労働力が不可欠な南部との利害対立から、南部が合衆国を離脱して起こした「独立戦争」と見るのが定説のようだ。

1860年11月の大統領選挙で政権が民主党ブキャナンから共和党リンカーンに交代し、南部の不安は一気に高まった。同年12月に7州が合衆国を離脱して「連合国」(以下南軍)を結成、翌1861年3月のリンカーンの大統領就任を待っていたかのように、4月12日に南軍はサウスカロライナ州チャールストンのサムター要塞を砲撃した。南軍は兵力では劣勢だったが戦意は高く、優秀な指揮官に率いられて緒戦では北軍を圧倒した。しかし戦いが長期化すれば地力のある方が勝つのが近代戦の定めで、1863年7月のゲティスバーグ戦で戦況反転、1864年5月にアトランタが灰塵と化し、1865年4月に南軍のリー将軍が降参して4年にわたる内戦が終わった。両軍の戦死者は50万に達し、第二次大戦での米軍の戦死者総数42万より多かった。南北戦争がいかに激しかったかが分かる。

南北戦争後の110年間、南部から大統領が1人も出なかった。南北戦争前は17代の大統領中10人が南部出身だったことを思えば、敗戦国となった南部の臥薪嘗胆が110年続いたとも言える。それだけに1976年にジョージアから第39代大統領カーターが出た時、南部の復権として大騒ぎになったことも頷ける。(第34代アイゼンハワー、第36代ジョンソンはテキサス出身だが、「南部」にカウントしない理由は別の機会に述べたい)。そのカーターと第42代クリントン(アーカンソー)が「南部出の大統領はヤッパリ…」と烙印を押されたからだろうか、第45代を目指すクリントン夫人はニューヨークから出馬するらしい。

歴代大統領のリストを見て「アレッ?」と思ったことがある。リンカーンは南北戦争中の1864年に再選されたが、就任直後の1865年4月14日に凶弾に倒れ、副大統領のアンドリュー・ジョンソンが第17代大統領に昇格した。そのジョンソンが民主党と記されているではないか。つまり共和党のリンカーンが副大統領に敵方の民主党、しかも南部ノースカロライナ出身のジョンソンを指名したことになる。調べてみるとその通りで、与党共和党内の抵抗勢力に手を焼いたリンカーンが、民主党ながらリンカーンの考えに近かったジョンソンを抱き込み、急遽結成した「全国統一党」(National Union Party)から出馬して再選を果たしたのである。策士と言われたリンカーンの「ウルトラ C」だが、ジョンソンは大統領就任後に民主党籍に戻った。混迷の度を深める2016年大統領選で、150年ぶりに「ウルトラ C」が出るだろうか?

第17代ジョンソンはリンカーンの残り任期を務めただけで、第18代には北軍の「勝ち将軍」グラント(共和党)が就任。2期務めたグラントは引退後に世界周遊の旅に出て、1879年6月から2ヵ月半を国賓として日本で過ごした。その間明治天皇と数回会見し、アメリカ人らしい率直なアドバイスを開陳して若い天皇に影響を与えたという。清国・朝鮮との戦雲が漂う時代だったが、グラントの助言は「戦争はダメ、外債発行は国を亡ぼす」だった(ドナルド・キーン著「明治天皇」新潮文庫第2巻)。勝ち将軍上がりの大統領にしては少々意外な発言だが、南北戦争で戦費の多くが欧州での起債で賄われ、グラントはその痛みが身に染みていたのかもしれない。また借金のカタで中古武器が欧州に還流し、欧州商人の手を経て戊辰戦争で使われ、維新後も明治政府が買い続けたが、グラントがその事を知らない筈がなく、欧州の戦争商売のエゲツなさを天皇に教えたかったのかもしれない。  (この項 2016年5月記)



サウスカロライナ  敗けると勝つと  (訪れた時 1994年7月)  

州都コロンビアの議事堂を訪れたのは土曜日の夕方だったので、建物の中は見学出来なかった。大理石造りの威厳のある建物で、まわりに立派な銅像や記念碑が立っているのはどこの州議事堂も同じだが、ここの正面一等地に立っている碑は、南北戦争で死んだサウスカロライナ出身兵士の慰霊碑だった。「サウスカロライナの息子達」が 「北軍と勇敢に戦って南軍に命を捧げた」という短い碑文と、その裏側に「サウスカロライナの娘達」からの慰霊の詩が刻まれ、北部に蹂躙された南部の憤懣やるかたない気持ちが行間に滲み出ている。

議事堂の横にまわると、広場の一隅に墓を擬した石碑があった。「初代議事堂ここに立てり。シャーマンに焼かれる-1864年」とある。「Burned by Sherman」と何の修飾もなく言い捨てているところに、北部に対する恨みが表出して凄味が感じられる。ふと議事堂中央のドーム上を見ると、星条旗、州旗とともに、南部連合の旗が翻っていた。

南北戦争では、1861年にサウスカロライナ州チャールストンの政府軍(北軍)砦に、南軍が最初の砲火を撃ち込んだことになっている。緒戦は南軍が優勢で、北上してポトマック川を越えてゲティスバーグまで勝ち進んだが、ここで形勢が逆転した。シャーマン将軍率いる北軍は、崩れた南軍を追って町々を焼き払いながら南下した。アトランタになだれこんだ時の様子は、「風と共に去りぬ」の結末部分に描かれている。独立戦争でアメリカはイギリスから独立を勝ち取った。南北戦争は南部の合衆国からの独立戦争だったが、北軍の勝利によって南部の独立の夢はついえ去った。南北間の相剋は最近でこそあまり言われなくなったが、まだ歴史のかなたに葬るには生々しすぎるようだ。

チャールストンは大西洋岸の港町である。南北戦争で焼け残った一画にコロニアル風の建物が美しく保存され、その中で市民の日常生活が営まれている。市内案内のバンフに「太平洋戦争で日本海軍をやっつけた航空母艦ヨークタウンを保存公開中」とあった。町外れの「愛国者岬」と名付けられた海岸には、同空母の他、第二次大戦時の護衛艦と潜水艦もつながれ、内部を見学できるようになっている。1992年まで現役だった5万トン級空母「ヨークタウン」は、今はアメリカ海軍の博物館となって、艦船の資料や戦史が展示されている。初代のヨークタウンは30年代に建造された2万トン級空母だったが、大戦初期に日本海軍に沈められた。二代目は1942年に就役し、マリアナ海戦の中核として日本海軍に壊滅的打撃を与えた。説明文は「初代の仇をうった」と言わんばかリで、華々しい戦果が列挙されている。

艦内の一室に戦艦ミズーリ号を特集したコーナーがあり、1945年9月2日に戦艦上で行われた日本の降伏文書調印に関する資料が展示されている。調印で使われた机は食堂のテーブルが転用されたとのことで、思ったより小さくて粗末だった。机の上に降伏文書の写しがある。天皇の名代として重光全権、日本軍代表として梅津参謀総長が毛筆で署名し、その下にマッカーサー元帥以下連合国側9名の署名がある。冒頭の「無条件で降伏する」という一章がやり切れない。壁には「ジャップ、遂に降参!」という大きな題字の新聞や、朽ちかけた「ジャップ」の軍刀、防毒面、飯盆などが展示されている。「ジャップ」という蔑称には吐き捨てるような語感があり、敵国を呼び捨てるのに具合が良かったのだろう。日本では彼等を「鬼畜」と呼んだのだから、戦争というものは人間の品格を根底から失わせてしまうものである。

アメリカ海軍が本格的な海戦をした相手は日本海軍だけだから、海軍博物館が太平洋戦争の戦勝記録の資料ばかりになるのはやむを得ない。展示物に誇らしげに付された説明文を冷静に読むと、「日本海軍はこの偉大なアメリカを結構いためつけてくれた。敵ながらアッパレ」というような勝者の余裕が行間に見えるような気がしてくる。南北戦争での南軍側の欝屈とは大違いである。  (この項 1994年9月記)

サウスカロライナ州議事堂。
星条旗、州旗の下に南北戦争時の南部連合の旗。
南部軍の兵士をたたえる碑。
チャールストン市街のコロニアル風住宅。
チャールストン市街点描

チャールストン海軍博物館

チャールストンの「愛国者岬」
博物館駐車場の脇に対空ミサイルの展示。
エセックス級空母ヨークタウンは全長277m。前半分しか写らない。
ヨークタウンの横に護衛艦と潜水艦の展示。館内を見学できる。
格納甲板が博物館の入口。
飛行甲板に艦上航空機を展示(大戦時のものではない)。
ミズーリ号艦上での降伏文書署名関連資料展示室の説明パネル。
戦利品の日の丸が裏返しなのが気になる。
降伏調印を奉ずる新聞。
艦上での調印式の写真。
調印で使われたデスクはミズーリ号の食堂テーブルを転用。
テーブルの位置を示す記念マーク(ミズーリ号から移設)
降伏文書の全文。
降伏文書の本文部分。
日本側代表の署名
連合国側代表の署名


ジョージア  規制緩和で消えた老舗エアライン  

アトランタにはいつも大急ぎの出張ばかりで、「風と共に去りぬ」の舞台になった大都市の印象があまり残っていない。アトランタは東部とフロリダや南部の都市を結ぶ交通の要地で、かつてイースタン航空の本拠があった。このエアラインは往時の米国3大航空会社の一つで、名前のとおり東部を重点とした全国路線を誇っていたが、地元出身のカーター大統領の時代に規制緩和で競争から取り残され、あっけなく倒産してしまった。近ごろは巨大会社が消滅するのも珍しくなくなったが、当時はこのような伝統のある大きな会社がつぶれるということは、私にはなかなか信じられなかったものである。

イースタン航空は私も頻繁に利用したが、遅延やキャンセルは日常茶飯、操縦が荒っぽく、機内食が粗末で、従業員の制服や飛行機の内装がヤボったいことでは定評があった。ドスンと落とすような着陸や、地面が窓の真下に見えるような急旋回は、機長が海軍の艦上戦闘機パイロットあがりのせいだとか、機内食を作っているのは潜水艦の水夫あがりのコックだとか、もっともらしい冗談をしばらく浴びていたが、みるみる客が減っていった。組合が強くて改善の手を打ちにくかったとも言われたが、他の航空会社が生き残りを賭けて料金割引競争を始めた時期にも正規料金に固執し、何もしないうちに全て手遅れになってしまったという印象が強い。規制緩和や自由競争が伝統へのよりかかりを一切無価値にすることは、肝に銘じておきたい。(この項 1994年9月記)

補足:イースタン航空は1989年に会社更生法を申請、ドル箱路線だったイースタンシャトル(ワシントン~ニューヨーク~ボストン間の予約不要便)はトランプ氏に売却され、トランプシャトルとして1992年まで運行された。航空業界自由化の波は日本にも及び、日本航空は2010年に会社更生法適用を申請し、格安航空会社の消長は今も続く。米国で起きたことは30年後に日本でも起きると言われたが、時間差はどんどん縮まっている。(この項 2016年5月記)

ジョージアではなく、サウスカロライナ州チャールストンの郊外で見つけたドライトンホール。プランテーション邸宅として保存されている。
アトランタ近郊のストーンマウンテン公園。世界最大のレリーフは南軍の司令官、将軍の3肖像。作者はダコタで4大統領像を彫ったボーグラム。
ストーンマウンテンの下を走る保存鉄道。弁慶号と同じタイプの機関車が引く。


フロリダ   特等席でスペースシャトル打ち上げを見た

1982年11月、スペースシャトル第5便の打ち上げを見た。会社が米国の衛星通信会社に地上局設備を納入していたご縁で招待され、出入り業者の身でどういうものかと思ったが、見たい一心でお世話になった。他の招待客はユーザー筋の幹部だったが、我々にも購買部長がホストとなって何くれとなく気を使っていただき、めったに接待を受ける側にまわったことのない私にとっては感激するような丁重な扱いを受け、アメリカ流の接待術の勉強もさせていただいた。

打ち上げ前日の午後にオーランドのホテルに集合し、簡単なレセプションの後、観光バスに分乗してケネデイスペースセンターを訪問した。宇宙小説家の講演を聞いた後、各施設を見学。センターは広大な自然保護区の中にあって、巨大な組立場や20基以上もあるロケット発射台等の構造物が、大鷲や鷹と共存している。所内を縦横に走る水路にはワニがいるので気をつけるように、という注意も受けた。

日没近くなり、小高い丘の上にそびえ立ったシャトル発射台のすぐそばまでバスで近づいた。既に鉄骨の作業塔は外され、シャトルはライトに照らし出されて、白い巨大な蛾が茶色の燃料タンクにとまっているように見える。打ち上げ準備が最終段階に入っている筈だが、人影も見えず、音もせず、タ焼けの中をねぐらに帰る鳥の群も舞って、緊張感というより、何かマンガ的な滑稽感さえ漂っている。シャトルを背景に記念写真を撮ってからバスに戻ると、日本の社内旅行と同じように酒が入り、自己紹介やらジョークやら、わいわい騒ぎながらホテルに帰った。

翌朝は3時起床、バスに乗って再びスペースセンターに向かう。特設スタンドは万一の事故を慮って発射台から5km程離れたところにしつらえられ、そこから遠望するのである。常夏の南フロリダとはいえ、10月の夜明けの空気は海の湿気を吸ってじっとりと冷たく、5百人程の見物客の中には短パン、Tシャツ組もいていかにも寒そうだ。大きな電光掲示板に発射までの残り時間が表示され、時折「全て正常、カウントダウン続行」というアナウンスが流れる。濃藍色の空が、次第に抜けるような快晴の青空に変わってゆき、打ち上げまであと5分のアナウンスがあると、会場にどよめきが流れた。

5秒前にメインエンジン着火。「リフトオフ」のアナウンスがあると、固体ロケットが着火してワッと白煙が湧き、ゆっくり上昇を始めた。ひと呼吸あって「ズン」と着火音が5kmはなれたスタンドに届き、続いてバリバリバリッと、連続落雷を間近であびたような、驚く程大きな乾いた炸裂音が耳を襲った。ジェット機のようなゴーッという連続轟音を予想していたので、この炸裂音には、「事故か?」と思わず緊張する程であった。

少し垂直に上昇したところでクルリと向きを変え、シャトル本体が仰向けになった形で、80度の角度で東の空に向かって加速してゆく。固体ロケットの白煙が2本、青空にくっきりと軌跡を残し、シャトル本体の液体メインエンジンの炎は無煙で三つの青い点になって見える。遠ざかるにつれて軌跡が水平になり、機影がけし粒のように小さくなったところで、固体ロケットが燃えつきて白煙が消えた。「補助ロケット切り離し成功」のアナウンスが流れると、会場に拍手が湧き、ほっとした空気が流れる。シャトルはもう視界から消えているが、まだ遠くからロケットの推進音が聞こえるように錯覚するほど、鮮烈な光と音であった。15分程たって「軌道に乗った」とアナウンスがあると、見物人達はバスに戻り始めた。空にはまだ白い軌跡が形を崩して残っている。我々のバスは管制棟に立ち寄って衛星会社の立会い技術者を拾い、一路ホテルに戻った。 (補足:この打ち上げにはコロンビア号が使われ、シャトル初の実用飛行だった。コロンビアは2003年に再突入時の事故で失われ、飛行士7名が死亡した。)

それから1年半程後、今度は別の会社から、デルタロケットを使った衛星打ち上げに招待された。この時は雲が低く、ズーンという重い噴射音とともに、鉛筆のような細身のロケットが橙色の炎を吐きながら上昇を始めたかと思ったら、4秒程で雲の中に入ってしまい、何ともあっけなかったが、衛星打ち上げが日常的になったことを印象付けられた点で、見物の意味があったと思う。  (この項 1994年9月記)

暮れなずむ発射台に立つ「コロンビア」。この機体は2003年に再突入の事故で失われた。
轟音と共にリフトオフ。(初の実用飛行、1982/11/11)
半島南端の湿地帯、エバーグレーズ国立公園。
半島南端からキーウェストに伸びる海上道路。
キーウェスト、国道1号線のゼロ標識。
キーウェスト、ヘミングウェイの邸宅。


マイアミビーチ

マイアミ市(人口42万)とは別にマイアミビーチ市(人口9万)がある。ビジネス都市で空港のあるマイアミ市の東側のビスケーン湾をに砂洲を埋め立てて造成した人工都市で、20世紀初めにカジノやゴルフ場が建設され、米国屈指のリゾート地として知られる。その名は「マイアミビーチ・ルンバ」で子供の頃から知っていたが、実は行ったことがなかった。

2007年2月南米パタゴニアからの帰途、ブエノスアイレスで荷物検査が手間取ってマイアミに延着、乗り継ぎ便を逃した。添乗員がエアラインと交渉、マイアミで1泊することになり、思いがけずマイアミビーチ観光のチャンスを得た。

真冬の2月に裸の賑わい。
見張り塔も立派。
ホームレスらしき人もけっこう見かける。
20世紀初頭に流行ったアールデコ風の建物が並ぶ。
おしゃれなカフェで女子会。
クラシックカーはキューバ難民の名残の文化だろうか?