「フォークランド紛争研究」なるものがさるスジで秘かに行われているという。島嶼の帰属をめぐる国際紛争の事例研究らしいが、何を想定しての研究なのか、想像できないことはない。

いわゆる「フォークランド紛争」は1982年に英国とアルゼンチンの間で南大西洋の島嶼の領有権をめぐって発生した軍事衝突で、アルゼンチン側では「マルビナス戦争」と呼ぶ。3ヶ月間の局地的な戦闘ではあったが、第二次大戦以降唯一の「近代化された西側国家同士の戦争」で、原子力潜水艦、航空母艦から戦略爆撃機まで投入され、両軍の戦死者は900人を超えた。

紛争は1982年3月19日、アルゼンチンが英領サウスジョージア島に海軍輸送艦で民間人60人を鯨油工場解体のクズ鉄業者の名目で上陸させたことに始まる。ブエノスアイレスの大統領官邸前は熱狂する群衆で埋め尽くされた。3月30日、空母、駆逐艦など13隻と陸軍機動部隊4000名をフォークランド島に出動させ、4月2日に900名が首都スタンレーの近くに上陸。79名の英国海兵隊はなす術もなく降伏し、フォークランド諸島はアルゼンチン軍の手に落ちた。アルゼンチンは兵力を9千名に増強、大量の重火器やミサイルを揚陸して防衛体制を固めた。

英国は「寝耳に水」だった上に、1万3千㎞も彼方のフォークランドに「おっとり刀」もままならない。英政府は4月3日に軍に出動命令を発し、大西洋上の中間点の英領アセンション島に陸海空の戦力を集結、4月12日にフォークランドの半径200海里の封鎖に成功した。5月に入ると英軍はアセンション島から長距離爆撃機と空中給油機を発進させ、近海に配置した航空母艦からも戦闘爆撃機を飛ばして空爆を開始。5月21日、英陸軍空挺隊がフォークランド島に上陸、5月28日の陸戦では両軍に300名近い戦死者が出た。近代装備の練度で優る英軍が優勢に転じ、6月14日に首都スタンレーの奪還に成功。アルゼンチン守備隊が降伏し、6月17日にガルチェリ大統領辞任、6月20日に英国が停戦宣言を発して紛争は終結した。アルゼンチンは戦いに敗れたものの、フォークランド(マルビナス)の領有権を放棄していない。

英国の領有権主張の根拠は1592年の探検家デイヴィスの記録に遡る。しかし1764年にフランス人が入植し、1767年にこれをスペインに売却、1770年にスペイン軍がブエノスアイレスから侵攻し、英軍が降伏してスペインの領有権を認めた経緯があり、英国はその時点で権利を喪失したと解釈できる。しかし19世紀になると覇権パワーはスペインから英国に移り、英国は1833年に軍を送って無血占領に成功。1816年にスペインから独立を果したアルゼンチンは大英帝国の威光に押され、フォークランドからスペイン系住民を撤退させざるをえなかった。以来英国はフォークランドを海軍と捕鯨船の補給基地として実質支配し、1860年代になるとスコットランド人が入植して羊毛産業を興した。

20世紀に入り、世界恐慌の荒波を被ったアルゼンチンで民族主義が台頭、フォークランド(マルビナス)奪還が国民の悲願となった。1976年に左派民族派のペロン政権を倒した軍事政権は、内政失敗の批判をそらす目的で領有権問題を殊更にクローズアップ、1981年に政権を引き継いだガルチェロ大統領も領土ナショナリズムを煽った。一方の英国は経済衰退で昔日の面影なく、フォークランドは遺棄されたに等しい状態だったが、アルゼンチンはフォークランド島民に医療サービスを提供するなど、領有権主張の土台作りも進めた。英国は背に腹を変えられず、「主権はアルゼンチンに移譲、統治は英国」の妥協案を模索したが、1979年に首相に就任した「鉄の女」サッチャーがこれを白紙に戻した。そんな状況の中でアルゼンチンは軍事侵攻に踏み切ったのである。

武力で領土を奪えないことは現代国際司法のルールで、負けたら国家崩壊、勝っても領土の収奪が公認される可能性は少ない。そんな「ワリに合わない賭け」に国民を巻き込んで自己保身を図る為政者がいることを、フォークランド紛争の事例が示した。そんな戦争はチンピラのケンカと同列で、負ければ大ケガ、勝っても警察に引っ張られるだけでトクなことは何も無い。ケンカを避けるには相手と目を合わせたり肩が触れたりしないことだが、殴られたらやられっぱなしというわけにも行かない。日本国の防衛費は世界5位で英国とほぼ同額、正当防衛の能力はある筈で、防戦しつつ国際世論に訴えて相手の自滅を待つしかない。間違えてもダチの加勢を呼んで騒ぎを大きくしたり、ましてやダチのケンカの助っ人に駆けつけるなど、三下チンピラのマネだけはしたくない。


スタンレー
飛行機が高度を下げて島影が見えると窓のブラインドを降ろさせられ、着陸すると自動小銃の引き金に指をかけた若い兵士が2人乗り込んで来て鋭い目で機内を見回る。機体を出て建屋に入るまで数個の銃口に追われ続け、まさか撃たれるとは思わないが、敗軍の捕虜はこういう気分かと思う。我々が着陸したのは臨戦態勢の英軍飛行場で、フォークランドにジェット機が離着陸可能な滑走路はここしかない。

わざわざフォークランドまで旅に出かけたわけではない。南極半島クルーズ(1994年12月)の乗船地がフォークランド諸島の首都スタンレーで、ツアー集合場所のサンチャゴ(チリ)からチャーター機で飛び、砕氷船に乗船するまでの数時間を過ごしただけだが、20年前の「戦争体験」は今も脳裏に鮮烈に刷り込まれている。

飛行場からスタンレーまで簡易舗装の一本道をオンボロバスで走る。本業は教師という現地ガイド役の女性から「バスが故障しても絶対に外に出ないで下さい。道路を一歩外れたら地雷を踏むから」と厳しい注意。紛争は我々が訪れる12年前に終っていたが、アルゼンチンが鉾を収めたわけではない。今も領有権を主張し、再び攻め込まないという約束はなく、英軍の前線基地は臨戦態勢を解けない。戦争は勝っても負けてもアトを曳き、「究極のムダ」の連鎖に輪がかかる。

フォークランドは英国直轄領で、人口3千人余だが自治権があり、CIAのWorld Factbookは独立国と同等に扱っている。一人当たりのGDPは55,400ドルで英本国(37,500ドル)よりも高く世界のトップレベル。軍事費は全額本国負担だが、自治領の財政は収支均衡し、歳入の3割は韓国の遠洋イカ釣り船からの漁業権収入という。紛争後に海底油田が発見されて近く採掘が始まる由で、英国はガンバリ甲斐があったというものだが、アルゼンチンの悔しさは増すばかりかも。

飛行場からスタンレーに向かう一本道。道路両側の荒野は地雷原で立ち入り厳禁。
学校の先生が現地ガイド役。
海岸線の荒れ地も地雷原。
住宅がポツンと建つ。見張り小屋が実態か。
スタンレー市街地(?)が近い。
町の中心の大聖堂。クジラの骨を組み立てたモニュメントがある。
町の外れに立てられた戦勝記念塔(慰霊碑)。
記念碑の部のレリーフ。戦艦や爆撃機の姿も刻まれている。
スタンレーの市街図。人口2千人の町は5分も歩けば通り抜けてしまう。
メインストリート。右の建物はホテルか。
郵便局。記念切手の発行はフォークランドの主要産業の一つ。
波止場からの眺め。一人当りGDPが世界トップクラスの町には見えないが…
大聖堂の他に教会もある。
銀行。
警察。
博物館。
民家の屋内庭園。南極海に近い孤島の気象環境は厳しい。


ウェストポイント島
スタンレーを夜半に出港した砕氷船は夜の間に島の北側を航行し、翌朝10時にウェストポイント島の沖合に投錨。ゾディアック(ゴムボート)で海岸に上陸する訓練を兼ね、居住者の集落とイワトビペンギンの営巣地を訪ねた。

集落と言っても農家が2戸と作業小屋があるだけ。流刑地を思わせる絶海の孤島に人が住むのには理由がある。生業を持つ民間人が居住していれば「領有権」主張の確固たる根拠になるから。このことはパタゴニアを訪れた時に知った。アルゼンチンはチリとの国境線が未確定な地域にニュータウンを急造し、領有権争いに先手を打っていた。

ウェストポイントの住居は少々年季が入ったもので、1982年の紛争以前から人が居住していたことは明らか。我々が訪れた時の住人は50歳台の中年夫婦で、生業は「羊牧」の由。小ぎれいな暮らしぶりと洗練された接客ぶりに「世捨て人」の気配はなく、年式は古いが四駆の名車ランドローバーも所有し、ごちそうになった紅茶とクッキーもしっかり英国の味がした。

以下は小生の勘ぐりだが、フォークランド諸島の超辺境に暮らす1千人の大半は「屯田兵」ではないだろうか。民間人ボランテイアを募ってカタチばかりの「生業」を営ませ、暮らしを支えるライフラインを本国政府が保証していると考えれば納得がゆく。某国の南の孤島でも民間人が生業を営んだ時代があったらしいが、退去して長い時間が経ち、遺棄された無人島と見られても仕方ない状態。「領有権」主張にはそれなりの努力が要ることを今頃になって思い知ったようだ。

農家から15分歩いて海の見える断崖まで行くとイワトビペンギン(Rockhopper)のコロニーがある。体長50㎝ほどの小型ペンギンで目の上の黄色い飾り羽が特徴。急斜面に営巣し、名前のとおり岩から岩へ飛び跳ねて海と巣の間を通勤する。繁殖期の10月~12月だけ営巣地に帰って子育てして、残りの期間は海で過ごす。韓国のイカ釣り漁船と獲物を争っているのかもしれない。

ウェストポイント島の住民は2家族、職業は羊飼い。
黄色い花のヤブはトゲだらけ。家畜進入禁止のバリヤーになる。
羊の群が行く。
海に面した急斜面はイワトビペンギンのコロニー。数万羽は居そうだ。
アルバトロス(アホウドリ)も同じ地域で営巣する。
ヒナを狙う猛禽類。
ガンも子育ての真っ最中。

ニューアイランド島
昼過ぎにウェストポイント島を離れ、ニューアイランド島沖に投錨したのは夕方5時。南緯51度の夏はまだ昼間の太陽が天高い。ここにも「屯田兵」の小集落があるが夕食の時間なのでおじゃませず、上陸目的はゾデイアックの習熟とイワトビペンギンのコロニー見学だけ。

南極半島行きの砕氷船は1万トン級の大型船。南極には接岸可能な埠頭など無く、沖合いに停泊してゾデイアック(ゴムボート)に乗り換えて上陸する。船腹に下ろされたタラップから波浪で上下するゾデイアックに乗り移るには(その逆も)タイミングを計るコツが要り、慣れないと海に落ちてしまう(実際に落ちた老婦人客がいた)。南極海で落ちたら数分間で絶命するので訓練は真剣。

午後9時、全員が本船に戻り、いよいよ南極半島に向けて出港。夕食を終えて講堂に集合、ツアー主催者から諸注意を聞く。ここから先の南極クルーズは稿を改めてレポートする。

ニューアイランド島が見えてきた。

海辺の住居。

イワトビペンギンの営巣地。
カッコいいオニイサンの感じ。
ペンギン夫婦。
巣立ちが近いヒナ。

沖合に停泊する砕氷船。

海岸に放置された廃船。
ゾデイアックで本船に戻る。
本船の船腹に到着。
ゾデイアックから本船のタラップに乗り移るのにコツが要る。