テキサス州ダラスには1990年6月から1995年6月まで5年間暮らした。転勤が多かった親のもとで育ち自らも転勤族だった小生、生まれてこの方5年以上継続して住んだ土地は、現在の「終の棲家」を入れて3ヶ所しかない。その意味でダラスは小生の「第三の故郷」とも言える。単身赴任だったので「暮らした」という実感は乏しいが、仕事では現地人の会社に関わってナマの米国流経営に触れ、輪番で勤めたダラス日本人会の役目では他業界の駐在員や移住日系人との交流があり、どれも得がたい体験ばかりだった。この記事を書きながら第三の故郷を思い出して、懐かしい気分に浸っている。
ダラスはアメフトの強豪チーム「ダラス・カウボーイズ」の本拠地だが、ダラスには大牧場も牛の取引所もなく、カウボーイとは無縁。しからば石油の町かと言うと、テキサスの石油産業の本拠地はヒューストンで、ダラスに石油の匂いはない(TVドラマになった石油成金の豪邸はあるが)。テキサスの州都はオースチンで、政治の中心でもない。ダラスを米国屈指の大都市に押し上げたのは、綿花の取引を中心とする交易であり、それを支える物流と金融だった。ダラスは19世紀から商業都市として発展した町で、西部劇の面影を求めて訪れたりすると、ガッカリすることになる。
20世紀半ばになると、電子産業などのハイテク企業がダラスに集まった。そのコアになったのが油田探査で(この点で石油と関係があるが)、人工地震で得たデータを解析して油層を特定するビジネスが、この地に電子技術者とプログラマーのベースを築き、その人材を目当てに、通信機、情報処理や電子部品の工場が集まった(小生が在籍した会社もその一つ)。ダラスは電子ハイテクの分野で、西海岸のシリコンバレーに一歩先行していたと言えるかもしれない。
ダラスはのっぺらぼうな草原に出来た実用本位の産業都市で、風光や歴史遺産に乏しいが、観光名所が一つだけある。「観光名所」は語弊があるが、故J.F.ケネディ大統領(JFK)の暗殺現場である。市街地の南の外れに、パレード中の大統領をオズワルドが狙撃したとされる教科書会社の倉庫ビルがあり、現場の6階が資料館として公開され、見学者がひきを切らない。展示資料をたどって行くと、事件を検証したウォーレン委員会の「オズワルド単独犯行」の結論には不自然なこじつけが多々見られ、背後に何らかの陰謀があったことを匂わせるストーリーが読み取れる。
オズワルドは勤務先の6階の窓の隙間からライフル銃を3発撃ち、内2発が大統領の頭部に命中したとされる。オズワルドに海兵隊員の軍歴はあったが、射撃は落第点だったらしい。その彼が、動く標的を確実に射貫く「ゴルゴ13」級のスナイパー(狙撃手)だったのか、先ず疑問がある(地上で至近の銃声を聞いたという証言もある)。彼は共産主義者としてキューバとソ連に亡命した経歴を持つが、実はCIAの下っ端工作員(スパイ)で、大統領狙撃の実行犯に仕立て上げられ、取調べ開始直前に「消された」との説がある(「復讐」を唱える不可解な人物に射殺され、彼も不可解な病死をとげた)。更に、この事件の「黒幕」はテキサス出身のジョンソン副大統領で、職権乱用と政治資金疑惑の追及を逃れるため、CIAと地元のヤクザ組織を動かして(あるいは「忖度」させて)一連の事件を起こさせ、JFKの死去で大統領昇格を果たした、とまで言われると、これはもう「ゴルゴ13」の劇画の世界だが、ナルホドと思わせる説得力があるような気がしないでもない。
この事件があった1963年11月、小生はまだ学生だったが、級友が「アメリカは野蛮な国だな」と呟いたのを今も鮮明に憶えている。米国では44名の歴代大統領の内10名が銃撃され、暗殺又は瀕死の目に遭った。4代目毎に暗殺事件が起きるとのジンクスがあり、1981年にワシントンDCの路上で銃撃され重傷を負ったレーガンから4代目が、オバマ前大統領だった。初の非白人大統領の身に何か起きるのではと心配したが、無事に2期8年の任期を全うできた。ジンクスが崩れて「米国=野蛮」のイメージが薄まればと願ったが、米国の野蛮度は新大統領の下でますます亢進しているように見える。
3億丁の銃を野放しにしていることも野蛮だが、圧倒的な武力を持つ大国が小国を相手に凄むのは、もっと野蛮ではないだろうか。小国のミサイル・核実験を弁護する気は全く無いが、挑発的という点では、国境のすぐそばで実戦さながらの軍事演習を展開し、首領暗殺の「首切り作戦」をチラつかせる側が、非難を免れる理由はない。加えて、国家元首が先頭に立って下品な揶揄を吐きかけるに至っては、20世紀を牽引した国がここまで荒廃するものかと驚くしかない。
ついでに言えば、米国内でも「史上最悪」と指弾する人が多い大統領との熱い友情を演出し、米軍の最高幹部が「大統領の命令に従わないこともありうる」とまで言う「あらゆる選択肢」行使に熱烈なエールを送る某国首相に至っては、その国民にとってまさに「国難」と言うしかない。無思慮な大統領との一蓮托生表明は、平和を望む国際社会からの孤立を深めるばかりでなく、米国内の良識ある人々を失望させ理解を失うことにもなるだろう。この政権に「大勝利」を与えたツケは早晩回って来ると覚悟せねばならない。
戦争末期の無差別都市爆撃や原爆投下への責めはこの際脇におくとして、戦後日本が急速に復興して世界第二の経済大国にまでなれたのは、様々な意味で「アメリカのおかげ」だったと小生は率直に思っている(その中には「日本国憲法」も含まれる)。個人的にも、30余年の仕事での関わりや現地での暮らし、子供の教育等で、本当にお世話になったと恩義を感じている。その米国が衰退期の悪あがきに陥った姿を見る事は、遺憾としか言いようがない。何事につけて米国の後を追い続けて来たこの国ゆえ、米国の衰退の後を追うことも避け難いだろうが、野蛮と荒廃を継承することだけは、何とかして免れたいと思う。 (この項 2017年11月記)
右のシャドー部分は日本地図をほぼ同一緯度に同一縮尺で示したもの。
テキサスは南北・東西ともに約1200km、北端は長野県北部、南端は那覇の緯度にあたる。西は高原性の砂漠、東端は亜熱帯雨林である。「テキサス・ビッグ」は「テキサスは何でもでかい」の自慢話だが、東部では「テキサスの大ボラ」のニュアンスで語られることが多い。東部から見たテキサス人は、大柄、大雑把、自信たっぷり、世間知らず、粗野な田舎者、成リ金、ピストル腰に馬を駆るカウボーイ、石油掘りのヤマ師等々あまリ評判がよくない。しかし昨今(1994年)は東部の大会社が本社をテキサスに移し、第二次フロンテイアとも言うべき観を呈しているので、ゴチゴチのテキサス嫌いの東部人間も引っ越して来るが、一旦テキサスに入ると早速テキサス流に染まってしまう程、テキサスの毒は強い。
17世紀以来、テキサスには、スペイン、フランス、メキシコ、テキサス独立国、アメリカ合衆国、南部連邦の六つの旗が翻ったが、この目まぐるしい歴史が、テキサスの気風に複雑な陰を落としたようには見えない。テキサスの気風はテキサスの風土の中で純粋培養されたと言って良いだろう。テキサスは唯一の独立国として合衆国に加盟した。テキサス人は今もこのことを誇りに思い、「ヤンキー(東部人)なにするものぞ」の気概の源になっているようだ。
アメリカ合衆国に住んでみて、仮にこの国が外国と交渉を全く絶っても、自給自足で世界最強の国であり続けるに違いないと実感するが、テキサスだけでも十分に独立国家として成り立つ。食料、エネルギーは問題なく、重工業もある。人口18百万人は少なく見えるが、世界にはこれより小さい国がいくらでもある。足りないのは国際感覚だろうが、それがないからこそ、唯我独尊の気風でいられるわけである。
ダラスは雨が多くて湖に囲まれているとか、冬は寒くて水道管が破裂すると言うと、怪訝な顔をされる。飛行機から見ると良くわかるが、テキサス北部には200余りの人造湖があり、ダラスは水不足の心配のない数少ない大都市の一つなのだ。春先は梅雨のようなシトシト雨が降り、夏、秋にはものすごい雷雨が頻繁に襲来する。夏は40℃を越え、車のボンネットで目玉焼が出来ることを実証した同僚もいるが、湿度が少ないので、水分を十分にとれば、外で過ごすこともさほど苦痛ではない。冬はマイナス10℃以下に下がることもある。フリージングレイン(過冷却の雨)になると、駐車場も道路も一面にスケート場のように厚い氷が張ってしまい、学校や会社は閉鎖になる。84年の冬は全米に寒波が襲来したが、北東部のバージニアよりダラスの方が事務所を閉鎖した日数が多かった。一言で言えば、自然は非常に激しく変化し、苛烈である。
水道管凍結の話と同様、ダラスに一流のオーケストラがあると言うと、まさかと思われる。ダラスシンフォニーは四管フル編成のプロオーケストラで、年間100回近い純クラシックの定期演奏会、10数回のポップス音楽会、数回の夏の特別コンサートをこなし、定演には必ず現代曲を入れる意欲も見せている。私は音楽会に行っても、背筋に電気が走ってゾクッとする瞬間があればそれで満足してしまうので、演奏家の技術レベルや芸術性を評論出来ないが、指揮者によっては、場内に緊張した興奮を巻き起こせるオーケストラだと思っている。94年に音楽監督に就任したリットンという若い指揮者はなかなか面白そうで、ダラスシンフォニーがもう一皮むけるかも知れない。
演奏会のチケットは最高席で33ドルだが、運営費用の半分は民間の寄付に依存している。私の勤める会社も年間1千ドル寄付しているが、この金額でも寄付者リストの前の方に名前が出る。数億円の寄付集めには膨大な数の零細寄付者が組織されなければならない。この資金集めはボランティアの仕事である。シンフォニーホールは86年に都心の「芸術区」に建てられた大変立派なもので、大口寄付者を記念してマイヤソン・ホールと名付けられた。実は例のペロー氏(1992年の大統領候補)も数億円の寄付をしたのだが、名前を出さないところに同氏のテレ屋の一面が見える。総人口400万人のダラス圏に、定期演奏活動を行っているオーケストラが少なくとも4つある。美術の教科書に載るような印象派絵画のコレクションがある美術館や、アンデイ・ウオホールの有名なモンローのポスター原画のある現代美術館もあるが、アメリカの通例として入場は無料。これらが文化の尺度とは言わぬが、ひょっとしたらダラスは東京より文化的かもしれない。
(この項 1994年9月記。一部改)
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前述のようにダラスの冬は厳しい。雪こそ滅多に降らないが、ひと冬に2、3度は道路が凍って交通がマヒする。3月中旬に短い春が訪れて野草が一斉に花を開き、そのまま長く暑い夏へとなだれ込む。
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テキサス人は「お祭り」が大好き。住民はボランテイア精神を発揮して、日本人以上に熱心に取り組む。
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DFW国際空港を挟んで、ダラス市と対称の位置にあるのがフォートワース市。二つの市はDFW(Dallas/Fort Worth)としてペアで扱われることが多いが、ビジネスオンリーのダラスに比べ、フォートワースには中心部に大規模な牛の取引所など西部の雰囲気を残す町並みがある。ここを本拠とする軍事産業も多いが、今は往時の賑わいが去り、ダラスの陰にかすんだ感がある。
日本企業の駐在員はダラスに集中しているが、日本人移住者はフォートワースに住む人が多い。日本人会で日本庭園を作ったり、日本流の花火大会を開いたりして、日本のプレゼンスを高める努力は敬服に値する。フォートワースの近代美術館は日本の建築家安藤忠雄氏が設計したもので、日本人会の誘致努力があったに違いない。
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テキサス州は、スペイン領、フランス領、メキシコ領、独立国、合衆国加盟、南部連合参加、合衆国復帰という経緯を経て現在に至っている。その歴史は北部のダラスやフォートワースではなく、メキシコ国境に近い州の中央部、現在のオースチンやサンアントニオの周辺で展開した。中でも、メキシコからの独立戦争でテキサス守備隊が立てこもり、応援に馳せ参じた元国会議員のデビー・クロケットを含め全員が討死にしたアラモ砦の戦いは、米国の歴史の中で最もドラマチックな場面である。
サンアントニオ市は、市街を運河が流れエキゾチックな雰囲気を持つ。人口の半分をメキシコ系市民が占め、大都市として初めてヒスパニック系の市長を選んだ。小生はこの市長と面談したことがある。若くハンサムで頭の回りが早く、なかなか魅力的な人物だったが、つまらぬスキャンダルで引きずりおろされた。WASP(英国系白人)の男性以外が社会的リーダーになることの難しさは、今も米国社会のテーマであり続けている。 (この項 2017年11月記)
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テキサス州の南西部は、リオグランデ川を国境としてメキシコと接している。そのリオグランデが大きく湾曲する部分が、ビッグ・ベンド(大曲り)国立公園に指定されている。国立公園と言っても、目を見張るような絶景があるわけではなく、英語で言う ”Middle of nowhere”。だだっ広いだけで「なーんにもない」のがいかにもテキサスらしく、それがこの公園の売り物と言えるかもしれない。 (この項 2017年11月記)
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我ながら小児的趣味だったと思うが、鉄道車両と航空機に興味があり、一見で「あれは何々型」と言い当てるのを内心自慢にしていた(この頃は記憶力低下もあって新機種は分からない)。ダラス周辺にはDFW、Lovefieldの2空港の他に、大型機の離着陸が可能な飛行場がいくつもある。テキサス(特にフォートワース)は航空機産業(主として軍用機)の中心地の一つで、従事している人が多いこともあるだろうが、年に数回行われる大規模な航空ショーには、いい大人が大勢集まって飛行機に熱狂する。
空を飛ぶものは何でも「カッコいい」と言われるが、機能美という点で、経済性を無視して性能を究極まで追求した軍用機は、特にカッコよくなるのかもしれない。しかし1機数百億円もする軍用機の究極の目的は「破壊と殺戮」で、こんな道具は無いに越したことはない。ちなみに自衛隊が導入するF‐35戦闘機は予算段階で1機210億円で、300人乗りのボーイング787型旅客機の1機180億円と比べると、乗客(?)1人当たりの値段は旅客機の330倍高いことになる(機体の重さ当たりの値段では約11倍)。軍用機の輸出はガッポリ儲かるビジネスで、大統領が押し売りするのもムリはない。そんな悪魔の道具がカッコよく美しいのは、人類にとって誠に哀しむべきことである。(この項 2017年11月記)
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アーカンソーは、クリントン大統領の出身地ということで一躍有名になったが、養鶏と米作が米国で第一と聞けばおおかた想像がつくように、ハイテクビジネスで出張の用事はない。そんなわけでテキサスの隣にありながら、私はフリーウェイの休息所しか立ち寄ったことがない。
アーカンソーは奴隷制が最後まで残った州である。53年の憲法改正で黒人の権利平等が名目的には確立したが、黒人が障碍を乗り越えて権利を行使し始めたのは60年代に入ってからである。州都リトルロックでは、黒人高校生の登校をめぐって暴動が起き、動員された軍隊の発砲で多数の高校生が死傷した。それから30年を経た現在、表面的には差別は排除されたことになっているが、一皮むけば、人種問題が依然としてアメリカ最大の悩みであることにかわりはない。むしろ「たてまえ」と現実の距離が一向に近づかないために、いっそう複雑化しているように見える。
「人種のるつぼ」と言うが、「るつぼ」の中で融け合っているように見えるのは白人だけで、有色人が「るつぽ」の外なのは隠しようもない事実である。白人の中でも、いわゆるWASPとそれ以外との区別は常に意識されている。例えば、ケネデイ家は名家だが、「アイルランド系カトリックにしては」という但し書きが今も消えていない。東洋人を一括りにできないように、人種文化の雑多なヨーロッパ人が、100年そこそこで簡単に交じりあわないのは当然かもしれない。
私の観察では、白人の中でもWASP(端的にいえば英国系白人)は号令をかけるのは好きだが、自ら汗を流して根性で働くのはアイルランド、ドイツ、ユダヤ系等の非WASPである。少々言い過ぎかも知れないが、20世紀前半のアメリカの驚異的な成長を支えた源は、非WASP白人のあがきのエネルギーではなかったかと思う。アメリカの全盛期が去って衰兆を隠せなくなったこの時代に(1994年当時)、人種差別が最も激しかった保守的な深南部の土地から、リベラル派と言われる若い戦後派大統領が出たことには、案外深い歴史的な意味があるのかも知れない。 (この項 1994年9月記 写真ありません。)
オクラホマは小麦と石油の州。ダラスからオクラホマとの州境まで100km足らずだが、小麦畑の見物は敬遠したままである。石油にかかわる仕事では、85年春にオクラホマ第2の都市タルサのパイプライン会社を訪れたことがある。以前から知っていた技術者がフロリダの通信会社を辞め、このパイプライン会社が計画中の光ケーブルによる長距離通信の技術責任者になったと聞き、機器の売り込みに行ったのである。
日本でも道路公団が高速道路沿いに光ケーブルを敷く等、異業種の通信業への進出が始まったが(1994年当時)、使わなくなった石油パイプに光ケーブルを通して通信事業を始めるというアイデアには、いささか驚いた。もっと驚いたのは、このパイプライン会社が通信機メーカーに、機器価格の3倍のファイナンス(融資)を付けるように要求してきたことである。つまり「機器をl00円注文するから前金で300円貸せ」という話である。機器代金の割賦払い(サプライヤー・ファイナンス)は前例があったが、工事費から創業費用まで機器メーカーに融資させようという要求は初耳だった。通信のシロウトに金を貸し、もしビジネスが成功しなければ、メーカーには機器代金の100円が未回収になる上に、融資した300円のリスクが残るわけで、何のための商売か、本社に説明のしようがない(そのくらいなら、メーカーが通信業を始める方が話が早いが、当時は外国企業は通信業に参入できなかった)。
私はファイナンスで苦い経験があり、この種の話には警戒心が先に立つ。70年代の始めにテキサスの石油成り金が始めた通信事業に融資付きで機器を納めたが、客が倒産して巨額の焦げ付きが出来てしまったのだ(同僚があれこれ手をつくして数年後にほぼ回収してくれたが)。石油採掘のヤマ師は、他人から金を借り集めて何本か石油井戸を掘り、その中の一本でも当たればバンザイで、カラ井戸は「あって当然」と考えるようだ。通信事業進出に失敗しても「この井戸はカラでした」でおしまいで、また別の金ズルを探して他所で井戸を掘る。投資家の方も、あちこちのヤマ師に金を貸して、当たったところからガッポリ回収すれば勘定が合うものらしい。
オクラホマの異業種参入のケースは、徒手空拳のベンチャー企業ではなく、バイブラインという有形資産を持つ会社だったので、通信事業進出に資金源がついて事業は見事に立ち上がり、今は当社の良い顧客になっているようだ(1994年当時)。私は86年に電話会社相手から民需量販の事業に担当が変わって、石油ヤマ師的なビジネスセンスが求められているのだが、なかなか大胆になれないのは吾ながら遺憾である。 (この項 1994年9月記 写真ありません。)