1997年に入会した写真の会「友山クラブ」が、先生と会員の高齢化で例会の継続が難しくなり、今週からの写真展開催を最後に活動を停止することになった。小生の「写真の場」はこの会だけで、コンテスト応募も写真誌投稿もしたことがなく、「熱心なアマチュア写真家」とは言い難い。そもそも写真の会に入った動機も不埒で、「世界三極」(南極圏、北極圏、ヒマラヤ)踏破で残っていたヒマラヤに楽に行ける方法を探したら、全く歩かずにエベレストが見える丘に行くツアーがあった。それが写真撮影ツアーで、カトマンズとポカラのホテルを拠点にヘリとタクシーで撮影スポットを回った。他の参加者はプロ級の機材持参だったが、小生だけチープなカメラで恥ずかしかったことは、当HPの「ネパール」に書いた。そのツアーの世話役が川口邦雄先生だったが、写真誌も買わぬ小生、先生が高名な山岳写真家と知らなかった。

ツアーに同行した先生の奥様から、参加者は翌年2月の写真展に無条件で参加できると強く薦められ、帰国後もフォローされて半ば義務感で出展した。写真には「シロウトのまぐれ当たり」(英語では Begginer's luck)が起きることがあり、思いがけず作品を褒められて「友山クラブ」に入り、ズルズルと23年が経った。この間に大阪勤務(1997-1999)とバヌアツ派遣(2004-2006)があったが、写真展には一度も欠かさず作品を出し続けた。だが出展作品(32回、全85点)は旅先でチョコっと撮ったものばかり。そもそも撮影を主目的に出かけたことがなく(クラブの撮影会にはお役目で参加したが)、これでは「熱心なアマチュア写真家」を自称できない。

芸事には道具が要る。バイオリンに1万円から数億円まであるように、カメラも数百円の「写るんです」から数百万円のプロ用まである。名人がストラディバリウスを弾けば世に稀な名演奏が生まれるが、シロウトは何を弾いても雑音しか出ないように、写真も名人が高級カメラで撮れば希代の名作が生まれるが、ヘボは何で撮ってもヘボ。カメラを大雑把に「上(プロ用)」「中(ハイアマ用)」「下(普及機)」に分ければ、小生が買ったカメラはウデ相応の「下」ばかりで、最終番になってやっと「中の下」を手にした。この点でも「熱心なアマチュア写真家」とは言えない。

そんなわけで「グータラ・アマチュア写真家」のままで終わりそうだが、「友山クラブ」打ち上げの節目で、自分の「写真歴」を振り返ってみる気が起きた。今回は小学生時代まで遡る。齢を重ねると今日のことも思い出せないが、子供の頃の記憶がイモズル式に蘇えるのは不思議である。思い込みや記憶違いも多い筈で、そんな昔話を綴っても読者諸賢には何の参考にもならないが、まあそれは毎度のことで、アラ傘寿に免じてご寛恕下されたい。


1953年(小6) 小生の「写真元年」

小生と写真の接点は雑誌「子供の科学」の1953年6月号(月は”?”)だった(ちなみにこの月刊誌は今も続いている)。この号の付録は「日光写真」で、ネガ画像の薄紙と印画紙を重ねて日光にあて、同封の薬品を水に溶かして印画紙を現像すると写真が浮き出る実験だった。現像は押入れに潜り込んで薄暗闇でやった。つまり子供に暗室作業のマネ事をさせたわけで、これが面白かった。

「子供の科学」の付録説明のページにカメラの広告が載っていた。写真に興味を持った子供の「おねだり」を誘う術中に見事にはまり、無性に欲しくなった。モデル名を思い出せなかったが、「ボルタ判フィルム」検索で見つかった「スタート35」に違いない。値段は800円くらいだったが、中流家庭の実収入が月3万円の時代、気軽に買ってもらえる遊び道具ではなく、おねだりはあっさり却下された。

イソップの「酸っぱい葡萄」ではないが、「スタート35」のレンズは単玉の固定焦点で、露出(絞り、シャッター速度)も固定、フィルムのサイズも小さく(24mm×24mm)、これでキレイな写真は撮れそうもない。買ってもらってもすぐ飽きて放り出し、写真への興味も失せていただろう。


夏休みの終り頃だったと思う。父が突然「これからカメラを買いに行く」と言った。行き先は松本からバスで1時間余、下諏訪のオリンパス光学の工場だった。応接室に通され、工場見学させてもらい、皮ケースに入ったカメラを渡された。前々号で警察官だった父の経歴を書いたが、松本警察署次席の立場で予め話を通してあったのだろう。工場直販の特価にしてもらったかもしれないが、応接室で現金で払うのを見たので、警察の備品調達便乗ではなかった筈だ。

買ってもらったカメラは「オリンパス クロームシックスⅢA」。オリンパス社HPの製品の歴史によれば、1951年発売のモデルで、当時の価格は16,000円。購買力換算すれば現在価格で約10万円の本格カメラである(左は同社HPから)。

父が何故そんな思い切った買い物をしてくれたのか、聞かぬままになったが、5年生の終りで飯山から松本に転校して友達を失った一人息子を不憫に思い、興味を示したカメラを与えて気分転換させようと、ムリをしたのだろう。オリンパスを選んだのは、写真のプロである鑑識係の意見を聞いたか、戦前の諏訪警察署勤務時代のコネがあったのか、あるいはその両方だったかもしれない。

当時のカメラは「全手動」だった。裏ブタを開けてブロニー判のロールフィルム(6㎝×6㎝、12枚撮り)を装填し、裏ブタの小窓でフィルムの遮光紙にプリントされたマークを覗き見て所定位置まで巻く。ピント合わせはカメラから被写体までの距離を測り、レンズの前玉を回して数字を合わせる。シャッター速度と絞り値も夫々のダイヤルを回して設定し、シャッターを作動させるバネのレバーを倒してセットして、シャッターボタンを押す。バネ式の10秒セルフタイマーも付いていた。1枚撮ったら裏ブタの小窓を覗いてノブを回し、フィルムを次のコマの位置まで進める(忘れると二重写しになる)。1本撮り終えたら遮光紙が外れるまで巻き上げ、裏ブタを開けて底のノブを引っ張り、撮り終えたフィルムのスプール(巻き筒)を取り出して、遮光紙の巻きが緩まないようにシールを貼る。空いたスプールを巻上げ側に付け替えて、次のフィルムを装填する。

距離測定は目測では難しく「距離計」を買ってもらった。軍隊で大砲を撃つ時に使う「測距儀」を超小型にしたもので、カメラ上部のクリップに取り付ける。適正露出を測る「露出計」は1万円近かったのでガマンしたが、フィルムの外箱に印刷された標準露出(例:晴天= f8, 1/125 )で撮れば、だいたい上手く写った。フィルムは6㎝×6㎝の12枚撮りが標準だが、枠を付けると6㎝×4.5㎝のセミ判になって16枚撮れるので、もっぱら16枚撮りで使った。

面倒なようだが、6年生でも手ほどきを受ければこの程度の操作は出来る。指導役を勤めてくれたのは鑑識係の若い刑事さんで(父から私的「業務命令」があったかもしれない)、写真の原理とカメラの基本操作を教えてもらい、鑑識の暗室で現像・焼付・引伸し(DPE)の実技指導も受けた。刑事さんが現像していた印画紙に若い女性の全裸死体が現れて、慌てて裏返えされたことも思い出した(当時この種の事件はニュースにならなかった)。自分が使う印画紙は小遣いで買って持ち込んだが(その程度の値段だった)、暗室の使用料を父が払ってくれたかどうかは不明。「公的施設を私的に使用した疑惑」の追究には、「記録の存在が確認できません」と「丁寧に説明」するしかない。


小生の「処女作」を披露する。父の遺品に入っていた古いアルバムをだいぶ前に処分したが、写真を剥いでスキャンしたデータが残っていた。小学生の初心者にしては「シッカリ撮れている」と自画自賛したい。

再建されたばかりの松本城。左の樹の扱いが中途半端… 松本駅で「撮り鉄」。縦位置で撮ったのは褒めたいが… セルフタイマーで撮影。秋の夕日がうまく射し込んだ。文化祭作品の共同制作者だったO君は中学でも同級だったが、残念乍ら早逝した。


1954年(中1) 我が人生で唯一の「受賞作品」

カメラを入手して1年が経った秋の日曜日、鑑識刑事さんが署員仲間の「撮影会」に誘ってくれた。松本市郊外の神社の境内で、15人ほどの非番警察官に交って、坊主頭の中学1年生が美人モデルを見よう見まねで撮った。しばらくして警察署の通用廊下に作品が貼り出され、小生の作品に「佳作」のリボンが付いていた。次席の息子への忖度があったかどうかは存ぜぬが、とにかく、これが小生の写真人生で唯一の「受賞作品」である。

前述したように、小生は写真コンテストの類に作品を出したことがない。友山クラブの写真展では、会員が提出した候補作7~8点の中から川口先生が出展作品を選ぶが、「会員が夫々良いと思って出した作品から選んだのだから、どの作品も良いに決まってます」と、 作品に優劣を付けない方針を貫いた。辛口批評で競争を煽って自分好みの弟子を囲い込む「カリスマ講師」が流行る中で、川口先生の「夫々の個性をじっくり伸ばす」指導は、まさに教育者の正道と言うべきだろう。おかげで「グータラ・アマチュア写真家」も、ジワジワと上達した(と思いたい)。

佳作入選作品。角度と日の当たり具合は良いが、周囲が少し窮屈。後日スキャンした時に周囲をカットしたかもしれない。 ローアングで。頭と軒先が少し離れていれば入選作だったかも? せっかく目線をもらったが、絞りを開けて背景をボカして撮れば…

中学生が小遣いで買えるフィルムと印画紙には限りがあり、2年目に撮った写真は撮影会用を入れてもフィルム2~3本(約40コマ)だったが、学校にカメラを持ち込んで同級生を撮ったりしたので、自慢げでイヤなヤツ、と思われていたかもしれない。

松本城広場に集まった「宣伝カー」、広場に面した建物の上から撮った。構図的には左右逆が望ましいが... 清水中学校の校舎。もう少し広く撮りたいだが、固定焦点レンズで仕方がない(後ろに下がって撮れなかったと思う)。
夏休みにクラスで木崎湖でキャンプ。肖像権はご容赦いただく。 当時は弁当持参。雰囲気は撮れたが、ピントが外れていた。


1955年(中2) 興味がラジオ作りに移行

中1の12月に父が下諏訪に転勤になったが、小生は転校を避けて松本の中学校に留まった経緯は前々号の終りに書いた。松本に間借りした部屋はあったが、下諏訪からの列車通学が多かった。朝6時10分に下諏訪の家を出て6時24分発の普通列車に乗り、松本駅前から浅間温泉行き市内電車で学校近くの「清水」で下車、8時に学校に着いて放送室に駆け込み、全校放送の電源を入れ、レコードを回して始業前の音楽を流し、先生が交代でする「朝の講話」の音量調整とスイッチ操作が「放送係」の役目だった。

放課後は夕方5時20分発の列車時刻まで理科室で過ごした。学級担任だったK先生は理科の先生で、小生が理科室の実験器具で遊ぶのを大目に見てくれた。そんな中で電気が面白くなり、それがラジオ作りにつながったのは、同じ理科の先生で放送係の顧問だったU先生の指導で、家で使わなくなった旧式ラジオの分解を手始めに、ラジオ雑誌の配線図を読んで部品を買い集めて組み立てるのに夢中になった(写真)。

そんな次第で写真は滅多に撮らなかったが、下の2点は冬の休日に諏訪で撮って現像・焼付けした記憶がある。フィルムは白黒が逆なので、写真の出来栄えは印画紙に焼付けるまで分からない。手元がやっと見える赤色暗室灯の下で作業するが、現像液のパッドに浸した印画紙にジワジワと画像が浮かび出るのがたまらない瞬間で、思えば、これが我が人生で最後の暗室作業だった。

諏訪高島城のお濠は冬は凍結してスケート場になった。 当時の子供は下駄スケートで滑った。光線の当たり具合が良く、構図もそれなりにまとまっている。 諏訪大社下社春宮の遷座祭。春に神様が秋宮から引っ越す神事。構図的にはイマイチ…

1956年(中3) 親の期待には…

中2の終りで父が警察を退官して長野市に引っ越した。転校した小生は幸いすぐクラスに馴染めたが、家に帰るとラジオを作っては改造する作業を飽きずに繰り返し、夜は自作の短波ラジオで海外の短波放送やアマチュア無線の交信を聴いた(夜は電離層で短波が反射しやすく、遠距離から電波が届く)。

中3になれば将来の進路を決めねばならない。父はそんな小生を見て、地元の工業高校に進学させて県庁の技術系吏員にしたいと考えたらしい。一人息子を手元に置いて安定した生活をさせたい親心だったのだろうが、結論を急げば、小生は普通高校から東京の文系の大学に進み、民間企業の「事務屋」になり、職場が海外で「親の死に目」にも会えなかった。父の想定を全て覆したことになるが、本人は「無線機を売る仕事」に携わったことでつじつまを合わせたつもりでいる。

話が逸れたが、父が警察官を辞めて小生は鑑識の暗室を借用する特典(?)を失った。そんなこともあって、中3で撮った写真はフィルム1本分もなかった。


1957年(高1) まぐれ当たりの「山岳写真」

普通高校に入ってもラジオ作りが止まず、夏休みも家に籠って半田付けに没頭する息子に、父が危機感を持ったらしい。父の第二の職場の同僚が計画した白馬岳登山に、強制的に連れ出された。幼少時から体育が不得意で運動嫌いだったが、登山に運動神経は不要で、16歳男子の基礎体力は備っていたらしく、さほど苦も無く大雪渓を登って無事登頂した。

その折にオリンパスで撮った写真がある。小さい密着プリント(6㎝×4.5㎝)をスキャンしたものだが、大雪渓の写真は雲と光の状態が良く構図も悪くない。ひょっとしたら天才写真少年だったかも、と思いたくなる出来栄えだ。

だが、天才少年ならずとも傑作が撮れることがある。写真では時に「まぐれ当たり」が起きるからだ。他の芸事は地道な稽古の積み重ねが不可欠で、初心者がいきなり「芸域」に達することはないが、写真は「ネコが踏んづけても写っちゃう」(「カメラばあちゃん」で知られた写真家増山たず子さんの名言)。被写体と光の具合に恵まれれば、ある確率で「傑作」が生まれるのが写真の面白いところであり、ヘボが「実力」と勘違いしてハマる落とし穴でもある。


白馬大雪渓を登る。山のスケール感が出ている。雪渓が平坦に見えるのは窪地から撮った為で、左の高所から撮ればもっと良かったかも…

山頂直下から杓子岳、白馬槍が岳を望む。大雪渓から湧きあがる雲が良い。

人物が雰囲気を添えている。



その後の写真少年とオリンパスシックス

「写真少年」は自身の才能に気付くことなく、初老になるまで「写真」とは無縁の日々を過ごした。その間に写真を撮らなかったわけではなく、子供の成長記録や旅の記録など、人並み以上に撮ったと思う。

「写真」の概念が混乱しているが、大雑把に言えば、写真には「作品」と「その他」がある。写真は「或る空間を、或る瞬間に切り取った記録」で、中には後世に残すべき「瞬間の記録」や、見る人の感動を呼び覚まし魂を揺さぶる「場の記録」がある(「芸術」と言っても良いだろう)。それを「捉えた」と思った写真を「公開」すれば「作品」になり、撮った人はプロ・アマを問わず「写真家」になる。一方、写真の99.99%は「その他」で、撮った人・撮られた人・直接関係者にしか意味を持たず、いわばメモ代わりの「手軽な私的記録」にすぎない(昨今は私的記録をSNSで公開する破廉恥な風潮が流行っているらしいが)。小生が「作品」を意図して写真を撮るようになったのは、中1の「美人モデル撮影会」を除けば、56歳(1997年)で友山クラブに入ってからのことである。

小6で買ってもらったオリンパスシックスは、高校、大学、社会人になってからも時々「記録係」の出番があった。退役は1966年12月で、初めての海外出張用に自分のおカネで次のカメラを買うまで13年間働いたが、その間にオリンパスで撮った写真は全部でフィルム20本ほど(約3百枚)で、デジカメ時代の海外旅行では1日で撮ってしまう枚数でしかなかった。退役後は暫く押入れの奥で眠っていたが、数年後に気が付いたらカビだらけで、レンズの中まで菌糸が侵入し(カメラのレンズは数枚の性質の異なるレンズを貼り合わせたもので、接着部にカビが入ることがある)、蛇腹もボロボロになっていた。今にして思えば宝物のカメラだが、不憫にも「不燃ゴミ」にしてしまった。