3月8日から24日まで日本を留守にした。南米ペルー高地のインカ道をテント泊で歩くという浮世離れした旅に出ていたのだが、その間に豊中市の小学校用地問題で政局がどう動くか、いささか気になっていた。旅行中は現地で日本のニュースに接する機会がなく、留守中の新聞取り置きもしなかったので、不在中にどのような展開があったのか知らないが、帰国後にテレビや新聞を見る限り、2週間余の間、具体的な解明は進まなかったように見える。

政治評論家が言う「政局」(政治家個人・集団のすべったころんだ話)にはあまり興味がないが、今回の用地問題は、首相夫妻と「日本会議」幹部を自称する学園長との「意気投合」から始まった一件で、聞き流しにはできない。幼稚園児に「教育勅語」を諳んじさせ、中国と韓国に非を唱えさせ、「首相ガンバレ」と叫ばせることが正常な幼児教育とはとても思えないが、首相夫人はそんな幼稚園を再三訪れて「名誉園長」を引き受け、首相本人も国会の場で「すばらしい教育」と絶賛して価値観の共有を明言した。国有地売買にかかわる疑惑が明るみに出なければ、「安倍晋三先生記念小学校」の栄誉も黙認し続けたに違いない。本件はこの国のリーダーの思想と姿勢に起因する事案であって、金品授受が無かったから問題ナシ、で済むとは思えない。

「日本会議」側は問題の学園長との絶縁を公言しているようだが、シッポを切っても頭は残る。日本会議は「伝統に基づく国家理念を提唱など、正しい日本の針路を求める国民運動」を唱えるが、その真意は戦前の皇国史観への復帰にあり、太平洋戦争を「アジア開放の聖戦」と主張し続ける団体であって、現政権閣僚の3/4が日本会議に所属しているという事実に、アジア諸国は日本に対する警戒心を解かない。そのことを我々はもっと重くとらえるべきだろう。

同じ敗戦国となったドイツでは、戦後70年余の今もナチス時代の肯定や体制の賛美は違法行為で、処罰の対象とされている。他の欧州諸国と同様に超保守やネオナチ組は存在するが、国の基本姿勢として第二次大戦への深い反省と謝罪が貫かれており、それが今のドイツを国際社会のリーダーに押し上げる基盤になっている。本年2月26日にトランプ新政権のペンス副大統領がドイツを初めて公式訪問した際、ドイツは副大統領をダッハウ強制収容所跡で迎えた。70余年前にナチスのホロコーストの現場を米軍が命を張って開放してくれたことに謝意を表しつつ、米国新政権の民族主義的姿勢にクギを刺したのである。「ご祝儀の場でそこまでやるか」と思うと同時に、ゴルフ連チャンで肝胆相照らしてご満悦だった某国との違いに目を向けざるをえない。


ドイツのi位置(緯度)とサイズを北海道・樺太と比較。ドイツがかなりの高緯度に位置し、それほど大きな国でないことが分かる。

ウルム

ウルムの娘夫婦宅を訪れるのは前年(2015年)に続いて2度目。2015/8の南ドイツ篇にも書いたように、ウルムは日本の観光ガイドには載っていないが中世の街並みもある歴史豊かな町で、フランスの哲学者デカルトが好んだと言われ、ドイツ陸軍の猛将ロンメル、物理学者アインシュタインの生誕地でもある。観光名所には世界一高い尖塔を持つウルム大聖堂もあるが、人口11万の地方都市で歴史地区は3百m四方の中だから、市内観光は1日で足りる。

小生が知っている日本の人口11万の都市には、掛川(静岡)、加須(埼玉県)、取手(茨城県)などがあるが、小生の目にはウルムの方が魅力的に映る。魅力のポイントは「歴史の重み」だろう。だが、ウルムは第二次大戦時に連合軍の空爆で市街の8割が破壊されたという。爆撃を免れた大聖堂(連合軍が標的から外した)以外の歴史的建造物は、大戦後に時間をかけて再建されたもので、外見だけでなく内部まで元どおりに復元されたものが多い。ウルムに限らずドイツにはそのような魅力的な復興都市があちこちにあり、夫々独特の雰囲気と活気を今に伝えているのが羨ましい。

日本人は彼等のような歴史への執念を欠くような気がする。良きにつけ悪しきにつけすぐ忘れ、新しいことに目が移る。言い換えれば、コロッと変わる(尊王攘夷が明治維新で鹿鳴館に、鬼畜米英が敗戦でギミーガムに)。それが日本の活力の源だったかもしれないが、この国の致命的欠陥である「反省が足りない」と同義のような気がしてくる。言うまでもないが、反省抜きで復古に愛着しても、歴史への執念とは呼べない。

戦災を免れた地域に築2百年余のアパートが立つ。娘夫婦の住居は5階でエレベーターが無く、荷物の持ち上げが大変。室内は屋根裏の傾斜はあるがモダンに改装。
キッチンの窓から近くのカトリック教会が見える。
ローカルな教会でも本格建築。立派なパイプオルガンもある。
教会付属の墓地は公園になっている。
公園の隅に保育園。待機児童なく「ドイツ死ね!」もない。
市の北側の丘に残る要塞。第二次大戦まで現役だった。
城塞周辺に残る城壁。
城塞からウルム大聖堂の全容が見えた。
鉄道橋からウルム大聖堂
鉄道駅に交通の要地だったウルムの伝統が残る。
市の南を流れるドナウ川。「美しき青きドナウ」の雰囲気はこの辺りにはまだない。
川岸の遊歩道から大聖堂の尖塔が見えた。
旧市街の一郭。
旧市役所。
ホテルの看板。

2016年9月のドイツ町歩きはスイス山歩きの「ついで」で、往路のフランクフルト空港→ウルム、帰路のスイス・サンモリッツ→マインツ→フランクフルト空港の移動には鉄道を使った。ドイツ国鉄にはJR東日本の「大人の休日」のような割引制度があり、娘が事前に会員登録しておいてくれたので、運賃は正規の約半額で済んだ。

ドイツの鉄道は、格安航空の料金体系と同様、同じ路線の同クラスでも列車によって運賃が違う。時間帯や乗り換えの利便性の高い列車には高い料金を適用して収益性を確保し、時間にこだわらない客を空いた列車に誘導して混雑の分散を図っているのだろう。日本では座席指定と自由席は別の車両で、どちらかがガラ空きのことがあるが、ドイツでは各座席の上に取り付けられたLCDに予約指定済の区間が表示され(例:シュツットガルト - マンハイム)、表示のないシートは自由席扱いで誰でも座れる(指定区間の客が乗車すれば席を譲る)。社会システムは夫々の国情や国民性を反映しているが、鉄道に関してはドイツの方が日本よりキメが細かいようだ。

ウルム中央駅前。路面電車も通っている。
駅前から大聖堂に続く商店街。シャッター通りではない。
オーストリアから到着した都市間国際急行。
ローカルの単行気動車。
私鉄のローカル電車も乗入れている。
日本では見なくなった連接タイプ(車両連結部に台車がある)の電車。


アウグスブルク

前回の訪独時に車でミュンヘンからウルムに向かう途中、アウグスブルグを通過した。古代ローマ皇帝のアウグストゥスに因んだ町に違いなく、興味が湧いて、今回ウルムから列車で1時間のアウグスブルグに足を伸ばしてみた。調べてみると、古代ローマ属州時代の紀元前15年、名皇帝の名が高いアウグストゥスの時代に築かれたローマ軍団基地が起源で、ドイツで2番目に古い都市である。15世紀から16世紀にフッガー家とヴェルザー家による金融都市として栄華を極めた。モーツアルトの父レオポルドや劇作家ブレヒトの生誕地であり、デイーゼルが新型エンジンを開発した自動車メーカーのMAN社、航空機メーカーのメッサーシュミット社の本拠地でもあった。この為に第二次大戦で連合軍の攻撃を受け、戦後に米軍が駐留したのはウルムと同じである。

アウグスブルグ駅に到着。ホームに駅弁売りがいた。
市庁舎前広場に立つアウグストゥスの像。
市庁舎。
ドイツ田舎料理のレストラン。
これが薦められた田舎料理。
繁華街を走る市外電車。
市庁舎3階の「黄金のホール」がこの都市の繁栄をしのばせる。
大聖堂(戦災を免れた)。11世紀後半のステンドグラスは完全なかたちで残る世界最古の作品と言われる。

フッガー家が設立した世界最古の社会福祉住宅「フッゲライ」に興味があった。中心街から少し外れた場所で、道に迷ったが何とか行きついた。16世紀初めに困窮者の為に建てられたという147戸の集合住居は戦災を免れ、現在も困窮者にほぼ無償(年間家賃が1ユーロ)で提供されている。入居条件はアウグスブルグ居住のカトリック信徒で且つ負債の無い者とされ、浮浪者や性格破綻者を排除していることもあるだろうが、貧民窟のような荒れた雰囲気は全くない。見学用に開放されている1軒を覗いてみると、いかにもドイツらしい質素で堅実な生き方を感じさせる。地下の防空壕の一部が戦争博物館として開放され、戦時の記録や生活の様子が展示されている。ここにも歴史への執着がある。

フッゲライの入口。
長屋スタイルの建物が整然と並ぶ。
住民の留守を守る。
見学用に開放された1室。
庭に置かれたフッガーの胸像。今も花が飾られる。


マインツ、ライン川下り、リューデスハイム

言葉の通じない地域での個人旅行は不安が多く、交通機関が乱れたりするとパニックに陥る。ドイツは英語が通じる人が多いので聞けば何とかなるのだが、「寿限無寿限無五劫擦切…」のように長く切れ目のないドイツ語のサインは、読む気も起きない。それはともかく、今回は帰国時のスイスのサンモリッツからフランクフルト空港への移動は、ギリギリの旅程を避けて空港に近いマインツで前泊することにした。

鉄道旅のホテル選びで学んだことがある。2010年のドイツの旅では、日本の旅行代理店に「中程度」と頼んだら、駅から離れたホテルで、不便なばかりでなくタクシー代が高くついた。今回はネットの日本語サイトでマインツ駅前のホテルを探して予約したが、料金は日本のビジネスホテルの2人部屋より安く、且つ現地現金払いでドタキャンもOK。ちゃんと予約が入っているか半信半疑だったが、行ってみると古い建物でボーイもいない小ホテルだったが、部屋は清潔で朝メシ(料金に込み)も感動するほど充実していた。これでいいのだ。

マインツが「ライン下りの出発地」と知っていたが、ゆっくりと船旅を楽しむ時間はない。船着き場の案内所で運航スケジュールを見ると、2時間乗ってリューデスハイムで下船し、昼食を食べて鉄道でマインツに戻れば、夕方発の飛行機に十分間に合うと分かった。ローレライまで行けないのは残念だが、ここまで来て乗らない手はない。

マインツの駅前ホテル。
市街を通り抜けて船着き場へ。
船着き場からの眺め。
2階デッキに席を占めるて出港を待つ。
出港、右岸に係留された帆船。
マインツの市街。
貨物船や観光船が行き交う。
途中の町に立ち寄って客を拾う。
ブドウ畑とワイナリーが見え始めた。
リューデスハイムに上陸。思っていた以上に観光客で賑わっていた。
観光リフトでブドウ畑を越えて丘に登る。目下にワイナリー。
丘上の巨大なゲルマニア女神像はドイツ統一を記念して1883年に建造されたもの。当時の敵国だったフランスに向いて立っていると言われる。
女神像前からライン川を見下ろす。
対岸のビンゲン。
レストラン街の「つぐみ通り」で少し遅いランチ。ステージでは軽妙な演奏。
ワイン博物館は時間がなくスキップ。
ライン川を横断するフェリーでビンゲンへ。
対岸に渡ると下流に城が見えた。
ビンゲン駅前の街道にパレードの人だかり。
どうやらワインの収穫祭らしい。
陽気なオバサンのグループが踊りながら練り歩く。
見物人にワインの試飲提供。グラス片手の見物人が多く、小生はテルモスの蓋に注いでもらった。
愉快な山車。パレードは続くが、列車が来る時間になった。