南米をもうちょっと見たいと思い、本年11月出発のギアナ高地(ベネズエラ)トレッキングを申し込んであった。地球最後の秘境と言われ、ジャングルから空に突き出た標高3千mの台地を歩き、落差1千mのエンジェルフォール(滝)を間近かに見る2週間のツアーで、ハードな海外旅行はこれでオシマイにするつもりだった。そのツアーが催行中止になった。毎回満席の人気ツアーだが、首都カラカスの治安悪化で「渡航中止勧告」が出たのだ。4月に申し込む前から政情不安が報じられて「ヤバイかな」と思いつつも、ツアーの地域は比較的安全と聞き、催行に期待をかけていた。最近はベネズエラ情勢のニュースを聞かないが、混乱が拡大しているのであれば諦めるしかない。

南米の歴史や政治について小生は無知に近く、浅知恵の歴史解釈は危険と承知の上だが、これまで訪れたチリアルゼンチンボリビア、ペルーの限られた知見では、共通のパターンが見えるような気がする。コロンブスの「新大陸発見」直後の15世紀末から新大陸に渡ったヨーロッパ人は、斜陽になった祖国(スペイン、ポルトガル)に見切りをつけた血気盛んな「ひと旗組」の男たちで、武力にまかせて先住民を「征服」し、大陸の隅々まで拡がった。各地で頭角を現した統領が群雄割拠して国の原型が形成され、19世紀に夫々母国からの独立を果たしたが、それで平和と繁栄がもたらされたわけではない。左派・右派・軍の三つ巴の流血抗争が繰り返され、その間に貧困・財政破綻・政権腐敗の3点セットが国を蝕ばんできた。隣国との紛争も絶えず、裏に超大国の影がチラチラするのも各国に共通している。

ベネズエラは世界有数の産油国だが、石油の富が国を安らかにした例はあまり聞かない。ベネズエラでも1980年代の原油高がもたらしたのは貧富格差拡大と体制腐敗だった。1989年に低所得層の暴動が起きた際、政治改革を掲げてクーデターを首謀したチャペス中佐が1999年の選挙で大統領に就任し、反米路線を進めた。2002年に米国中央情報局(CIA)の後押しで右派軍人がクーデターを起したが、チャペスはこれを退け、ラテンアメリカの反米政権を主導する立場を得た。しかし親米富裕層とメデイアの攻撃にさらされ、経済低迷・治安悪化と苦闘する中、2013年にガンで没した。

副大統領だったマドウロが政権を継承して反米路線を踏襲するが、原油価格低迷とインフレ亢進で経済が完全にマヒした。2015年の総選挙で右派連合が過半数を獲得して政権と議会に捻じれが生じ、政権運営が更に困難になったマドウロは、最高裁判所の違憲審査権を再三行使して野党の攻勢を切り抜け、2019年5月の大統領選挙で再選を果たしたが、これを不正選挙として国民議会議長のグアイドが暫定大統領就任を宣言し、1国に大統領2人の無政府状態が今も続いている。

19世紀前半にベネズエラ大統領を2期務め、ラテンアメリカ5ヵ国を独立に導き、コロンビア、ボリビア、ペルーでも大統領を務めたシモン・ボリバル(1783-1830)は、この地域にはびこる地域主義と絶えない内戦に嘆息し、「ラテンアメリカには独裁か無政府状態しかないのでは…」と思いつめたという。そのボリバルが1826年のパナマ会議で「アメリカ合衆国は、自由の名においてアメリカ大陸を災難だらけにしようとしている」とも発言している。ボリバルが20世紀まで生きていたら、旧ソ連にも同様の苦言を呈していたことだろう。

冷戦時代のラテンアメリカは、大国の諜報機関が政府転覆を謀るスパイ映画さながらの現場だったという。ソ連崩壊・米国ファーストの新時代に謀略戦が続いているかは知らぬが、米国はグアイド暫定大統領、ロシアはマドウロ大統領支持を公言し、「人道支援」を名目に動めいているらしい。だが、今の両大国にベネズエラを丸抱えで救済する余力はない。大国の干渉がラテンアメリカの混迷に油を注ぎ、自立を妨げてきたことを思えば、他国のことながら「無責任なちょっかいはもうご無用に」と言いたくなる。


マゼラン海峡 → フェゴ島

(前編から続く) パタゴニアの旅も最終盤。2月24日早朝にプンタ・アレナスを出発し、マゼラン海峡が狭まったところで、フェリーでフェゴ島に渡る。フェゴ(Fuego)は「火」。先住民が焚く火を見たヨーロッパ人が地名にしたのは、先住民の巨大な足跡を見て「パタゴン(巨足族)が住む所(パタゴニア)」と呼んだという話と共通する。先進国の中には、先住民の土地を奪取して勝手に地名を付けたことを反省し、地名を先住民の呼称に戻す動きがある(例:「マッキンリー」→「デナリ」、「マウント・クック」→「アオラキ」、「エアーズロック」→「ウルル」等)。だがアルゼンチンとチリには反省する気は無さそうだ。

フェゴは大きな地図では大陸と地続きに見えるが、狭い海峡で隔てられた島で、面積は九州より少し大きい。ほぼ中央の西経68度60分に沿って直線の国境が走る。明らかに政治的に引かれた境界線で、1983年にローマ法王の調停で決着したという国境はここのことだろう。境界線を直線に引けたのは、この地域に人間の集落が無かったからだろう。今は柵で仕切られた放牧地になり、乗馬のガウチョ(カウボーイ)が見回っている。民間人の生活圏を強調して領土保全を裏打ちする意図があるのだろう。

フェリー発着所にはターミナルの建屋もない。
大陸側の灯台。
水先案内の船。
フェリーのブリッジ。
乗船時間は20分ほど。
フェゴ島に渡る。
未舗装の道路を走る
トイレ休憩。身を隠せる場所は限られる。
グアナコ
犬を従えてガウチョが行く。カッコいい!

フラミンゴの池

再び国境を越えてアルゼンチン側に入り、南下を続ける。南緯54度を過ぎると、乾燥した草原からツンドラ(寒地荒原)の様相に変わり、南米大陸の最南端まで来たことを実感する。

国境近くの建物はチリの駐屯兵舎だろう。
緩衝地帯に平和のサイン。
アルゼンチンの国境ゲート。
ファグナノ湖東端、トルイン村で休憩。
乾燥した草原から寒帯雨林へ
ファグナノ湖に沿って走る。山火事の跡が痛々しい。
峠にさしかかる。
鉄分の多い高原の湿地帯。
ウスアイアに到着。
ビーグル水道。右の対岸はチリ領の島。
ビーグル水道の夜明け(ホテルから)。

ウスアイア(Ushuaia)

南緯54度48分に位置するウスアイアは「世界最南端の都市」を名乗り、「地の果て」(Fin del Mundo)を観光キャッチフレーズにしている。ウスアイアより更に南のチリ領の島にも人は住んでいるが、ウスアイア(人口7万)が「地の果て」を名乗ることに異議を唱えていないのは、観光開発する意思が無いのかもしれない。

北半球の北緯54度には、グラスゴー、エディンバラ、コペンハーゲン、モスクワなど大都市がいくつもあり、人間が十分に文化的に暮らせる緯度と言える。将来の人口増加次第では、南半球の「地の果て」にも大都市が出来るかもしれないが、その前に人類が自滅する可能性の方が高いような気もする。

「地の果て」にポツンとヨーロッパ人の町が出来たのにはワケがある。1870年に最初に定住した白人は英国人宣教師だったが、1873年にアルゼンチン政府がこの地域の領有権を確立する目的で、重罪人の流刑地にする決定を下した。1896年に最初の囚人が送り込まれ、以来半世紀にわたって囚人が周辺の森から木材が切り出して、ウスアイアの町を作った。監獄は1947年に閉鎖されて囚人は北部の監獄に移されたので、現在の住民が重罪人の子孫というわけではない。


1995年のウスアイア

我々がウスアイアを訪れたのは2度目。最初は1995年1月1日で、南極半島クルーズを終えてウスアイアに上陸した。と言っても、沖合に停泊したロシア砕氷船からハシケで上陸して、埠頭から町外れの空港に直行しただけだった。

下船を前に、ツアーリーダーから「刺激的な行動は厳に慎むように」と注意があった。当時のアルゼンチンには、英国とのフォークランド戦争とチリとの国境紛争の余韻が残っていた。我々一行は、怨念の英領フォークランドから出港し、ウスアイアに上陸して、宿敵チリのチャーター便でサンチャゴに向かう、仇方のニオイがプンプン臭う不埒な旅行者だったのだ。我々の下船をアルゼンチンの武装警備艇が厳しく警戒し、埠頭から空港まで、囚人のように護送された。

12月31日深夜、ウスアイアの港外に投錨。
1995年1月1日の夜明け
武装警備艇が我々の下船を警戒。
当時の看板には「地の果て」のキャッチフレーズはない。
ウスアイア空港の旧ターミナル。
隠れるように駐機しているのは我々が搭乗するチリのチャーター機


2007年のウスアイア

1995年にバスの窓から見たウスアイアは、どんよりと生彩のない寒村だったが、12年後に再訪したウスアイアは、埠頭に観光船がひしめき、新築ホテルが立ち、土産店が軒をならべ、空港も移転して立派になり、「地球の果て」と呼ぶにはいささか賑やか過ぎる観光都市に生まれ変わっていた。 ウスアイアは南極クルーズの出航地でもあり、モノズキな「辺地観光愛好者」がそれだけ増えているのだろう。

「地の果てウスアイア」の看板。
ルピナス咲くレストラン。
繁華街と埠頭を結ぶストリート。繁華街の写真は撮り忘れた。
同じ場所から埠頭の方向。
埠頭から繁華街の方向。中央は新築ホテル。
日本のカメラも「地の果て」で頑張る。

「地の果て鉄道」

囚人の輸送(通勤)と木材搬出用に敷設された森林鉄道は、「地の果て鉄道」(El Tren del Fin del Mundo)として再生され、ウスアイアの重要な観光資源になっている。オモチャのような蒸気機関車が小型客車を引っ張って走る40分の旅は、鉄道ファンでなくても十分に楽しい。終点は国立公園内にあり、ビーバーが作ったダムや、警戒心の薄い野うさぎをまじかに見ることができる。アラスカから延々と17,848km続いたパン・アメリカン・ハイウェイの終点標識があるのも、いかにも「地球の果て」らしい。

「地の果て鉄道」の案内板
路線のマップ。
駅舎。
待合室ではタンゴの演奏。
オモチャのような蒸気機関車。
出発準備完了。
運転命令を伝達。
しばらく川と並走。
途中駅。機関車の前は水タンク車
放牧場の中を行く。
線路近く馬たち。
終点に到着。
汽車を降りて散策。ウサギが人を怖がらない。
ビーバーが作ったダム。
散策路の終点にビーグル水道。

「ビーグル水道」

ウスアイアでの最後のアトラクションは、ビーグル水道に点在する小島に棲息する海鳥や海獣を見るショートクルーズ。ビークル水道はチリとの国境線でもある。国際航路として開かれている水路でもあり緊張感はないが、両国に再び紛争が起きればクルーズどころではなくなる。いつまでも仲良くしてもらいたいものである。

港に停泊する南極クルーズの客船。
ミニクルーズ出港。
ウスアイアの発展が見える。
鋭いアンデス最南端の峰々。
ビーグル水道に立つ灯台。
海鳥の島に近づく。

 

 

船上から豊かな野生の命に接近。



さらば ウスアイア、さらば パタゴニア

ウスアイアを離れる朝、それまで奇跡的に続いていた晴天が暴風雨に変わり、ブエノスアイレスに戻る国内線が3時間余り遅れた。

我々のパタゴニアの旅に天候を恵んでくれたカミサマに、心からお礼を言うことにしよう。