西アンバエ住民の戦争の記憶

レイモンド・ブチにアマタ村のジェイコブ・ブエ酋長を紹介された著者は、西アンバエに出かけた。タクシー運転手のケン・セセイの案内で教会に行き、ジェイムス・ムワンゴ牧師とデイヴィッド・ヴィラ長老と共に、ブエ酋長と面会することが出来た。1994年3月23日のことである。その日はサイクロン・トーマスが接近し、荒天の中を雷鳴と稲妻が飛び交っていた。


ジェイコブ酋長の話

アメリカ人がニュー・ヘブリデスに来た時、1942年から1943年にかけて、大勢の者がサント島に働きに行った。アンバエからも、他の島からも行った。

行ってみると、軍艦や飛行機がたくさんあって、皆びっくりした。私が行ったのは1943年で、その時28歳だった。50名ほどのグループで行き、6ヶ月間、船から荷物や食糧を荷降ろしする仕事をした。6か月ごとに新しいグループがやってきた。

アメリカ人がたくさんいたし、ニュージーランド人もいた。飛行場が出来るまで、水上飛行機が海の上をとびまわり、まるで飛び魚のようだった。我々は陸上に飛行場を作るために、雑木林を切り開いた。飛行場は全部で4つ作った。日本の飛行機が飛来すると、灯火管制をした。一度だけ林に隠れたことがあったが、その時の飛行機は撃墜された。兵士たちは大きな銃砲をたくさん持っていた。黒人兵が大砲を撃った。(原著者注:黒人兵が高射砲の担当だったのは事実である。) 海軍には白人兵もいた。アメリカ兵の中に、黒人兵に対する差別があることに我々は気づいていた。黒人と白人がお互いに悪口を言い合っていることもあった。

戦争が終わった時、アメリカ人は厖大な物資を、ミリオンダラー岬の海中や、周辺の海岸に投棄した。島民が大勢で拾いに行った。我々は何度も船を出して、食糧や医療品を拾った。この教会の隣にある家は、アメリカ人が捨てた木材で建てたものだ。

この近くに、アメリカの飛行機がエンジン故障で墜落したことがあった。パイロットは脱出に成功し、我々は彼が降下するのを見ていた。オーストラリア人の白人牧師のソーンダースさんと、ヌディ・ヌディの宣教所のモタ・ジェームスが救出に行った。パイロットは、二人が敵ではないかと怖れて、撃とうとした。二人は両手を頭上に上げて、パイロットを鎮めた。今もナナコの民宿の近くに、飛行機の残骸がある。

米軍の船が、この辺の島々や、アンバエ島西端の悪魔岩の海域を哨戒していた。ある時、2~300人の兵士が小さな軍艦から島の端に上陸し、悪魔岩の周辺を歩いたことがあった。

参考:アンバエ島と周辺の地図

参考記事:
アンバエ島訪問記

アンバエで行われた国民体育大会

アンバエ島の民話

 

 

 

 

 

ミリオンダラー岬:
エロマンゴ島の記事

米軍の廃材で作った住宅

 

 

ジェームス牧師の話

戦争が始まった時、私はまだ生後6カ月だった。最初、アメリカ軍は、英国とフランスの合同政府に対し、男たちを労働力として提供してほしいと要請した。合同政府は、男たちを総動員するために船を出した。島民に適切に要請したわけではなく、集まった男たちに警官が銃をつきつけ、船に追い込み、アメリカ軍に引き渡したのだ。私の伯父もそうされた一人だった。何の説明もなく、殺されるかもしれないと思った。婦女子はとり残された。次に来たときは、村のリーダーに対して適切な要請が行われ、行きたい者だけが行くことを許された。

島民はアメリカ人と共に過ごしたことを、良い経験だったと思っている。島民は、イギリス人やフランス人よりも、アメリカ人の方が好ましいと思った。戦前、良いイギリス人の親方でも1日に1シリング、人によっては6ペンスしか払わなかった。戦時中は、1日6シリング、その後は10シリング払うようになった。このように、戦争は労働条件を向上させた。人によっては、アンバエの大多数の者もそう思ったが、アメリカ人がこの国を統治してくれることを望み、それが後の独立運動に影響を与えることになった。アメリカ人は確かに激しい労働を課したが、払うべきものは払ったし、いろいろと改善の努力をしてくれた。アメリカ人が来るまで、道路もなかったのだ。

労働者の多くは給料に品物や薬をもらったが、兵士の洗濯をしてドルを現金でもらった者もいた。

戦後しばらくの間、島民の中にはアメリカ人が戻ってくることを望んだ者もいたが、独立することになってからは、そう思う者はいなくなった。

 

英仏共同統治時代の圧政的な植民政策に比べ、米軍の人権尊重的な姿勢が先住民に強く印象に残ったものと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

危機一髪 (ニアミス)

1994年3月24日、西アンバエのナナコで、チャーリー・バニ酋長が、彼の父のルーベン・ウウェラ氏から聞いた飛行機の墜落事故について語ってくれた。ルーベン・ウウェラ氏は耳が聞こえなくなっていた。


1942年に、アメリカの飛行機が、村の住居の近くに墜落した。その時住民たちは、ジェームス・ツツとレベッカ・クラヘヘの結婚式の料理を作るために、集会所に集まっていた。パイロットは飛行機から脱出したが、パラシュートが、ヌディ・ヌディの病院の近くのヤシの木に引っ掛かってしまった。飛行機はジェームス・ヴィラ老人の家の近くに落ちた。ジェームスは大声で叫んで救助に駆け付け、パイロットをヌディ・ヌディ教会のソーンダースさんのところに連れて行った。水上飛行機が来てパイロットをサントに帰還させた。

パイロットが言うには、サントから飛来したが、マエオの上空で飛行機が故障した。海上に不時着させようとしたが、飛行機は地上に激突して飛散、炎上した。その残骸は今も私の家の近くに転がっている。死者がたくさん出てもおかしくない事故だったが、幸いなことに、死んだ者は誰もいなかった。

アメリカ人は我々に対して親切だった。日本軍が襲来した時は、サイレンのかわりに法螺貝を吹き、みんなで隠れることにしていた。

(この話が語られた時に、当時新婦だったレベッカはビラで生存していたが、新郎だったジェームスは亡くなっていた。)

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墜落機の残骸