小生は赤道直下のバヌアツ共和国で2年間暮らしたが、真夏でも32℃を超えることは滅多になかった。今年の日本列島の夏は「亜熱帯」どころか、赤道直下の「熱帯」も通り越した感がある。

地球環境の変化は極地で顕著に現れるという。過去1世紀に地球の平均気温は約1.0℃上昇したが、それだけで北極海の氷が急速に減少し、一種の極地であるヒマラヤやヨーロッパアルプスの氷河の後退も激しい。南極は厚さ4千メートルの氷床に覆われ、北極ほど顕著な変化は目に見えないが、それでも棚氷の崩壊流出が進行し、温暖化の影響を免れていない。地球の気温は今世紀末迄に更に2~4℃上昇するという。その頃の地球がどうなるのか、とっくに地球上から姿を消す筈の小生でも、他人事とは思えない。

南極ではオゾンホールの観測が行われている。成層圏のオゾン層が破壊されると、地表面に届く紫外線の量が増えて皮膚ガンを誘発し、紫外線が10%増えると皮膚ガン患者が女性で16%、男性では19%増加するという。紫外線量の増加によるDNAの損傷も懸念され、オゾン層破壊が生態系全体への脅威になると考えられている。

南極でオゾンホールが顕著に現れるのは、極地上空に発生する極成層圏雲と呼ばれる氷の雲がオゾンを吸収し、オゾン濃度が低いとオゾン層に穴(ホール)があいた状態になる為で、これがオゾン量低下のアラームとして機能する(北極は気温が高いため極成層圏雲が出にくく、ホールの発生の頻度は少ない)。最初にオゾンホールの観測データを報告したのは日本の昭和基地で、1983年のことだった。オゾン層破壊防止のアクションは多国間交渉としては異例の早さで進んだ。1985年にウィーン条約で国際的な対策の枠組みが定められ、1987年のモントオール議定書で指定物質の規制を採択。現在190ヵ国が締約し、オゾン層破壊物質のフロンと代替フロンの使用を2030年までに全廃することが合意されている(日本は1996年に全廃済み)。

フロンの使用禁止は、フロン放出→オゾン層破壊→皮膚ガン増加の因果関係が明解で、健康への直接的脅威という点で説得力があった。フロンの代替物質が提供されたことも、抵抗勢力を生まなかった要因だろう。それに比べると、地球温暖化抑制に向けてのCO2排出規制は、地球の生理現象による気温上昇と人為的要因の切り分けが難しく、主たる排出源の化石燃料に代わるエネルギーの実用化の目途が立っていないため、温暖化抑制が経済成長の阻害要因として働き、国際世論を集約させる「落としどころ」が見えない。1997年の京都議定書で主役を担った日本でさえ、原発事故でCO2削減プログラムを事実上放棄したかたちになっている。

気温上昇の影響はただ「アツイ!」だけではない。生態系の変化や海面上昇もさることながら、水と食糧の偏在が究極的に人類を最終戦争に追い込むのではないかという危機感をぬぐえない。戦争になったら超老人国に勝ち目はなく、狭い国土に逃げ隠れできる場所もない。温暖化で最も困る国の一つが日本であることは間違いなさそうだ。「先進超大国」を自認する者の責任として、「地球を救う」大局からアクションを起こすタイムリミットが迫っているような気がする。


ラミエ海峡

(前号から続く) 12月26日午後、クーバーヴィル島からラミエ海峡に向う。1873年にドイツ探検隊に発見された海峡は、南極半島とブース島に挟まれた延長10㎞の狭い水路で、南極屈指の景勝ポイントと言われる。あまりの絶景に写真を撮りまくるので、「さぞコダックは儲かるだろう」と「コダック海峡」の異名が付いたというが、当のコダックが写真用フィルムから撤退し、このアメリカンジョークはもはや通じない。ちなみに小生が使用したのはフジの35㎜スライドフィルム。同社は今も生産を続けているものの、ガラパゴス状態の「銀塩フィルム」は絶滅が危惧されている。

ラミエ海峡の入り口。中央左の狭い水路を行く。
厚い氷盤ものともせず。本格砕氷船の醍醐味。
氷河地形が左右に迫る。
氷山を避けながら進む。
ヒマラヤの高峰が水没したような景観。
流氷を割って進んだ航跡。
流氷上で憩うペンギン。
流氷にペンギンの足跡が残る。
流氷に憩うカニクイアザラシ。
海峡を過ぎて更に南下、氷の密度が増す。
午後9時を過ぎ、夏の太陽が水平線に近くなった。
密氷群に行く手を阻まれ、航路を西にとって迂回することに。
鯨には滅多に出会わない。
波に削られた様々なかたちの氷山に出会う。
白夜の観光フライト。


南極圏を通過、ツアー最南端のデテール島

12月27日朝8時10分、砕氷船は汽笛を鳴らして南極圏(南緯66度33分)を通過。急いでブリッジに上がってGPS表示器を見て通過を確認した。米軍が運用するGPSシステムをロシアの船舶が遠慮なく使えるのも東西緊張が解けたおかげで、誠に喜ばしい。これからも世界の統領を自認する国は、地球と全生物のために大きな度量で貢献してほしいものだ。

デテール島には英国が1950年代に作った基地があったが、撤退して今は無線塔の残骸があるだけ。安全な上陸地点を探すのに時間がかかり、少々危なかしい雪の斜面を200mほど登ってアデリーペンギンの営巣地を見学。南極圏内だけあって春が遅く、ペンギンの子育てにも緊張感が漂っている。厳しい自然の中で健気に生命をつなぐ動物たちに改めて敬意を表したくなる。我々のクルーズは南緯66度51分のデテール島が最南端で、ここで砕氷船は舳を北に返した。

静まりかえった海を更に南下。
GPSで南極圏(S66°33)通過を確認。
偵察隊がデテール島に向かう。遺棄された英国基地のアンテナが見える。
デテール島に上陸。偵察隊が立てた旗に沿って雪原を登る。
岩盤の上にアデリーペンギンの営巣地。
緯度が高くて寒い分だけ繁殖期がやや遅く、ヒナが孵ったばかりの巣が多い。
雪の斜面を忙しく往復するペンギン。
こうして並ぶとペンギンと海鵜はよく似ている。
白夜の南極圏。


ファラデー基地
12月28日朝、スクア島の英国ファラデー観測基地を訪問。隊員10人程の小さな施設だったが、最新の英国の南極観測拠点リストに見当たらないので、その後閉鎖されたのかもしれない。ちなみに英国の南極観測の年間予算規模は約75億円。一方日本の文科省の南極観測関連予算は16億円。砕氷船の運行費用は防衛予算から出るので(「しらせ」は海上自衛隊横須賀基地所属の砕氷艦)単純比較はできないが、「ヘリの整備費がないので昭和基地を一時閉鎖しようか」というような議論が出るのは、いかに財政難とは言えいかがなものか。無用の長物となるダムに行きがかりで1千億円かけるカネがあるのなら、国際比較されやすい南極観測にもう少し税金を回して良いような気がする。
朝起きたら甲板にうっすらと雪が積もっていた。
ネコのように見える通気口のフタ。
ヘリが観測基地へピストン輸送。
基地は隊員10名ほどの小規模なもの。
基地周辺の移動手段にはスキーが最も便利とのこと。
観測隊員が説明員を務める。
英国基地らしい肖像写真。
男だけの越冬隊のマスコット?
屋根裏の倉庫にオゾン層観測装置がある。
研究室の様子。
キッチン。

アルミナンテ・ブラウン基地・極楽湾
28日午後、アルゼンチンのアルミナンテ・ブラウン基地を訪れる。基地は輸送の便宜から大陸周辺の島に作られることが多いが(昭和基地もオングル島)、この小屋2棟だけのミニ基地は南極大陸の上にある(右マップA点)。アルゼンチンはこの他にも南極に12の基地を持ち、300人が生活している。前号でふれたように、アルゼンチンは南極に領有権を主張しており、学術研究はともかくとして、大陸上に基地を維持して国民を住まわせることに意義ありと考えているではないか。

1984年冬、この基地で火災が発生した。幸い越冬隊員は近くにいた米国調査船に救助されたが、隊員の一人が米国船が近くにいることを知って放火し、脱出を図ったのが真相らしい。現場に行ってみると、オンボロ宇宙船で宇宙空間に放り出されたも同然で、ミニ基地で孤独な冬を過ごす隊員が緊急脱出のボタンを押したくなった気分が、分からないでもない。

絶壁の下の岩棚に作られたアルゼンチンのアルミナンテ・ブラウン基地。
基地の裏山で尻ソリで遊ぶ。我々もこれで「南極大陸」に足跡を残したことになった。太陽が顔を出さない冬にはこんな遊びも出来ず、越冬隊員に求められるのは孤独に耐える精神力のみだろう。
基地近くのパラダイス・ベイ。「極楽湾」とは皮肉な名前をつけたもので、迫りくる氷河の下をゾデイアックで進むと命が縮まる。


デセプション島・リビングストン島

12月29日朝、デセプション島に到着。南緯62度56分まで北上すると、風景が南極圏の氷雪から亜寒帯に変わる。火山島のデセプション島訪問は、噴火湾の奥に湧く露天風呂がお目当て。温泉キチガイは日本人だけでなく、白人の間でも温泉入浴証明書のコレクターが少なくないという(小生は水着の用意なく、残念ながらパス)。

デセプション島に鯨油工場の残骸がある。遺棄された飛行機の型式から推測するに1980年代まで稼働していたようで、日本の「調査捕鯨」をなじる欧米諸国に「お前らだって昨日までは…」と言い返したくなる。国際社会で自己主張することの少ない日本だが、こと捕鯨に関しては妙にガンバっているが、商業捕鯨容認国はノルウェイとアイスランドのみで形勢不利。日本沿岸の捕鯨に「伝統文化の継承」を主張するのはヨシとしても、「省益だけが目的」とささやかれる南氷洋調査捕鯨に、国の威信をかけて意地を張ることもないような気もする。

ブリッジのレーダーに映ったデセプション島の噴火湾。
噴火湾の奥に進む。
湾の奥に湯けむりがあがる。
好きだなあ…
鯨油工場の残骸。
朽ちゆくツインオッター機。それほど古い機体ではない。
昼寝中のアザラシをカメラが囲む。
春眠を破られて少々不機嫌。
毛替わり中のゾウアザラシ。猛烈にクサイ。
ペンギンの領域に乱入するゾウアザラシ。迷惑千万だが幸いケガ人は出なかった。
リビングストン島のペンギンコロニー。
ジェンツーペンギン
チンストラップペンギン

マカロニペンギンはここでも少数派。

空を飛べる鳥たちは誇り高い。


旅の終わり

楽しい旅はすぐ終わってしまう。12月29日夜は南緯62度35分のハーフムーン島沖に投錨、メインエンジンを止めて南極最後の夜を静かに過ごす。12月30日朝、同乗してきた科学者3名をハーフムーン島のアルゼンチン基地に送り、砕氷船ドラニチン船長号は南極を離れる。

船がドレーク海峡にさしかかって揺れる前に船内見学。機関室、メインエンジン、補助発電機、メインモーター、推進軸、操舵機、保守用設備などを見て歩く。砕氷船は体当たりで氷を砕くので、動力には小刻みに前進後退を切り替えられる直流モーターを使う。ドラニチン船長号は4千馬力のデイーゼルエンジン6基で交流発電し、整流して3基の直流モーターで3軸のスクリューを駆動する。一般の大型船舶に比べて馬力は強いが、ズングリした船体の造波抵抗が大きいので速度が遅く(16ノット)、乗組員も多いので(60名)運航コストはかなり高い筈。100名分のツアー料金は約60万ドルだが、砕氷船の傭船料にいくら払われたのか気に懸る。

ブリッジの機関操作卓。通常の航海中はブリッジから機関室に電話で指示して操作させる。
機関は全自動化。機関長と機関員はここでシステムを監視。
動力系の配線図。障害時の機器のつなぎ替えを示す。
4千馬力のメインエンジンを6基搭載。
8千馬力のパワーをスクリューに伝える推進軸。
>舵機(右)の奥に予備のスクリュー羽根が3枚。破損したら潜水して交換可能とか。
南極海を離れてドレーク海峡にさしかかると、急に波が高くなる。
往路同様、激しい揺れが30時間続く。
ドレーク海峡を過ぎ、南米南端のホーン岬が見えた。
ブリッジに全員集合、旅の余韻を噛みしめる。
1月1日払暁、ウスアイアに入港。1995年元日の夜明けを待つ。
ロシア人の船員に別れを告げる。


1995年1月1日早朝、12日間のクルーズを終えてアルゼンチン南端の港町ウスアイアに入港。上陸前に「隊長」から厳しい注意があった。アルゼンチンは隣国チリとも領土問題で緊張関係にある。我々のツアーはチリの首都サンチャゴを起点に、不倶戴天のフォークランド(マルビナス)からロシアの船に乗り、ウスアイアに上陸してチリの飛行機でサンチャゴに戻る。我々のやることなすことアルゼンチン当局を刺激することばかりで、不埒なグループとして厳しい臨検を受けるやもしれないが、何が起きても冷静を保って欲しいという。

下船前の臨検は無かったが、我々が港に向かうハシケの周りを機関銃を構えた哨戒艇が走り回り、上陸と同時にバスに乗せられて空港に直行する間も前後を装甲車に固められた。隣国との緊張関係は世界各地に存在している。日本も四周を海に囲まれていなければ、同様の緊張が日常化しているかもしれない。戦争以上の不幸と浪費は無い。そうならない為に国の政治・外交があるのだが、民主主義国家である以上、それを選ぶ国民に成熟が求められていることを改めて思わざるをえない。(ウスアイアについては別レポートを参照いただきたい。)