バヌアツ通信戦争体験→タンナ島   2009/10/1

バヌアツ人の戦争体験 タンナ島

タンナ島民の戦争体験

祖父の戦争の記憶

1993年、オネスア高校10年生のジョエル・スティーフェンが以下の話を語った。


僕が6年生の時、タンナ出身の祖父からこの話を聞いた。

ある天気の良い日のこと、祖父と家族が畑から帰ってくると、道路脇の家の前にトラックが停まっていた。二人のアメリカ兵が男たちに語りかけていた。ビラでたくさんの労働力が必要になって、働き手を募集していたのだ。祖父は応募した。

男たちは衣類と寝ゴザを持って、家と家族を後にした。巨大なトラックが待っていた。車によじ登ると、トラックは煙を吐いて動き出し、家族の姿は見えなくなった。波止場に着くと、一隻の軍艦が停泊していて、乗り込むと、船はビラに向けて出港した。

ビラ湾に着くと、たくさんの軍艦とアメリカ兵がいた。兵隊は火器で武装していて、いつでも戦闘可能だった。

祖父によれば、仕事は村の道路工事と大違いで、楽ではなかったという。食事も自分たちで作らねばならなかった。また、騒音がものすごく、いつも気を張っていなければならず、作業の合図も身振りで伝えなければならなかった。

祖父の話では、タンナから行った者たちで、戦争の記念物を作ったという。それはエファテ北部の長い直線道路で、「タンナ通り」と名付けられた道路は、今もそう呼ばれている。

買い物がとても安くできて、ズボンが一着50バツーだった。

激しい労働が長い間続いたが、ようやく戦争が終わった。男たちは自分の島の村に戻り、アメリカ人も国に帰った。激務の後に家に帰って家族と再会できたのが、本当に嬉しかった。


真っ暗闇

次の話は、1993年にオネスア高校10年生のロッシー・エリが語ったもの。


アメリカ人がタンナ島に派遣されて、ビラで働く者を1千名募集した。まだ若かった私の祖父はビラに行き、空軍の管制を手伝った。米軍が駐留している間、ずっとその仕事をしたという。

ある夜のこと、トイレに行くために外に出ようとした。そんな時は、マッチを擦って歩哨に知らせることになっていたのだが、それを忘れてしまい、発砲されそうになった。歩哨が彼であることを認め、寸前で助かった。

参考:タンナ島の地図

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バツー:バヌアツの現地通貨。現在の交換価値では1バツー=約1円


タンナ島の男たちの話

1994年4月14日、ヤーケル村のジョンソン・コウヤ酋長が、以下の話を著者にしてくれた。英語とフランス語に通訳してくれたのは、ロバート・コアパ氏で、タクシー運転手のジェームス・サミュエルも助けてくれた。ジョンソン酋長は97歳とのことだった。


私は、タンナ島からビラに行って、アメリカ人の為に働いた男たちのグループの一人だった。それまで、ビラには一度だけ行ったことがあった。我々がビラに着いた時、ビラには既に他のタンナ島民のグループが来ていた。伝統的な毒薬を使って殺人を犯したために、コンドミニアム政府によって投獄されていた連中だった。我々が到着すると、彼等は監獄から出され、我々と一緒に働くことになった。我々の仕事は、道路を作る為に岩を砕くことだった。1週間に7日働き、他のことをする暇はなかった。我々はテバコールの森の中で暮らした。何か危険があった場合、森に逃げ込めばよかったからだ。

軍艦や潜水艦や飛行機がたくさんあった。我々が日本軍と戦うのを助けに来てくれたのだから、嬉しかった。仲間の一人が英語を話せたので、時々の状況はわかっていた。飛行機が墜落するのを見たことはなかったが、被弾した米軍の飛行機が帰還するのは何度も見た。2機の飛行機が、破損した飛行機の翼端を両側から支えてバウワーフィールド飛行場に戻り、地上近くで離脱して、故障機を着陸させようとするのを、何回も目撃した。負傷兵がベルビューの野戦病院に送られるのも見た。ベルビューには日本軍の捕虜もいた。

我々はアメリカ人のために3カ月働いた。イギリス人とフランス人は、米軍が我々に払った給料が気にくわなかった。月に600バツーもくれたのだ。最初の月は、イギリスの通貨でもらったが、2ヶ月目はアメリカの通貨だった。3か月目の分の支払いを今も待っているのだが、「トム・ネーヴィー」は、アメリカ軍がいつか戻って来て払ってくれるだろう、と言った。

アメリカ人は、我々に衣料や食糧をくれた。我々の通常の食品、つまり、果物や牛肉、豚肉、鶏肉を食ったのだが、違う点は、それらが缶詰になっていたことだ。今では我々は缶詰の果物を食うようになり、果物を木から食うのは鳥だけになってしまった。我々はアメリカの黒人も白人も好きだったが、彼等の人種が違っていることもわかっていた。アメリカ人とタンナ島民の間には偉大な友情が存在していた。

女や子供たちは、老人の面倒をみる為にタンナに留まっていた。彼等は、我々は働きに行くのであって、戦争に行くのではないと分かっていたし、そうせねばならないことも理解していた。アメリカの陸軍はタンナ島に来なかったが、飛行機は時々飛来した。戦争が終わり、アメリカ人は帰った。我々は大きな船で故郷に戻り、伝統的なしきたりに則って、盛大な祝賀会を催した。

コウヤ酋長の肖像

小生が会ったヤーケル村の長老の写真
(コウヤ酋長と同一人物と推定)
  

 

 

日本軍のバヌアツ侵攻を米軍が防いでくれた、との認識が窺える。

 

 

「トム・ネイヴィー」:
説明が無く意味不明だが、タンナ島で盛んなフラム教の信者と推定
(参照:タンナ島について


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