アイスランドが「ちょっと変わった国」と認識したのは、彼等が馬肉を食うと聞いた時だった。欧米人にとって馬は「家畜」ではなく「人間の友」で、馬肉食に対する欧米人の感情は、我々が隣国人が犬を食うと聞いた時の反応と同じと思ってよい。アイスランド人の馬肉へのこだわりは、彼等が11世紀にキリスト教を受け入れた時、「我々は今後も馬を食うが、それでも良いか」と念を押したという歴史逸話からも窺える。

アイスランドは捕鯨国という点でも欧米諸国と一線を隔している。日本の調査捕鯨には何となく後ろめたさが漂うが、アイスランドは2006年に堂々と商業捕鯨再開を宣言し、絶滅保護指定のシロナガスクジラを獲り続けている。漁業が最重要産業である同国は領海拡大でも最先鋒を走る。1958年に18海里を主張し、漁業権で利害が対立する英国と小規模な武力衝突を起こした。この時は英国が折れたが、1972年には50海里を宣言して砲撃戦になり(タラ戦争)、この時も英国の大幅譲歩で決着した。更に1975年に「漁業専管水域200海里」を打ち出して第二次タラ戦争が勃発、当時のEECがアイスランドに同調して、英国は三度目も旗を巻いた。

人口32万のアイスランドは軍隊を持たない。その小国が警備艇で英海軍の軍艦に立ち向かったのである。紛争は毎回小競り合い程度で双方に戦死者が出なかったとは言え、武力行使で主張を通したのだから、アイスランドが英国に「勝った」ことになる。英国がホンキで戦わない(戦えない)と読んだ上での紛争突入だったのだろうが、よほど政府と国民のキモが座っていなければ出来ない芸当と言う他ない。

断片的な出来事で国民性(民族特性)を決めつけるのは国際理解の基本に反するが、この一件からも「やっぱりアイスランドはバイキングの末裔」と思ってしまう。この国の歴史は、9世紀にノルウェイ王の支配を嫌って祖国を捨てたバイキング(今日的な定義では「海賊」)が北海の孤島に入植し、930年に世界初の「民主共和制国家」を成立させたことに始まる。しかし、たちまち群雄割拠に陥って統制を失い、故国ノルウェイ王の支配を受けることになる。1380年に王室の事情で宗主がデンマーク王に替わり、強権的な支配下で臥薪嘗胆の時代が長く続いたが、第二次大戦でデンマークがナチスドイツに占領された際、英米の支持を得て独立を回復した。

バイキングの末裔と言うと男性社会に聞こえるが、1980年に世界最初の女性大統領を輩出した国でもある。2008年に米国のサブプライムローン問題に端を発した金融危機で、アイスランドが債務不履行に陥ったことは記憶に新しい。同国の財政は黒字だったが、民間銀行が発行した円建て債券がデフォルト状態に陥り、アイスランド通貨クローナの暴落を招いた。背景には、アイスランドの経済規模の小ささを利用した為替ゲームで稼ぐ金融商品の乱発があり、国際金融市場の狂乱に加担してケガをしたかたちだが、アイスランドの反省として、この失敗はバイキング気取りの向こう見ずな男たちに銀行経営を委ねた結果と総括、破綻銀行の国有化に際して頭取に女性を据えた。

女性頭取の手腕かどうかは知らぬが、通貨下落による輸出(水産物)と観光収入の大幅増で、アイスランド経済は短期間で息を吹き返し、現在は西欧諸国の中で最も高い経済成長率と低失業率を誇っている。我々が見た限りでも、経済危機の痕跡は消え、都市も地方も清潔で落ち着いたたたずまいで、人々の表情も穏やかだった。円安誘導でインフレを誘発する以外に巨大債務をチャラにする手が見えない某国は、ひょっとしてアイスランドを手本にしているのかと思ったりもするが、女性総理大臣や女性日銀総裁の誕生が期待できない国に、2匹目のドジョウが寄って来るとは思えない。




第3日目 スカフタフェットル ⇔ オークルスアウルロウン

第3日目は、スカフタフェットルから更に東のヴァトナ氷河南麓の観光スポットを巡る。氷雨混じりのどんより空に気が滅入るが、これが冬のアイスランド。その時その場の状況に好奇心を発揮するのが、旅の楽しみなのだ。

1884年に建てられたホブ村の教会。屋根に芝を張る伝統工法で、断熱効果がある由。
教会の内部(窓越しに撮影)
教会脇の馬の水飲み場。
氷河の後退で1960年に出来た氷跡湖のヨークルスアウルロウン。水深は200mある。
氷跡湖から河口まで500mほどの水路で大西洋に注ぐ。
水路から流れ出た氷塊が大西洋の荒波で浜辺に打ち寄せられる珍しい風景。溶岩が砕けた黒い砂浜と神秘的な氷河蒼氷・透明な氷塊が対照的をなし、現代アートのような世界。
ランチは「アイスランドの母の味」子羊のスープと地ビールの「ヴァトナ氷河」

午後はスカフタフェットルのビジターセンターから氷舌までのショートトレッキング。途中で激しい吹雪になり、先端部までの踏破を断念。

悪天候のまま1日が過ぎ、早々に観光を切り上げてホテルに戻る。夕食前のアルコール半額サービスを有効活用し、夕食後の長い時間を睡眠不足の解消に充てる。意識下に「ひょっとして」の思いがあるらしく、頻繁に目が覚めてその都度窓から空を見上げるが、遂に「ひょっと」は起きなかった。


第4日目 スカフタフェットル → レイキャビック

首都レイキャビックを出れば、海岸沿いに小さい集落が点在するだけのアイスランドには、島を外周する国道が1本あるだけ。南東部のスカルタフェットルから西端のレイキャビックに戻るのに、島の反対側をぐるりと回る余裕はなく、往路で寄らなかった観光ポイントを訪ねながら、300㎞を1日かけて走る。

8:55、ホテル出発時にちょっとだけ青空が覘いた。
第2日目に立ち寄った時は霧の中だったスケイザルアゥルサンドゥル(削られた溶岩が黒砂となって堆積)。この朝は背景のヴァトナ山群が姿を現わした。山頂の標高は2千m超。
ここも2日目に立ち寄ったエルドフロインの溶岩原。すっかり雪が消えていた。
雪が融けて現れた苔。
アイスランド最南端のヴィーク海岸。断崖絶壁に穿たれた海蝕の穴は「額の穴」と呼ばれる。
「額の穴」に連なる奇岩の列。
「二見ヶ浦」のアイスランド版。
大西洋の荒波に耐える女岩(男岩?)。
段丘の上に教会。
スコウガの滝。アイスランド最大級の滝で落差62m。
スコウガ民族博物館。個人が蒐集した古民家や民具が展示されている。
民家内部。狭い部屋に一家が重なるように居住して寒さを凌いだ。
少し余裕が出来てから建てられた民家の内部。
村の教会。ルーテル派のプロテスタントが有力というが、原始北欧の異教的な雰囲気も感じられる。
小生が子供の頃に町役場で見た構内交換機と同じものがあった。
平野に迫る氷河。農耕地は非常に限られている。
セリリャンスフォス滝の落差は40m。
トイレ休憩のついでにスーパーに立ち寄る。物価はほぼ日本並み。
デイナーはロブスター料理。アイスランドのロブスターは「手長エビ」で、食べる雰囲気は米国ニューオルリーンズ名物の「ザリガニ料理」と似ている。

昼過ぎまで晴れ間は時折見えていたが、レイキャビクの手前の町で夕食をとって市内のホテルに着く頃は絶望的な空模様に変わっていた。この夜もオーロラには縁なし。


第5日目 レイキャビック

この地を最初に訪れたバイキングは温泉から昇る蒸気を煙と見間違え、「煙たなびく湾」(レイキャビック)と呼んだ。群雄割拠の時代が長く続いたアイスランドでは、人口の一極集中が起きず、18世紀にデンマーク王が交易特許状を与えてビジネスが始まるまで、レイキャビックは人口100人程の集落だったという。1918年にデンマーク王国の下でアイスランド王国が成立、レイキャビックが首都に定められたが、北極圏の火山島には資源も産業もなく、首都は貧寒とした町であり続けた。都市インフラが整備されたのは、皮肉にも第二次大戦時に駐留した英・米軍によるもので、冷戦時代も米軍の戦略基地として旧ソ連を睨み続けた。東西冷戦の終結で2006年に米軍が完全撤退し、レイキャビックは基地依存経済を脱して国際金融センターへの道を歩み始めたが、2008年のリーマンショックで出鼻を挫かれた。着工したビルも立ち腐れ状態になったが、昨今の経済立ち直りで息を吹き返し、バブルの象徴と嘲笑された音楽堂も立派に完成した。

現在のレイキャビックの人口は11万、周辺を合わせても18万で、一国の首都としては小さいが、アイスランドの総人口32万の6割が首都圏に集中している計算になる。レイキャビクには自慢が一つある。それは地熱利用の給湯システムで、中央の丘に設けられた貯湯タンクから全市の家庭とオフィスにクリーンな熱湯が届けられている。アイスランドの電力も水力と地熱発電で、火力・原子力は皆無。クリーンな電力で水素を作り、自動車も水素化して化石燃料を全廃することを社会目標として高く掲げている。バイキングの進取の気性は今も生き続けているらしい。

朝まだきのレイキャビック市街。
1986年にレーガン・ゴルバチョフ会談が行われ、東西冷戦終結に踏み出した迎賓館。レイキャビックはモスクワとワシントンの中間にある。
バブル崩壊で立ち腐れになった音楽堂が経済復興で立派に完成。
ハトルグリムスキルキャ教会。玄武岩の柱状節理が建築のテーマ。
教会の内部。ステンレス製パイプオルガンが異彩を放つ。
教会前に立つエイリクソン像。コロンブスより500年前にアメリカ大陸に渡ったバイキングとされる。1千年祭で米国が寄贈した像というから、渡航の根拠が明らかになったのだろう。
給湯タンクの屋上から俯瞰。なかなか雰囲気のある市街。
1881年建立の国会議事堂。現在の議場は裏の近代的な建物の由。
議場前に立つ独立の指導者ヨウン・シグルズソンの像。
議場隣りのルター派教会。
市役所裏のチョルトニン池。
湖畔の奇妙な彫刻で、サラリーマンを表わしたとか。身につまされる思いが湧く。
レイキャビクの銀座四丁目。
クリントン元大統領も並んだという名物ホットドックスタンド。
市街から50㎞西の「鬼押し出し」にある世界最大の露天風呂ブルーラグーン。地熱発電所の廃湯再利用で、少々ぬる目だが30分もつかるとポカポカ温まってくる。
市内に戻って波止場のレストランへ。
窓からオーロラ・ツアー船が見えた。夕陽が期待を持たせる。
この食事は銘々払い。代金は欧米の常識よりやや高目だが、日本の高級レストラン程ではない(近頃行くこともないが)
円安が更に進行すれば、庶民の海外旅行は諦めざるをえなくなるだろう。円安は日本の価値が下がるということ。国力が低下するのだから仕方がない。

午後の晴れ間は夕食を楽しんでいる間に消えていた。ツアー最後のプログラムはレイキャビック湾のオーロラ・クルーズ。海上でオーロラを眺めようという趣向だが、不機嫌な空模様に加え、揺れる船上からオーロラは撮れない。旅の最後の酒盛りのつもりで乗船したが、午後9時出港と共に雲が切れ、星空にオーロラが現れた。こうなったら撮るしかない。船が無料で提供する北海の漁師が着るようなゴツイ防寒具を大急ぎで着こみ、吹きさらしの展望デッキに陣取る。カメラの感度をISO12600まで目一杯に上げ、シャッター速度1/3秒でオーロラが写ることを確認。揺れるデッキに三脚を立てても逆効果なので、船のローリングを打ち消すように体を揺らしながら手持ちで撮ることにする。

21:26 身支度をして最上階のデッキで撮り始める。
21:33 市街東側の小高い丘の上に現れたオーロラ。上部に暗赤色の帯が薄く出ている。
21:53 2本の帯が現れた。
22:05 緞帳のように幾重にも広がる。
22:08 渦巻きも現れた。
22:40 船が埠頭に近づき、これを見納めにしてキャビンに戻る。

撮った写真を伸ばして見ると、どのコマも船の揺れで星が不規則に流れている。カメラの感度を目一杯上げた結果画面の荒れも目立ち、作品に使えそうな写真は1枚も無いが、それでも「撮ったぞ!」という満足感はあった。2度目のオーロラを見ることが出来た強運に感謝し、残り少ない人生もせいぜい「日頃の行い正しく」生きることにしよう。