毎度の言い訳で恐縮だが、今回も2008年1月に掲載した「タンザニア・ケニア サファリ」の焼き直しである。正直に言えば2度目の焼き直しで、初版は旅行直後の2004年2月。粗雑な画面に写真10コマだけで、2008年版で写真を増やしたが内容は「汗顔の至り」のままだった。当サイトは後期高齢筆者のボケ防止に、毎月新記事アップを心がけているが、ネタ切れの際は、放置してあった旧記事を全面改版・再掲載で穴埋めさせていただいている次第。

五大陸踏破でアフリカが残っていたが、2004年1月に「会社員卒業旅行」のタイミングで実現した。行き先が「アフリカ」となると「冒険旅行」の気配が漂って多少身構える。行く人も少なく、我々が行った頃は疫病や安全上の制約は無かったが、ツアー参加者は2組4名だった。だが旅は「案ずるより行くが易し」で、欧米人に人気の「観光サファリ」用の高級ロッジ(食事つき)に泊まり、サービスも洗練されているので、旅の快適度や体力的負担は先進国の都市観光ツアーとさして変わらない。

話は変わるが、アフリカに関連するのでお許しいただきたい。昨今TVのニュースで "Black lives matter" のプラカードをよく見る。米国で黒人が警察官に殺害された事件に対する抗議デモのキャッチフレースだが、「黒人の命大切だ」と訳すか「黒人の命大切だ」と訳すかで、意見が割れているらしい。だが、そもそも matter は "It doesn't matter." (どうでもいいよ)のように否定文脈で使われることが多く、「大切だ」と「前向き」に訳したのでは、気分が伝わらないのではないか。are valuable でも indispensible でもなく、"lives matter" には「黒人の命、どうでもよくないよ」のような、屈折した思いが表れているような気がする(英文学者でもない小生が論じてもしょうがないが)。

米国では「黒人の命なんて、どうでもいい」時代が長く続いた。公民権法成立から半世紀が過ぎた今も「どうでもいい」の延長上にあることは、黒人のコロナ死亡率の高さに歴然と現れている。黒人にも傑出した人物は少なくないが、圧倒的多数の黒人はろくな教育も受けず、社会の底辺に貼り付いているのが現実なのだ。小生が米国で管理職を務めたのは30年以上前だが、職場に黒人は居なかった。政府からマイノリティ雇用の圧力を受けた時期だったが、エンジニアと営業職の職場は求人をかけても黒人の応募者は一人も来なかった。組立作業の現場監督の募集でも同じだった。秘書(高卒レベル)も、英語の誤りを修正してタイプを見栄えよく打てる黒人は来なかった。来なかったのはこっちが一般に知られていない日系企業だったせいかもしれないが、米国に黒人の管理職や専門職が稀有だったことは間違いない。

差別の根源が黒人奴隷の歴史にあることは言うまでもない。米国が植民地として出発した16世紀から南北戦争までの3百年間に、アフリカ大陸から新大陸に連れて来られた黒人奴隷は1千万人を超えたと言われる。「奴隷」は所有物として扱われ、労働を強制され、譲渡・売買の対象だった。古代ローマや中世には白人の奴隷もいた。奴隷の英語 ”Slave” の語源は「スラブ人」で、戦いに負けて捕らえられた兵士が奴隷にされたことに発する。「ドン・キホーテ」の著者セルバンテスも奴隷にされ、身代金を払ってくれる人の出現を待ちわびたと書いている。

アフリカ起源の黒人奴隷は、TVドラマ「ルーツ」の主人公クンタ・キンテの祖先のように、白人の奴隷商やその手下に拉致された者の他に、部族抗争の捕虜が売り飛ばされたり、「出稼ぎ詐欺」に騙された者も多かったようだ。19世紀に南太平洋の島々で行われた ”Black-birding” (黒人狩り)は出稼ぎ詐欺の典型で、「短期の簡単な仕事で給料もいい」といった口車に乗せる手口だが、バヌアツでは酋長を巻き込んで「村のために稼いでこい」と言わせ、オーストラリア、フィジー、ニューカレドニア、タヒチなどに送り込んだらしい。米国の奴隷解放(1863年)を機に強制労働が廃止され、南太平洋でも涙金を与えて解放した。バヌアツ人は村に帰って自給自足の生活に戻れたが、米国の黒人は解放されても帰るところがなく、奴隷時代と変わらない暮らしを(自己責任で)続けるしかなかった。その状況は今もあまり変わらず、スラムに暮らして3Kの仕事で命をつなぐ黒人が大半なのだ。

国を跨ぐ「出稼ぎ詐欺」は、かたちの上では「奴隷狩り」と言えないが、やらせたことは奴隷と同じ「有無を言わせない強制労働」で、規模や「悪質度」に違いはあるが、いつの時代も起きている。雇い主は「合意に基づいた雇用関係」と言い張り、問い詰められれば「仲介者がどんな話をしたか、オレは知らない」と言い逃れ、仲介者は雲隠れする。「徴用工」や「慰安婦」もその類だったと指摘され、昨今の「実習生」の一部にもその気配が漂っている。「強者が弱者を搾取するのは世の常だ」と言う人もいるが、詐欺まがいの強制労働が正当化されてよい筈がない。強欲な強者が身を亡ぼすのもまた世の常で、いつかは罰を受け、銅像になっても引き倒されることになる。


第1日目 成田 → 関空 → ドバイ → ナイロビ

深夜に関空を発ち、アラビア半島のドバイ経由でナイロビに向かう。実飛行時間は11時間+5時間。日本国内の移動と乗り継ぎ時間を入れて、千葉の自宅を出てちょうど24時間でナイロビに着いた。アフリカは思っていたより近かった。

ナイロビは聞きしに勝る近代都市で、街を歩く人たちも欧米の会社員風のフォーマルな服装が多い。だが人口流入で治安が悪化している由で、ホテルからの外出は厳しく禁じられた。小生はカメラ片手に食品市場見学を旅の定番にしているが、今回は諦めるしかない。一般の人にカメラを向けることも宗教的理由から控えるべきといわれ、おカネを払って撮らせてもらう場合を除き、人物写真は撮らないことにした。

着陸前、ナイロビ中心部は近代都市。
デンマーク女流作家カレン・ブリクセンの邸宅博物館に立ち寄る。
現地ガイドはスーツにネクタイ。
市内の動物園で時間調整。
ホテル近くの市街。
ホテル入口に「南緯1.15度、標高5240Ft(1823m)」の看板。


第2日目 ナイロビ → タンザニア タランギレ国立公園

ナイロビから南へ車で2時間、タンザニア国境に着く。入国手続きを済ませると、タンザニア側の運転手兼ガイドが出迎えてくれた。ネクタイ姿のケニアのガイドと違ってTシャツに短パンだが、確かな日本語を話す。日本に行ったことがなく仕事で覚えたというが、驚くべき能力である。彼には更にスゴイ能力があることを知ることになる。(余談になるが、現地ガイドが日本語学校で習ったという日本語は分かり難いことが多く、丁寧語でますます意味不明になる。タンザニアのガイドの日本語は少々ぶっきらぼうだが、言いたいことが誤りなく明解に伝わった。これが言語の基本で、日本語教師は丁寧語の訓練など後回しにするべきだろう。)

国境から2時間走り、キリマンジャロの登山拠点のアリューシャで昼食。赤道直下でも気温は20℃度程で、標高1500mの高原の乾燥した空気は快適。この気象が「キリマンジャロ・コーヒー」の味を作っている。

午後4時にタランギレ国立公園に到着、トヨタ・ランドクルーザーの天井を開けてサファリ(本来は「猛獣狩り」だが、ここでは「野生動物観察」)を開始する。他のサファリパークは平坦な草原(ステップ)だが、タランギレは起伏に富んだ丘陵地で、巨木「バオバブ」などの豊かな樹林もあり、ここに棲む動物たちには、厳しい生存競争を超えたのどかさが感じられる。

園内を走り始めて間もなくインパラ(鹿)の群に出会う。続いてライオンと象の群が車の前を横切り、次々と目の前に現れる野生動物に興奮する。ガイドは運転しながら目を配り、「あの樹の上にライオンがいるよ」と言うが、目を凝らしても見えない。双眼鏡を貸してくれるが、それでも見えない。「近くまで行くから」と2㎞ほど走り、「ほら、あそこ」と言われ、やっと目の前の樹の枝に隠れて休むライオンが見えた。「視力は?」と尋ねると「5.0だったよ」と平然と答える。我々とは目の構造が違うとしか思えない。

タランギレのロッジは上級ホテルに相当する施設で、100人程の宿泊者は我々を除いて白人ばかり。サファリは「ヨーロッパ人が植民地で気ままに遊んだ」時代の延長上にあるらしい。ロッジの周囲は野生動物の世界で、ガードマンが銃を持って見張っている。周辺の散歩など無論できない。

国道を横切る牛の群れ。
にわか雨に遭遇。
国境に土産物屋が並ぶ。
タンザニアに入ると、道路の質が少し落ちる(これは後述のODA道路ではない)。
タランギレ国立公園のゲート。
園内のサファリルート。
バオバブの樹。マダガスカルの徳利型の樹と少し違うようだ。
象が幹の水を飲むために牙で穴をあける。
最初に出会ったインパラ。
ウォーターバックのオスが警戒する。
水辺のインパラ。
シマウマも見参。
バオバブとアリ塚(写真展に出展した作品)。
象とアリ塚。
象の群れはメスのリーダーとその姉妹と子供で構成される。オスの子供は成長すると群れを追い出され、単独の流れ者で一生を過ごす。
道路に出てきた子供ライオン。
ダチョウのファミリー。
水牛の群れ。
イボイノシシが猪突猛進。
100mまで近づいてやっと見えたライオン(見えますか?)。


第3日目 ンゴロンゴロ自然保全区 マサイ集落訪問

タランギレで朝のサファリをした後、ンゴロンゴロ自然保護区に向かう。約4時間の行程は未舗装の悪路だが、唐突に高速道路級の立派な舗装道路になり、数Kmでまた悪路に戻る。工事中の道路脇に日本の大手ゼネコンの事務所があって、JICAのODA事業と知る。 我々の税金が遠い海外で日本企業に落ちる現場を初めて目た。この旅の9か月後に自分自身がJICAのおカネ(税金)でバヌアツに行くとは予想しておらず、ODAが供与国(先進国)の間で「見栄えの良い案件」を競う一面を持つことも知らなかった。立派な道路は年毎のODA予算で数Kmずつ延伸されるのだろうが、アフリカには学校や水利など、もっと緊急を要する案件があることは間違いない。

ンゴロンゴロ(英語表記:Ngorongoro )はマサイ語で「大きな穴」を意味する。その名のとおり東西16km、南北19kmの巨大なクレーター(火口原)で、標高1800mの底から標高差600mの火口壁が立ち上がり、閉じ込められた野生動物はカルデラの外に出ることがなく、「柵のない動物園」の様相を呈している。カルデラの周辺で4万人のマサイ族が牧畜を営んで暮らしているため国立公園に指定せず、自然保全区(Conservation Area)として管理されている。

先ず「マサイ村」を見学。彼等が生活している集落を見せてくれるのだが、寄付の金額によって見せる箇所やパフォーマンスを調整しているらしい。我々は最高レベルだったようで、他のグループが帰った後で、我々にだけ村人全員で歌と踊りを披露してくれた。寄付されたおカネは、若いリーダーを町の学校に行かせる費用や医療費に使われる由で、この点はバヌアツの原始集落も同じ。独特の生活様式を頑なに守ってきたマサイ族だが、高等教育を受けるリーダーが増え、貨幣経済が容赦なく浸透すれば、彼等の暮らしや考え方も急速に変らざるをえない。観光収入が欠かせない間はマサイ村も「見世物」として維持されるだろうが、 伝統文化の継承として価値を保てるかどうかは、彼等の価値観と決意次第だろう。

ゲートからクレーターを一望。
赤いマントのマサイが隣の集落(画面中央右)に向かう。
村人総出で観光客を迎える。
女性も正装で。
男性が2度飛び跳ねる勇者のパフォーマンス。
美容師が仕事中。
伝統建築の保育園。壁は牛糞と泥で作る。
子供たちが熱心に勉強中のところをお邪魔した。
帰村中のリーダーの息子が家を案内。真っ暗だが彼等は見えるらしい(フラッシュ使用)
若いお母さん。
子供がお見送り。
クレーターを午後の驟雨が襲う。


第4日目 ンゴロンゴロ自然保護区 サファリ

ロッジで朝食を済ませ、サファリ・カー(四駆ジープの天井を持ち上げ、椅子の上に立って車外を眺める)でクレーターの壁を下る。クレーターの面積は約250平方kmで山手線内のざっと4倍。東アフリカに棲む野生動物の殆ど全ての種が棲み、その数2万5千頭と言われる(ネズミ等の小動物はカウント外)。キリンが居ないのは、クレーターの中に背の高い樹木が少なく、キリンが食事できないからだろう。

クレーターの閉ざされた環境の中で、草が生え、それを草食動物が食い、それを肉食動物が食い、その排泄物が草を育てる。生き物たちは微妙なバランスを保ちながら共存し、夫々の命を繋いできた。人間はその埒外だったが、近代になって享楽とおカネのために銃で動物を狩り、いくつもの種を絶滅に追い込んだ。自然保護で管理が厳しくなった今も密漁が絶えず、パークレンジャーが持つ銃は、猛獣のアタックからの護身より、密猟者との銃撃戦用と言われる。地球上に最後に現れた人類の物欲と金欲が地球を破壊しているという現実が、ここにもある。人類がその責任を取らされるのは、それほど先のことではなさそうだ。

クレータの底に下りると動物の群れがあちこちに見える。
草食動物のヌー(牛)とガゼル(鹿)。
ヌーの群れが朝の食事中。
イボイノシシの一家も。
おい、起きな。
シマウマの母子。
獲物のヌーで食事中のライオン。すぐ近くでジャッカルがスキを狙う。
空からチャンスをうかがう者もいる。
ジャマだ!
ハゲタカやハイエナも集まって来た。
脚の下にネズミを抑え込んでいる。
カンムリツルのペアは平和なたたずまい。
カバは思いのほか獰猛らしい。
皮膚の弱いカバは昼間は水中で過ごす。
ペリカン。
フラミンゴはこの季節は他所で過ごすと言われるが、それでも数千羽いた。

ガイドはこの日も超視力・超能力を遺憾なく発揮した。朝9時にクレーターに下りてすぐ「あそこにチーターの母子がいる」と言う。カメラの超望遠レンズ(肉眼の約15倍に拡大)で探しても発見できなかった。「昼頃に会えるよ」と言うが、チーターは滅多に姿を見せないと聞いていたので、あてにしていなかった。

クレーターの中をあちこち走り回って昼になり、道路脇に車を停めてランチボックスを開いていると、「ほら、来たよ」という。指さした草原にそれらしい点があり、望遠レンズを覗くと確かにチーターの母子がいた。「待っていればここに来る」と言ったとおり、45分後に車のすぐ前を横切り、悠然と去って行った。チーター母子が毎日同じルートを「通勤」しているとは思えない。4時間前にチーターの行動を予測した彼は、やっぱり超能力の保有者だろう。

チーター親子はヌーに関心がなさそう。手前の穴からハイエナが様子を窺う。
母親と3頭の子供が近づいてきた。
母親はかっこいい。
子供を気遣う。
子供が道路で水を飲む。
悠然と退場。

背の高い樹は珍しく、キリンは食べ物を得られない。
鳥類はクレーターの外でも生活できそうだが、湿地があったり、動物が草を食べて虫を見つけやすくなったりして、鳥たちにとっても住み心地は悪くないのだろう。
おとなの象は襲われる心配がない。

人類発祥の地 オルドバイ渓谷

クレーターから西へ2時間、アフリカ大陸を東西に裂きつつある大地溝帯にオルドバイ峡谷がある。1959年にここで「アウストラロビテクス・ボイセイ」(最近は「パラントロプス」に分類されるらしい)の骨と旧石器が発見され、年代は約180万年前と測定された。「類人猿」→「人類」の境目を2足歩行とすれば、人類の歴史は5百万年前の霊長類にまで遡るが、「道具を作る」を人類の特性とすれば、180万年前のオルドバイが人類発祥の地ということになる。

46億年の地球の歴史から見れば、180万年前の人類祖先の発生はごく最近の出来事だが、五大文明からの歴史はたかだか5千年にすぎない。それまでの175万5千年にわたり、人類は石器製作からゆるやかに文明の基礎を積み上げてきた。そう考えると、ここ100年の人類の進み方はあまりにも性急で、終末に向けてのラストダッシュのように思えてくる。

ケニア・タンザニア‐2に続く

クレーターの外は茫漠たる草原。
クレータには居ないキリン。ここには背の高い樹木がある。
大地溝帯。この谷間で最初の人類の化石と石器が発見された。
小さな博物館。
割礼を終えた少年たちの合宿に出会う。お小遣いをあげて写真を撮らせてもらった。