「米国全50州踏破」と言いながら、17州の記事が未掲載のままになっていた。原本は米国駐在中の1994年に書いて仲間内に配った「アメリカ50州雑記帳」で、業務上での経験を書いた州や写真のない州は「写真で世界を巡る」への転載を躊躇していた。
原本を書いてから28年が経ち、今から半世紀以上前の経験を書いた記事もある。当時苦労された先輩や同輩諸氏も、今となれば昔話として言及を許して下さる筈と勝手に「時効」を宣言し、未掲載だった州の記事を加えて「米国50州踏破」を完結させることにした。内容は昔日の感があるが、あまり変わっていないこともありそうな気もする。(原則として原本をそのまま転載したが、読みやすくするために表現を修正した箇所がある。)
ロードァイランドは、コネチカットとマサチュセッツに挟まれたアメリカで一番小さい州である。南西の隅と北東の隅を結ぶ対角線のフリーウェイ95号線を走ると、30分足らずで通りすぎてしまう。85年夏に私達一家はマサチュセッツでの休暇に行く途中、州都プロビデンスでフリーウェイを下りてガソリンを入れ、マックで昼食を食べた。帰途にジャズフェステイバルで有名なニューポートにも立ち寄るつもりだったが、時間切れで断念した。松島のような景観と聞いていたので残念に思っている。
ロードアイランドはクエイカー教徒が集まった州と言われる。クエイカーはキリスト教の一派で、祈祷が佳境に入ると悦惚状態になって震え出すので、「震える人」と言う呼び名が付けられたという。この教徒は商売熱心だったらしく、クエイカーの名を冠した自動車の潤滑オイルと、朝食用のクラッカーはロングセラーである。
1970年に私が北米向け輸出を担当して最初の仕事は、パラボラアンテナ用のアルミ合金成型板の輸出立ち上げだった。この成型機械をアメリカから買い、技術指導で来日したAさんと約一ヶ月間つきあった。当時私はクエイカー教徒のことは知らなかったが、同氏がプロビデンス在住で、非常に実直で商売熱心な人だったと記憶があり、クエイカー教徒に違いないと思っている。カトリックの神秘性を一切はぎ取り、勤勉と合理性を哲学的に追及したキリスト新教が、西欧型ビジネスのバックボーンになった。ヨーロッパでは旧教系と新教系の相剋が絶えなかったのに対し、アメリカでは新教が圧倒的な力を持っていたことが、アメリカ型資本主義の発展を支えた大きな要因ではないかと思う。
大都市に近い土地への泊まりがけの出張はめったにない。ニューヨークの隣のコネチカットも日帰リばかりだった。ニューヘブンはマンハッタンから郊外電車で2時間の古い町である。ここにSNET(南ニューイングランド電話会社)という当社の米国通信機事業にとって恩人のような電話会社がある。といっても私自身はSNETとの仕事が殆どなく、以下は受け売リである。
かつてアメリカには電話会社が二千社余りあったと言われている。政府融資の農村電化事業で、有線放送組合が電話会社に化けたものが多く、加入者が数戸だけの小規模なものもあったらしい。現在は殆どが大会社に吸収合併されたが、まだ町単位の電話会社も多数存在している。そんな中でSNETは数十万の加入者を持ち、ベルの資本も入った、いわば「歴史と伝統」を背負った立派な電話会社である。その会社が70年代早々に、基幹施設の交換機を当社から買ったのである。売り込みに関わった営業や技術関係者の奮闘努力は伝説になっているが、技術的に後進国と見られていた東洋のメーカーから基幹施設を買ったアメリカの電話会社の肝っ玉も褒めるべきだろう。
当時でも日本製の通信機の性能や信頼性は、電々公社の厳しい仕様に鍛えられて、米国メーカーに対抗できるだけの力をつけていた。しかし最大の問題は取扱説明書(マニュアル)だった。日本版の説明書を英訳しても通用しないのだ。私も学生時代にアルバイトで翻訳をやったので、技術知識なしで翻訳できないことは知っていたが、語学力+技術知識でもダメなのだ。日本の説明書は一種の技術解説書で、読み手に高度な技術知識があることを前提に書かれていて、細かい操作手順は読み手の工夫にまかされている。一方米国の取扱説明書は、読み手の基礎知識、理解力、工夫、想像力には全く期待せず、具体的な操作手順を落ちなく記述し、測定方法や具体的な確認の仕方まで指示している。技術的な原理の理解は不用で、必要なページを開いて書かれた手順に従えば、誰がやっても間違いなく操作できるように、平易に書いてあることだけが重要なのである。
この違いを、両国民の知的能力や教育レバルの違いと誤解し、だからアメリカ人(の一部)は劣る、と即断したがる日本人は今も結構多いようだが、これは文化の違いと考えた方が正しい。原理を勉強するのは技術の解説書で、想像力が期待されるのは文芸作品なのだ。だからマニュアルを作る人は、その機械を熟知した設計技術者ではなく、マニュアルの作り方を熟知した専門職であり、彼等が設計者から情報を得て、ゼロから再編成し、誰でもわかる客観的情報に作リ直すのである。
SNETは、交換機のわかる技術者とマニュアル作りの専門家を日本に派遣し、マニュアルを全部書き直した。このアメリカ版マニュアルが当社の交換機の商品価値を高め、他社からも受け入れられる素地になった。私がかつて担当したマイクロ、伝送の領域でも、関係者にアメリカ流マニュアル作りの重要性を認識してもらえるまで、何年もかかった。今でこそ現地でマニュアルを作るのが常識になっているが、それでもマニュアルが商品の一部で、商品の価値を左右するものだという事が、十分に理解されているとは思えない。
デラウエアはアメリカで2番目に小さい州である。小生の米国50州踏破は、その州で何かやれば訪れたことにする(ただの通過ではダメ)ルールだが、デラウエア州をちゃんと訪れたと言えるのか自信がない。ワシントンとニューヨークを結ぶ高速道路がこの州の北端をかすめるが、そのレストエリアのトイレをつかわせてもらっただけなのだ。デラウエアには仕事でも観光でも用がなかったので、小用を50州踏破の実績に使うことにした。
アメリカの企業を調べると、この州に本社をおく会社が多いことに気がつく。この州には法人税がないため、登記上ここに本社を置いて節税を計っているのである。名目的な本社でも、郵便や電話が来ることもあるから、弁護士や会計士に番人を委託しているようだ。このように、アメリカでは州ごとにいろいろと法律や制度が違うのには戸惑うし、これをネタに商売をする弁護士などもいるわけである。例えば、テキサス州では、12月末の在庫に対して資産税をかけるが、これを避けるために、年末にトラックを雇って荷物を州外に運び出し、歳が明けたら持ち帰るような行為が堂々と行われる。商法も刑法も全て州法の範疇、という原則は、明治以降、強力な国家権力を戴き続けてきた日本人にとって、いささか分かりにくいところである。
アメリカを南北に分ける境目がポトマック川と言われる。といっても、川を境に風物が急に変わるわけでもなく、現在はメリーランド南部とバージニア北部とは、ワシントンDCをはさんで首都圏を形成している。しかし、南・北、という意識でことさらに比較すると、バージニア側には農本的な雰囲気が漂い、メリーランド側は近代工業的な匂いがするように感じられるから、不思議なものである。
メリーランドの名物は、チェサピーク湾でとれる渡り蟹(ブルークラブ)である。これが脱皮して、まだ甲羅が固まっていないのを捕えたのが、ソフトシェルクラブである。この蟹は身があまりなく、食べるというよりも、しゃぶって味わう。20年前は、ポトマック河畔の露天の魚市場で、1ダース2ドル位で売っていた。バケツで買ってきて、ガサゴソと動くのを、そのまま煮立った大鍋に放り込み、茄で上がった蟹に胡淑のきいた岩塩を振リかけ、手でちぎってはしゃぶり、ビールを飲んでは蟹味噌をすする、というのが夏の風物詩であった。最近は少なくなってしまったが、季節になるとビールと蟹だけを出す店が開く。粗末なテーブルに新聞紙を何枚も重ねて敷いた上に、店員が茄であがった蟹を一山とビールの大ジョッキを置いて行く。あとは客が勝手に蟹を木槌でたたいて、殻を割ってしゃぶり、残骸が溜まれば一番上の新聞紙ごと丸めて捨てる。自宅の裏庭でやるのと同じ具合にやりなさい、という仕組みである。
渡蟹と一緒にしては申し訳ないが、70年にメリーランドにDCCという会社が出来た。当社のS会長のコムサット研究所時代のアメリカ人部下が集まって作ったベンチャー会社である。文字どおりガレージ作業場から始まり、何度も脱皮を重ね、今はヒューズネットワークシステムという、押しも押されもせぬ立派な会社になった。創業者の一部は今も幹部に残っているが、一匹狼的な人材は飛び出して夫々に事業を興した。DCC創業時の人材群が並々ならぬ侍達だった(束ねた親分もたいしたものだった)ということであろう。
私も、DCCとその後継会社や、飛び出した人達の何人かと仕事の上で接したが、彼らのエネルギーレベルの高さと、知恵の回リ具合の速さには舌を巻いた。同時に思ったことは、日本の大企業の土壌の中で、彼等のエネルギーや知恵を活かす仕組みを一体どうやったら作れるのだろう、ということである。我々が現地法人の経営で一番悩むことは、現地人幹部の人材獲得だが、蟹は甲羅に似せて穴を掘る、の逆で、大きくて元気のよい蟹は、穴をすぐこわしてしまうので、なかなか引き込めない、というのが穴を提供する側の正直な悩みである。
ノースカロライナでは植民地時代から綿花や煙草栽培が盛んで、これを加工する繊維産業や煙草工場が早くから発達した。また、家具製造に適した森林資源が豊かなことから、米国一の家具産地にもなった。こうした古くからの軽工業が、今日のエレクトロニクスや、バイオ技術関連の企業を集めた、ハイテク地帯への発展につながっていると考えて良いだろう。
アメリカ最大の通信機メーカーで、当社の生みの親でもあるウエスタンエレクトリック(WECO)は、ノースカロライナに思い入れがあったようで、80年頃に、本社までニューヨークからグリーンズボロに移してしまった。畑の中に突然巨大なビルがたち、都会の人間が大量に動いてきたのだから、この地域に与えた文化的なインパクトは少なからぬものがあったと思われる。「南部のもてなし」という表現があるが、一般に南部の人たちは人なつこくて親切である、コセコセしなくても生きてゆけた土地柄なのだろうが、都会人の流入で、この伝統も崩れてきたのではないかと心配である。
通信機メーカーが軍用電子機器メーカーでもある場合が多いが、WECOも当社も例外でない。私は入社早々に防衛関係の工場に配属され、WECOが開発製造した某システムを日本に導入するプロジェクトに関わって担当した仕事の一つは、同社からの部品輸入で、工場の事務系社員の海外出張は珍しい時代だったが、若僧の私が納期督促でバーリントンエ場に出張させてもらった。
この工場は機密指定のために立入れず、先方の関係者に近くのモーテルの会議室に集まっていただいた。私の会話力未熟もあったが、この会議で飛び交った会話はチンブンカンブンだった。WECO本社から参加した人の機関銃のようなニューヨーク英語と、地元工場から参加した人のよじれた南部英語の交錯について行けず、同行の商社の人に助けを求めたが、この人もカリフォルニア人だから往生していた。だが工場の人達は気の良い人ばかリで、若い私に懇切丁寧に付き合ってくれた。この工場から技術指導でNECに派遣された技術者もあり、私も家族ぐるみの付き合いをさせていただいたのは、本稿のアラバマの章でもふれたとおりである。
ノースカロライナ州の西側に、ブルーリッジ山脈が南北に走っている。千米級のおだやかな山なみが幾重にも折リ重なり、大西洋の湿気を含んだ空気が豊かな森林を育んで、ゆったりとした景観を作っている。この山中のヒッコリーという町に、ドイツとアメリカ企業合弁の、C社の光ケーブルの工場を訪ねたことがある。シャロットからの15人乗リの小型機は操縦席と客席の仕切りもなく、折からの雨雲を縫っての40分の飛行はなかなかスリルがあり、雲の切れ間から見えた森林も見事だった。光ケーブルエ場の隣りは製材所で、巨大な帯鋸が木材を挽いているのが見え、新鮮な木の香リが漂っていた。最先端技術とのとり合わせが妙だったが、光ケーブル工場側では予想外の防塵対策が必要だった由である。インド系移民の責任者は、アメリカでは工場の立地条件はどこでもあまり違わないし、家族には田舎の生活が望ましい。自分は仕事であちこち飛び回っているから退屈しないと言っていた。
どこに行っても開放的で明るいアメリカの中で、ウェストバージニアだけは閉鎖的で陰欝な印象がある。地図を見ても、幾重にも摺曲したアパラチア山脈の一番奥深いところに、しなびた馬鈴薯のようにちぢこまっている。アメリカで最も貧しい州の一つだが、人口統計では白人が95%で、マイノリテイはむしろ減少傾向にある。発展産業が何もないので、よそに行きようもない人間だけ残った山奥の過疎地帯と言えるだろう。石炭を産出してピッツバーグなどの製鉄業を支えた時代もあったが、今は主要産物が砕石だというから、衰退ぶりは推して知るべしである。
話は変わるが、当社の米国事業の草分けが衛星地上局施設であったことは、忘れ去られてしまったようだ。60年代半ばに静止軌道の通信衛星が実用化し、国際通信に使われ始めた。アメリカ本土では3基の大型地上局が建設され、会社は国際入札で高感度受信機、送信アンプ、マルチプレクサー等を受注した。地上局には山に囲まれて電波が飛び交っていない場所が望ましい。東部ではメイン州のアンドーバーと、ウェストバージニア州のエタムが選ばれ、エタムは首都圏にも比較的近いため、3局の中では最も大規模な施設になった。会社からは装置とともに据付け工事の技術者も送リ込まれたが、その後も毎年のように増設契約があり、私がバージニアに駐在していた85年頃も、数人の技術者がエタムの山中に長期滞在していた。
ワシントンDCから約3時間、バージニアの山道を西に向かって走り続けると、ウェストバージニアとの州境の峠に出る。ここからは山が一段と深くなって、人家もなくなってしまう。更に2時間、平家の落ち人の隠れ里があるようなつづら折りの山道を下ると、突然谷底に2面の巨大なパラボラアンテナがあらわれる。局舎内にはいろいろな装置が立ち並び、ケーブルが無数に走っている。会社が長年にわたって追加契約を獲得してきた理由のひとつは、据付け工事の見栄えがよいからだと聞かされていた。
アメリカ流のジョークだろうと思っていたが、:現地に行って見ると、他社がやった工事との差は一目でわかった。他社の装置は曲がって立ったままだし、ケーブル配線は蛇の巣穴を覗いたようだ。当社の装置はキリッと1ミリの狂いもなく直線に立ち並び、ケーブルは整然と束ねられ、定規で引いたように走っている。工事の見栄えが性能に直接影響することはないのだろうが、どう見ても当社の方に信頼感がある。概して外見に無頓着なアメリカ人が、こういう点を評価してくれることにも新鮮な驚きがある。
会社の技術者達が滞在している川べりの小さなモーテルの庭で、バーベキューをご馳走になった。工事会社との嘱託契約で、世界中の密林や砂漠をまたにかけて歩いている猛者達ばかりだから、平家の亡霊が出そうなエタムの谷底なぞ、辺地の数にもはいらないと言う。エタムでも裏の川で釣った鱒を食べたり、鶏をまるのまま買ってきて料理したりしているということだ。おしなべて口数が少なくて控えめな人達だが、外国を底辺から理解し、仕事ではその道に一家言のある名人達だ。彼等の根性の入った完璧な仕事ぶりを見ると、当社の世界市場での評価がこの名人達によって支えられているということを、しみじみと思い知らされるのである。
メンフィスには宅配便の元祖、フェデラルエクスプレス(FEDEX)の本社がある。タ方までにアメリカ全土で集荷した小荷物を、ジェット貨物機でメンフィスに集め、深夜に仕分けをして、同夜のうちに飛行機で各地に発送し、翌朝配達する。スビードもさることながら、一個一個の荷物の受から配送までコンピュータで徹底的にトレースし、紛失事故をなくすシステムを確立した点も評価された。従来、あてにならないものの代表だった小荷物輸送に大革新をもたらし、日本にも宅配便ブームの波紋を巻き起こしたのである。メンフィスは地図の上では東寄リだが、経済活動や時差を考慮するとアメリカのヘソにあたり、空港が24時間開港し、真夜中の離着陸に制約を受けないこともあて、ここをハブ(拠点)にしたという。
FEDEXは、727やDC-10等の大型ジェット機を200機も所有する大航空会社である。幹部には空軍パイロット出身が多く、彼等は運送屋と見られるのを嫌がり、エアラインと呼ばれたがっていた。私は85年にS社長(当時)が同社を訪問された際に随行し、「真夜中作戦」を見学させてもらった。夜10時を過ぎると、南の空に到着便の着陸灯が提灯行列のように並び始めた。専用管制塔の誘導で次々に着陸し、専用ターミナルに到着すると、直ちに横腹の大きな貨物ドアを開けてコンテナを下ろし始める。10分足らずで一機の荷役が終り、トラクターで機体をどけて次の到着機を入れる。大型のDC-10には専用の荷役設備があって、見る間に機内を空にしてしまう。DC-10の座席も何もない胴体が、あんなにガランとして広いものとは思わなかった。
乗務員の溜リ場は、発着便のパイロット達が群れてデイスコフロアーのようだが、貨物専用機ばかりなので、女気はほとんどない。夜10時頃から夜半までに150機が到着し、早朝3時前から4時過ぎに150機が離陸する。この間に60万個(85年当時)の荷物を積みおろし、仕分けを完了させなければならない。翌朝10時までに配達し終わる約東だから、仕分け作業に混乱が起きたら、全国的に遅配が生じてしまう。「真夜中作戦」の主役は1200名のパートータイマーである。人が入れ替わっても支障なく作業出来るように、全ての手順をきっちりと作り、リスクを徹底的につぶし、小さな支障でも直ちに修復する仕組みが必要だ。彼等自身が「作戦」と呼ぶように、こういうシステムは軍隊の兵姑業務と同じものである。
仕分け場は体育館三つ分もある巨大な建物だ。コンテナからはき出された荷物をベルトに乗せ、宛先コードを記したラベルを貼リ、大分類、中分類し、最後に宛先空港行きのコンテナに入れる。夫々のステップで整理番号を読み取ってコンピュータに入力し、荷物がどこにあるのかをトレースする。わずか2時間の間に60万個の小荷物が押し寄せて来るさまは、まるで津波か土砂崩れのようである。この物量に人間がとりつき、目の色を変え、顔をひきらせて捌いてゆく。アメリカ人は、ひょっとしたら人殺しの最中でもガムを噛んでいるのではないかと思うのだが、ここではそれさえも見られない。単純労働だが、これほど緊張感と密度の高い作業現場を見たことがなかった。S社長に「今でも戦争やったら負けますね」と言ったら、「ウン、だがそういう比喩は軽々しく使ってはいけない」とたしなめられた。
別棟のカストマーサービスセンターを訪ねた。衝立で小さく区切られたブースが400人分あるが、今は真夜中だから20人程しかいない。全国各地で受けた電話は、全部ここに自動転送される。各ブースの端末には、その電話がどの町にかかって来たものか表示され、係員はあたかもその町にいるかのように客と対応する。荷物の受付番号を言えば、それが今どこにあるのか瞬時にわかる。
一旦引き受けた荷物は、どんなことがあっても翌朝に届ける、というポリシーが徹底している。私自身が感心したことがある。休暇でソルトレーク市内に居たのだが、気が変わって山の中のホテルに移動した。私宛の書類が市内のモーテルに届いたが、私はチェックアウト済だ。FEDEXはあちこち電話して私の移動先をつきとめ、タクシーを雇って30KM先の山の中まで書類を送リ込んできた。FEDEXは大変な手間をかけた筈だが、徹底した顧客サービスとはこういうものであろう。 (ちなみに、アメリカではタクシーが近距離の宅配もやる)
FEDEXは「電子宅配便」の事業も始めたが、これはうまく行かなかった。数百億円を投資済だったが、撤退を決断すると、すぐさま徹底的な撤収作戦を展開した。当社には契約で定めた取消し料を、現金で「耳を揃えて」払ってきたという。攻めるときは周到な準備の上で圧倒的な物量で攻め、ダメと見定めた時はグジグジせずにサッと退く。アメリカ軍人の精髄と言えるかもしれない。
早朝にダラスを出発して東に一日走ったら、ケンタッキー州南部のボウリング・グリーンで日没になった。なだらかな緑の岡にかこまれ、ブルーグラスと呼ばれるのんびりしたカントリー音楽そのままの雰囲気である。ボウリング・グリーンはダラスとニューヨークの飛行ルートの下にあり、この風情のある地名は機長のアナウンスにも毎度出てくる。
その後、ある機会にイギリスの地図を見ていたら、同じ名前の町がロンドンの南にあることを知った。ボウリング・グリーンに限らず、米国にはヨーロッパの地名を冠する町が非常に多い。パリ、ベルリン、モスクワからレバノンまである。同じ町名があちこちにあるので、多い順にならべてみると出身移民の多い順になるのか、それとも単なる人気投票的な意味しかないのか興味があるが、まだ調べてみたことがない。
先住民には異論があるだろうが、アメリカはヨーロッパからの移民で成立した人工的な国である。伝説的なメイフラワー号の移民は、英国での宗教的圧迫を逃れた清教徒、と強調されているが、実際は7割が経済難民だったと言われている。支配階級として植民した有産市民もいただろうが、移民の99%は、祖国で食いはぐれ、新天地で新規まき直しを夢見た人達と考えてよいだろう。食い詰めた人間群のハングリーな状況が、ある秩序のもとに巨大なプラスのエネルギーに転化した例が米国だろう。
ハングリーな状況が解消した後に、国家として発展のエネルギーを持続することは容易なことでない。過去30年の米国の混迷がそうだし、日本もそういう段階にさしかかったようだ。歴史では、外国に戦争を仕掛けることで行き詰まりに突破口を開こうとした例も多いが、人類がもう少し賢くなっていることを望みたいものである。ボウリング グリーンで、名物のバーボンウイスキーをなめながら、そんなことを思った。
アラパマの人には強い訛りがある。アメリカ人でもアラバマ訛りはわからないと言う人が結構多い。ある東部の友人が、アラバマでは「Tim」という名前は、5秒かけて「t e-i a-i e-i m」と呼ぶ、と言って笑わせたから、ゆっくり話してもらえば聞き取りやすくなる、というわけでもなさそうだ。
日本人は英語を聞いたり話したりするのが不得意と言われる。盆栽いじりのようなイジイジした英語教育が根本的に問題、という主張はひとまずおいて、日本人を英語音痴にしている原因には、日本語に母音がアイウエオの5音しかないことと、発音に強弱がないことではないかと思う。ローマ字教育もかえって災いしているかもしれない。例えば、a=アと思い込んでいるが、「エァ」「工」「エィ」「ウ」「オ」らしい音もあり、強い発音と弱い発音では響きが変わってしまう。これに地方色や個性が加わったらアイウエオ民族は混乱するばかりだ。アラバマ訛りは押し潰したズルズル弁に粘っこい強弱をつけたようなものだから、聞き取れる筈がない、と開き直リたくなる。
もう25年も前になるが、技術指導で訪日したアメリカ人夫婦と、夏休みにレンタカーで北海道旅行をしたことがある。この奥さんがアラバマ出身だった。私の家内とはジェスチャーゲームだからそれなりに用が足リたようだが、私は何度も聞き返すのに気がひけ、いい加減に相槌をうつ癖がついてしまった。夫妻は一旦帰国したが2年後に再度派遣され、その後も私が出張の折にノースカロライナのお宅を訪れたりして交際が続いた。バージニァに駐在した85年秋には一家でお宅を訪問した。その頃、夫人は大手術のあとで気の毒なくらい老け込み、イライラして話す言葉はいっそう聞き取りにくくなっていた。私は例のいいかげん相槌会話でごまかしていたのだが、ふと、夫人が私を横目で見ながら、ご主人に向かって「この人はわかったフリをしている。昔からずっとこうだった。」となじるように耳打ちしたのが聞こえた。ご主人が小声でとりなし、私は聞こえぬふりをしたが、ジトリと脂汗が流れた。言葉は分かるまで聞き直すのが鉄則だが、アラバマ託りの場合は、今でもわかったふりの悪癖で押し通さざるをえないのは、我ながら恥じ入るところである。
気のせいかもしれないが、ミシシッピにはやや小柄でフランス人形のような容貌の人が多いように思う。もし私の推測が正しげれば、ミシシッピではフランス系移民が純血を守ってきた、ということになるのかも知れない。人種を類型化するのは偏見の典型だが、フランス人には何を考えているのか読み難いところがあるような気がする。
話はとぶが、アメリカでは会社の売買が日常茶飯事で、通信事業のような公共性のある会社でも、何の斟酌もなく売り飛ばされたり切り売りされたりする。ページング(ポケベル)事業のように町単位で認可される小規模な通信サービスでは、資金力のついた事業者が周辺の同業者を買い取って膨張した例が少なくない。州都ジャクソンにはMCCAという大手ページング会社の本社があったが、80年代半ばにベルサウスに買収された。オーナーだったパーマー氏(プロゴルファーとは無関係)は全国網の認可も持っていたが、この権利はベルサウスに売らず、新たに「M-Tel」という全国サービス専門の会社を興した。この新会社は毎年数十億円の赤字を出し続け、今につぶれると噂する人も多かったが、我慢した甲斐があって93年に黒字に転じた。私は90年夏に商談で訪問したが、この頃は資金繰りに四苦八苦し、金融筋にもメーカーにも信用がなかった。
語弊があるが、日本では会社の受付には容姿端麗の若い女性を選んで座らせるのが一般的だが、アメリカでは、受付は最低給与の仕事で、パッとしないオバサンが圧倒的に多い。しかしM-Tel本社の受付嬢にはびっくりした。案内に出てきた秘書にもまた驚いた。オフィスで働いているどの女性社員を見ても、例外なくモデル顔負け、スタイル抜群の若い女性ばかリである。しかもツンとすました美女ではなく、ニコニコ愛想がよく、会議が重い雰囲気になると、いいタイミングでコーヒーを持って来る。コピーを頼んだりすると、頬を付けんばかりに顔を近づけて用を聞く。再訪必須という潜在意識があったのか、いささか甘い契約に合意したのは我ながら不覚であった。
1年程のちに同社を再訪した際、少々雰囲気が違うことに気付いた。若いフランス美人がめっきり減っているのである。この頃は事業が軌道にのり始め、金繰りも楽になっていた。ふと思いあたったのは、去年のあれは「色仕掛け」ではなかったか、ということである。銀行、投資家筋の助平爺どもの鼻の下を伸ばさせる仕掛けに、たまたまページャーを売り込みに行った私もひっかかってしまったわけである。パーマー氏は政界進出を目指しているなかなかの曲者だから、そのくらいの細工はあっても不思議はない。
ミシシッピはルイジアナとともに狂信的な白人優位主義団体の活動が活発な地域である。高校生の服部君が銃殺されたバトンルージュ市はルイジアナ州だが、ミシシッピ州境に近い。銃を発射した人物がフランス系かどうか詮索できないし、人種差別主義者だったかどうかも裁判記録では触れられていない。だが、人種間の緊張が著しく高い地域で、白人が非白人に蹟躇なく銃を向ける、という社会的背景があの不幸な事件の背景にあったことは確かだろう。
デトロイトはアメリカの象徴とも言える自動車産業の都だが、どういうわけか縁がなく行きそびれていた。92年夏に、オハイオ州アクロンで当社がスポンサーのプロゴルフ大会があり、客の接待でつめていたが、日程が半日空いたのを幸い、デトロイトまで行ってみることにした。交通渋滞を心配せずに半日で往復500kmを走れるのはアメリカならではである。
オハイオ州の西のはずれからフリーウェイ75号線を北上し、ミシガン州に入ったとたんに、道路がすばらしく良くなった。私はフリーウェイが米国の豊かさの象徴のように思っているが、とリわけこの75号線は超一級であった。厚いコンクリート舗装の片側四車線の道路は滑走路のように滑らかで、車は75マイルで走っても微動だにしない。さすがに世界一の自動車の都への道だ、と感心したが、デトロイト市に入ったとたんに様相が違ってきた。道路自体もニューヨーク市内のように穴ボコや亀裂だらけになったが、もっと目についたのは、周囲の建物や工場が廃墟になっていることだ。高速道路をおりて街に入ると、死んだような空気が一層強く漂っていた。商店は軒並みつぶれて、ショウウインドウのガラスは破られてベニヤ板でふさがれ、わずかに開いている店も薄汚れてまるで活気がない。運河沿いに近代的なビルがいくつか立っているが、貧民街の老婦人が年甲斐もなく飾り立てたような印象さえする。
米国の自動車産業が凋落の底にあった時期とはいえ、ここまでひどいとは思っていなかった。西部の町に残されたゴーストタウンは、ゴールドラッシュ時代の名残を伝える文化遺産と言えるかもしれないが、デトロイトに見る現代のゴーストタウンは無惨でいたたまれない。中国人が日本人に間違えられて殺された事件もあったので、車から降りずに町の一郭を回っただけで、そそくさと帰途についた。
日本車の脅威でアメリカの自動車産業が壊滅した、というような論調には、何か政治的な誇張を感じていた。しかしデトロイトを駆け足で垣間見て、アメリカの強さの象徴であった自動車産業の凋落ぶりは、その原因を何か外に求めないと、アメリカ人としては救いがないことが納得できるように思われた。無類の強さを誇ったものが、頂点から20年足らずで荒れ果ててしまった姿には、我々も自戒するべき点があるかもしれない。
オハイオからダラスヘの長距離ドライブの途中、インデイアナポリスでフリーウエイを降りて昼食にした。旅行中の昼飯はいつもマックで済ますのだが、40番目に訪問した州というので、少し気張って、街路樹が美しい目抜き通りのレストランに入った。メニューに「海老・カレー味ライス付き」があるではないか。メシのまずさでは定評の中西部で、エビカレーとは、とワクワクして注文した。
30分待って出てきたものは、青菜の上に小えびが数匹ちょこんと乗り、横には黄色いライスがお子様ランチ風に一山、脇に黄色いスクオッシュが4切れ。好意的に言えば、サラダ仕立ての健康料理だが、メニューの命名と私の想像力との乖離がこれほど大きかったことも珍しい。葉っぱの上で縮こまっている小海老は芋虫みたいだし、ライスはカレー味がついてはいるが、冷たくてしかも半ナマである。スクオッシュ(瓢箪型カボチャ)の冷製は生臭くてヌルッとしている。私は戦中派だから、出された食べ物は我慢して食べてしまう方だが、このイモ虫と生米のカレー風味サラダは何としても喉を通りにくく、生涯忘れ難い食べ物のひとつになった。
日本人には、アメリカの食べ物は味がなくてマズいと言う人が多いが、アメリカ人の中には、醤油の臭いがダメという人もいるから、うまいまずいの普遍的な基準はないと考えるべきだろう。アメリカの家庭に招かれて、たいしたご馳走が出なかったことに不満をならす日本人もいるが、家庭の食事は、人間が動物として生きるための食物を摂取する行為であり、食事を楽しむ目的ならば、レストランという専門のサービス業者を利用する、とういうのがアメリカ人の考え方である。(レストランにも上記のようにひどいものもあるが)。
開拓時代は一家で日の出から日没まで働きづくめだったし、荒野の中では料理の材料も道具も限られていた。現代の都市生活になっても、主婦の大部分はフルタイムで働いているので、毎日新鮮な材料を買い整え、じっくりと手をかけてグルメ料理をつくるような暇がない。この国では、手の込んだ家庭料理を作る伝統がついに出来なかったのである。日本でも、農村や小さな商家では、主婦が重要な労働力だから、日常の食事は簡単で質素なものである。テレビの料理番組や婦人雑誌に出てくるような、手のこんだ家庭料理は、日本のサラリーマン家庭の専業主婦が作った特殊文化と言うべきかもしれない。家庭と飲み屋を混同して、家庭で長時間グダグダと晩酌をやるような亭主は、アメリカでは間違いなく離婚である。
シカゴは、禁酒法時代にマフィアが跋扈した街で、今でも犯罪都市のイメージをぬぐい切れない。シカゴと聞くと、元社員だった某アメリカ人のことを思い出す。本件は丸秘だったが、もう時効だろう。もっとも、私はこの人物と仕事上の関係がなく、以下は間接情報なので、誤解があるかもしれない。語弊ついでに言えば、アメリカでは「人は見かけ」で判断してもよい、と私は思っている。初対面の直感的な印象が、やはりそうだった、ということが多いのである。私は、この人物がある部門の責任者に採用された折に引き合わされたが、小ズルそうな目つきが気になり、何となくイヤな感じが残った。しかし採用早々から辣腕ぶりを発揮し、ヤリ手の現地人を雇えば事業が伸びる成功例として、もてはやされた時期がしばらく続いた。有力企業と合弁会社を作り、これも時代の先取りとして社内の注目を浴びた。部内の日本人駐在員からは、油断のならぬ人物と見られていたようだが、事業が伸びている時には、こういうアラームは無視されがちなものである。
ところが、合弁事業が開花せず、資金繰りが詰まりはじめた頃から、それまで見過ごされていた公私混同や、スキャンダル、対人関係、仕事の不手際等々、悪い評判が一挙に噴き出した。こうなると笑窪もあばたになり、この人物をどうやって処分するかで幹部の鳩首会議が続くような状態になってしまった。結末から言うと、当人が社外で詐欺事件を起こして起訴され、有罪になって刑務所入りした。
こういう事を披露するのは憚られるが、私がアメリカ人を採用する際のポイントは、「目つき」と「字」と「英語」である。正直に言って、つたない英語力で相手を追い詰めて真価を喝破したり、人柄を客観的に評価することは、私の実力ではとてもおぼつかない。彼等は子供の頃から自分を売り込むテクニックを訓練しているので、初歩的な口頭試問では合格回答しか返ってこない。だから直感を頼らざるを得ないのである。
「目つき」について言うならば、笑った時の目つきがすがすがしくない人物とは、後日軋蝶を生じたケースが多い。「字」の方は、私自身がひどい金釘流だから他人のことは言えないのだが、一般にアメリカ人の手書きの文字は極めて個性的で読みにくい。しかし、うまい下手は別にして、一生懸命に丁寧に書こうとした人物とは、問題を起こしたケースが少なかったように思う。タイプ社会だから、手書き文字を手に入れるには若干の工夫がいるが、私は必ず採用決定前にこのプロセスを入れることにしている。「英語」は、自分の語学力未熟を棚に上げての話だが、明解でストンと頭に収まるような話し方をする人が良いようだ。やたらもってまわった修辞を弄び、何を言っているのか、よく考えないと分からない人とは、ゴタゴタを起こしたケースが多かった。目玉が大きくて、手先が不器用で、母国語を変幻自在に操れるアメリカ人にとっては、いささか迷惑な採用基準かもしれないが、私は内心自信を持っている。
もっともこの基準は、言ってみれば、実直な人を見分ける術にすぎず、日本人の言うことをよく聴いて着実に役割を果たす、中堅のアメリカ人部下の採用には十分だが、組織のトップに立って強烈なリーダーシップの発揮が期待されるような、上級幹部の評価基準には不適切だろう。残念ながら、私は今もってその基準も眼力も持ち合わせていない。
ミシシッピ川に面したセントルイス市の公園に、「西部の入り口」と呼ばれる、高さ2百米のステンレス製の大アーチが、銀色の鈍い光を放ってそびえ立っている。西部とはもっと西の方ではないか、という気もするが、アメリカ人の感覚では、ミシシッピから西の、アメリカの五分の三が西部になるらしい。特殊なエレベーターで放物線アーチの頂点の展望台に昇ると、市街地の向こうに果てしない平原が見渡せる。だがセントルイスには西部らしい溌刺とした活気は感じられない。もの憂いブルースが似つかわしいくすんだ街である。
昭和20年9月に、日本は米戦艦「ミズーリ号」艦上で、連合軍に対する降伏文書に調印した。子供の頃に記録映画で見た、重光全権のシルクハットと、松葉杖の痛々しい印象が強く記憶に残っている。私は71年の2月に、セントルイスにあるサウスウエスタンベル電話会社の本社を訪れた。別章でもふれたが、堅い電話会社でも我々の飛び込みセールスを熱心に聞いてくれる。
ここでも7~8人の技術者が集って質疑応答をやっていると、偉そうな年輩の人が入ってきた。名刺を見ると副社長格の人である。5分くらい黙って我々のやりとり聞いていたが、小声で何かつぶやいた。まわりの技術者達の表情が一瞬こわばったのに気付いたが、何を言ったのか聞こえなかったので、はぁ?と顔を見ていると、今度ははっきリと、「君はまだ若いから、真珠湾で何が起きたのか知らないようだな」と言う。敵意というよりも憐慾の響きだったが、「日本人は来るな」と同義の発言である。私は一瞬考え、「私は幼かったが、戦争の記憶はある」と答えると、目をそらし、「まあ、しっかりやりたまえ」というような意味のことを言って席を立ち、我々の会議もそこで終りになった。人のよさそうな中年の技術者が玄関まで送りながら、バツが悪そうに、気にしないで欲しい、と言った。
当時は戦後25年目だから、副社長の年代ならば、彼自身が日本軍と戦ったか、あるいは身内をなくしたのかもしれない。若い日本人が生意気に「日本の優れた技術」を売り込みに来たりすると、思わず、この野郎、と、おさえきれない感情がほとばしり出たのだろう。私自身は真珠湾の直前に生まれ、防空壕とか、腹のへった記憶が微かに残っているだけだが、奇襲のそしりには、日本人として肩身のせまい思いをぬぐい切れない。
アメリカでは今も毎年12月になると、真珠湾を映画化した「トラ、トラ、トラ」がテレビで放映される。この日は街に出るのにも何となく不安を感じるが、同じ時期に、大戦中の日系人強制収容所のドキュメンタリーや、欧州戦線で死闘した日系二世部隊の特集番組を流すのは、アメリカのマスコミのバランス感覚と言えるかも知れない。 私の偏見かも知れぬが、前述の副社長のように、日本人に対して露骨に反感を表す米国人は中西部人に多いように思われる。東部人は欧州に顔が向いているうえに政治的洗練があるから、外国人に敵意をあらわにするようなヘマはしない。太平洋岸は東洋人があふれ、軋櫟が日常化しても、敵意の潜在化はないが、中西部の保守層には、東洋人に対して素朴で根強い人種的反感が感じられる。そう言えば、日本叩きで名を馳せる自動車メーカーも、移動通信のトッブメーカーも、いずれも中西部の会社である。
ニューオルリーンズの売リ物は、フランス植民地時代の残滓と、黒人文化が混じって醸し出される特異なエキゾチズムである。この町はミシシッピ川がメキシコ湾に流れ出るデルタの上にあるが、フランス人は海を渡って直接に来たのではないらしい。17世紀に、イエスズ会のスランス人修道士達が、北大西洋からカナダのセントローレンス川を遡り、ヒューロン湖畔に定住地を設け、五大湖とミシシッビ流域の原住民の教化にあたった。修道士のあとをたどって、毛皮商人達がインデイアンと交易をしながらミシシッピ川を下リ、河口に新オルレアンと名付けた町を作ったのが、ニューオルリーンズの始まりだという。だから、フランスの残滓と言っても、相当に泥臭い部分と考えた方が良いだろう。
アメリカでは、コンベンションと呼ばれる業界の集まりが盛んに行われるが、会場には人集めの為に観光地が選ばれることが多い。コンベンションの頻度でランク付けをすれば、ニューオルリーンズはラスベガスにつぐ観光名所と言えるだろう。私の最初のコンベンション参加は、75年にこの市で開かれた通信業界の集まりである。当時は、まだミシシッピ河畔の立派なコンベンションセンターが建つ前で、フレンチクォーターに近い古い展示会場の前を、テネシーウイリアムズの芝居に出てくる「欲望という名の電車」がガタゴトと走っていた。フレンチクォーターは今よりももっと猥雑で、盛リ場らしい熱気があった。通りいっぱいに開けっ放した小さなバーの狭いカウンターの中で、小人数のデキシーバンドがけっこういい演奏をしていたり、黒人の子供がカウンターの上でタップを踊っていたり、見せ物の呼び込みも賑やかだったし、味のある骨董品屋も軒を並べていた。今も盛り場には違いないが、大半のバーはジャンクフードの立ち食い屋に、骨董品屋はTシャツ屋になってしまっている。
通信業界は地味な業界だが、75年のコンベンションでは、デキシーバンドが展示会場を練リ歩いたり、バニーガール姿の案内嬢が立ったりして、予想以上のお祭り騒ぎだった。当時は通信業の規制緩和の論議が沸騰した時期で、スピーチ中の緩和推進派の国会議員スタッフが、地元ベル系電話会社の古参社員グループにやじり倒され、卒倒してかつぎ出された一幕も、強く記憶に残っている。この展示会で某社が画期的な新商品を出すという情報があって、それを見るのが私の出張の目的だった。当時は日本からハイテク機器の輸出が急増し、日本メーカーの社員を産業スパイ扱いにするような風潮があったので、展示場で競争会社の新商品をしげしげと観察することには抵抗があった。コソコソと展示物を見ては陰でメモを取ったりしていたが、そのうちに説明員につかまってしまった。だが彼は私を追い払うどころか、競争会社の社員と知ったうえで、微にいり細にいり装置の説明をしてくれた。一旦おおやけに展示した以上、誰にでも納得の行くようにきちんと説明する、というアメリカ流の考え方を教えられた次第である。
一般にカンサスシティと呼ばれ、ビジネスの用があるのはミズーリ州のカンサスシティだが、カンサス州側にも別のカンサスシティがあるからややこしい。カンサス側のカンサスシティは小さな町で、広大な農場地帯に埋もれている。カンサス州がアメリカで個人所得が一番低い、というのは意外な感じもするが、州民の大部分が名目所得が低い農民と言うことであろう。カンサスはどこを走っても、麦畑、トウモロコシ畑、それに「マイロ」という焦げ茶色の蒲の穂のような飼料の畑ばかりだ。20年ほど前、日本に「強い子のミロ」というココア風の飲料があったが、あれはアメリカ豚の飼料と同じ原料だったようだ。
80年の春、カナダ駐在員だった私は、遠路モントリオールから客を引きつれ、カンサスのマイロ畑の中の無線中継局を訪れた。 カンサスシティ空港(これもミズーリ側)からミシシッピ川を渡り、畑の中を西に2時間程走ったところにハイヤワサというインデイアン名の小さな村がある。この村外れの見渡す限りのマイロ畑の中に、高い鉄塔が一本立っている。これがW通信会社の全米マイクロ通信回線の交差点にある無線中継局である。日本で通信会社の局舎といえば、山の中の中継所でも立派なビルが立っているが、米国ではプレハブの掘っ建て小屋が一般的だ。このW社のアメリカ最大のマイクロ中継局を訪れた第一印象も、マイロ畑に埋もれたプレハブに「何だ、こんな程度か」と思ったものである。
当社は、W社から古い米国製のマイクロ通信装置を最新式に入れ替える契約をもらい、据付け工事が最終段階に入っていた。この頃、同じような計画を検討中だったカナダの電話会社の技術者を、カンサスまで連れ出して視察してもらったのだが、当社の装置の優れた性能や工事の手際よりも、マイロ畑に埋もれた局舎の印象から、「何だ、こんな程度か」という感想の方が強く残ってしまったようだった。
視察を終えて夕食を接待するにも、半径100km以内に気の利いたレストランは皆無。やむを得ず、地元の農民連中が行く田舎食堂に連れていった。中西部の名物料理は「チキンフライド ステーキ」である。チキンフライの製法で作ったステーキという意味らしく、牛肉の薄切りを唐揚げにして、白くて甘い一種名状しがたい味のソースをかけたものだ。調理場ではチキンと同じ油で揚げるので、牛肉の唐揚げにもチキンの臭いと味がしみ込んでいる。つけあわせはマッシュポテトと塩茄でのドジョウ豆のみ。いくらアメリカでも、これより田舎風の食べ物にはなかなかお目にかかれない。この百姓料理を北米で最もグルメと言われるモントリオールの賓客に食わせたら、多分商談にトドメを刺すことになるだろうな、と思ったが、案の定カナダの話はそれきりになってしまった。
ハワイは私が足を下ろしたアメリカ最初の地である。66年12月の初出張の時に、JALのDC-8がホノルルで途中給油した。タラップを降りたら、ハワイ娘が腰蓑姿で「アロハ」と言って一人一人の胸に蘭の花をつけてくれた。今は空港の花屋にアグネス・ラムのような看板娘もいるが、そういうサービスは期待できない。私は雪国育ちの上にカナヅチのためか、海辺のリゾートにはどうも興味が湧かない。その上、日本人観光客がウジャウジャいるのもうっとうしく、ハワイにはあまリ足を向けないまますごしてきた。
86年3月に帰任休暇でハワイ島西岸のコナに3泊した。全島が日本人観光客相手の巨大ショッピングモールのようなオアフ島と違って、ハワイ島はマウナロア、マウナケア両火山の雄大な裾野に村落が点在する、のんびりとした南の島である。一度運転してみたいと思っていたオープンカーを借りて島を一周した。
ホテルを出て南に走ると、農家の庭から鶏が走り出してくるような田舎道である。南斜面のコーヒー畑の中を約一時間走リ、南に折れると米国最南端の岬に出る。マウナロアの溶岩が延々と流れて太平洋に落ちたところだが、特に看板が立っているわけでもなく、見物客も我々だけだった。ここから中腹の火山博物館に向かうと、急に霧が湧きだして気温が下がってきた。慌てて車の幌を下げてヒータ一を入れた。万年雪があるという標高四千米の山頂は遥か雲の中である。溶岩で埋め尽くされた山腹を走ってキラウエアの火山博物館に着く。溶岩が湧き出ている不気味な火口を覗いたあと、東に向かって山を降りると黒砂の浜辺があった。溶岩が波に砕かれて浜辺を埋め尽くしたものだというが、椰子の樹と紺碧の海と、黒く光る砂の対比が超現実的である。
東岸のヒロは明るい感じの大きな町だが、ここは通過して、藍緑色の植物が密生した急峻な斜面が海に落ち込んだ狭い海岸線を北に走る。橋の上に車を止めて覗き込むと、下から激しい水音がするのだが、深く切れ込んだ斜面にびっしりと繁った木々が邪魔して、急流は見えない。島の北端にマカパラ展望台があるというので、細い道の舗装が切れるところまで走った。行き止まっても目の前には急峻な崖が立ち塞がっているだけだ。がっかりして、道路が少しふくらんだところまで戻り、ふと後ろを振り返ると、あった。遠くの高い崖の上から滝が一筋、太平洋に落ちている。スケールの大きい絶景だ。ここから、島の反対側のコナヘの帰り道は、マウナケアの裾野を一直線に走った。海抜ゼロから4千2百米の山頂が見えればすごいと思うのだが、雲が厚くて一年中見えることがないという。
コナからホノルルヘの飛行機はホロアエ島の脇を飛ぶ。この島は第七艦隊の爆撃演習地の由で、爆弾で穴だらけになった射爆場が飛行機の窓から丸見えである。まさか真珠湾に懲りて、米国民に猛演習をPRしているわけでもないだろうが、こういう場所でも平気で民間機を飛ばすところがアメリカ的なのかもしれない。