バヌアツ通信戦争体験→はじめに

はじめに (和訳掲載日:2009年1月10日  改訂:2010年4月10日)

まえがき

第二次大戦当時、バヌアツはニュー・へブリデスと呼ばれていた。この本は、バヌアツ人があの戦争でどんな経験をしたか、彼等自身が語った内容をまとめたものである。いわゆる戦史ではないが、貴重な歴史の記録と言えるだろう。

バヌアツ人以外にも、ニュー・へブリデスの戦争を語った人がいた。ミュージカル化、映画化されたベストセラー「南太平洋」の著者、ジェームス・ミッチナーもその一人だが、彼はこう書いている。

「戦争の初期、サントに最も大きな基地があった。基地のはずれにフランス人の住居があり、その先の森の中に、この世で最も原始的で野蛮な人たちが住んでいた。」

その五年後、この地に戻ったミッチナーは、こうも書いた。

「黒人たちに大きな変化があった。ジャングルの一番奥まで、米軍駐留の影響が見られた。石器時代の家族にも、ドラム缶の水タンク、軍用毛布、軍用トラックまであった。」

私たちが1993年から94年にかけてバヌアツに住み、ミッチナーが「野蛮人」と呼んだ人たちと会えたことは、本当に私たちの特権だったと言える。私たちが出会ったのは「野蛮人」ではなく、友好的で、深い心配りをする、知的な人たちだった。彼等は戦争当時のことを生々しく記憶していて、機会あるたびに、親切且つ積極的に、私たちに語ってくれた。古い記憶を呼び覚まして語ったものゆえ、矛盾する箇所がなかったわけではない。だが、殆どの場合、彼等の語ったことは非常に正確だった。

この戦争で、たくさんの人たちがバヌアツを通過し、大量の新技術が持ち込まれ、それらはバヌアツにさまざまな変化をもたらし、国の発展に著しい影響を与えた。この本に収められた話には、そのことが如実に語られている。


本をつくった経緯

ポートビラからエファテ島北部のオネスア高校に行くタクシーの運転手と話して、あの戦争が終わった時、彼と私は共に12歳だったとわかった。ソロモン諸島を占領した日本軍は、ニュージーランドのオークランドを爆撃し、その少し後にはオーストラリアのダーウィンも爆撃した。それを阻止すべく米軍が進駐してきた時のことを、二人ともはっきりと覚えていた。

運転手の話を聞いていると、車から見えるエファテ北部の原野に、米軍の兵舎、軍用機が飛び交う飛行場、岬に据えられた大砲や、丘の上の探照灯などが思い浮かび、湾内に軍艦がひしめきあう様子も、目に見えるようだった。

口伝は記憶を伝承する手段の一つではあるが、バヌアツ人の記憶は古くなり、消滅する恐れもある。

そこで始めたのが、オネスア高校の生徒が、祖父母の記憶を採取するプロジェクトだった。生徒たちには、質問して話を聞き出し、それを記録して編集する課題が与えられたが、彼等はその能力を養わなければならなかった。近くの集落の老人たちが教室に招かれて話をしたが、それは大変うまくいった。生徒たちは、自分たちが生まれる前にこの国で起きたことを、聞き出せたのである。

このプロジェクトは、生徒たちの試験やその他の理由で継続できなかったが、私と私の夫は関心を絶やすことなく、老人たちの話を収録し続けた。

この国の若い世代にとって、第二次大戦の記憶を記録するプロジェクトは、この国の社会史を知る学習の一環として直接的に役立っただけでなく、老人たちの戦時下の苦労を理解し、感謝することにもなった。また教師たちにとっても、口伝された歴史を採取する方法や、生徒たちの言語能力の向上、国と地方への関心を高めるプロジェクト開発などの手法について、アイデアを得る効果があった。

1998年10月 ニュージーランド ダイアモンドハーバーにて
マーガレット・ムーン

 

ミッチナー原作
「南太平洋」

南太平洋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北エファテへの道路
北エファテ

 


戦争の概要

太平洋地区における戦争は、20世紀初めにドイツ海軍がこの地域に出没したことを除けば、1941年12月7日の日曜日に、日本軍がハワイ島真珠湾の米海軍基地を爆撃したことによって始まった。その直後から、日本軍は有効な反撃を受けないまま、東南アジアと太平洋地区にすばやく進出し、ソロモン諸島を占領した。イギリス軍はインドで、オーストラリア軍はパプアのココダ街道で、日本軍の進出をようやく食いとめた。

米軍にとって、日本軍の進出を阻止し、究極的には、侵略された地域から日本軍を押し戻すための、前線基地が必要だった。地理的条件から、ニュー・へブリデス諸島が選ばれた。米軍の進駐に先だって、英国とオーストラリア軍は、ニュー・へブリデス防衛軍を編成し、この国を守る努力を始めていた。米軍は、進出作戦を進めるにあたり、英国当局に対し、地元民を労働力として雇用して、支援にあたらせるように要請した。これに対して英国当局は、地元の若者を徴用するという、やや高飛車な手段を講じた。

米軍が1942年3月に到着した時、既に日本軍がこの国を占領しているかもしれないと考え、何らかの武力的抵抗を想定し、侵攻作戦のかたちで、現在はゴルフコースになっているエファテ島のメレに上陸した。地元民は、上陸してきた軍隊がアメリカ軍なのか日本軍なのか、分からなかった。

幸い混乱はすぐにおさまり、両者の間に良好な協力関係が築かれた。米軍は、兵営や飛行場を建設するための広くて平らな土地や、艦船を停泊させるための遮蔽された深い水域を必要としていた。バウアーフィールド飛行場、エファテ北部の平地、それにハヴァナ湾は、軍の行動拠点として最適だった。サント島には、南部の水深の深いセゴンド水道や、南東部のアオレ平原など、更に条件の優れた場所があり、小さな集落にすぎなかったルーガンビルは、一夜にして都市の規模に拡大した。

サント島に5つの飛行場が建設され、タートル湾とパリクロ岬に海軍基地が築かれた。運河のようなセゴンド水道には、百隻もの艦船が投錨した。4万7千人の兵士がサント島に駐留し、スルンダに駐留したニュージーランドやオーストラリア空軍兵などを合わせると、サント島を通過した兵士は50万人を超えた。

1942年8月7日、米軍がソロモン諸島のガダルカナルへの侵攻を開始したことにより、戦況の流れが変わった。その時から、負傷兵や日本軍捕虜がニューへブリデスに後送されるようになった。日本軍が撤退すると、戦争も去った。1945年8月に日本が降伏すると、米軍で不要となった大量の装備品が残った。特にサントでそれが著しかった。残骸を処分する大騒動は、ミリオンダラー岬での大量廃棄で頂点に達し、それを目撃した地元民はまったく驚嘆した。

米軍の進駐から3年少々で、この国は再び眠たいような英仏共同統治の時代に戻った。だが、何もかもが昔と同じだったわけではない。この驚嘆すべき経験は、バヌアツ人にとって忘れることが出来ないものであった。

 

 

 

 

 

 

 

メレ上陸記録
メレ上陸

メレの上陸地点
メレ上陸地点

 

 

ガダルカナル戦略史


「戦争の日々」
オネスア高校10年生 フレディ ウォルウォルのレポート  (1993年 記)

1942年、米軍が現在はゴルフ場になっているメレの海岸を急襲した時、彼等は日本軍が既にそこにいるものと思っていた。彼等は直ちにパンゴとデヴィル岬に砲兵隊を送り込み、道路を封鎖した。ブルドーザーで滑走路を急造して日本軍の攻撃に備えたが、その事態は起らなかった。

1942年10月26日、5440名の兵員を乗せた豪華客船プレジデント・クーリッジ号(全長210m、2万2千トン)は、サント島のセゴンド水道で自軍の機雷に触れたが、死者は1名だけだった。ソロモン諸島での負傷兵士は空輸され、エファテ島のモンマルトルに行く道路沿いのベルビュー農場に建てられた米軍病院に収容された。

エファテ島では、1944年12月までに司令部がポートビラから撤収し、エファテ島最後の分遣隊も基地を離れた。

クーリッジ号
クーリッジ号

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