「旅は行けるときに行かないと、行けなくなりますよ」と写真の川口邦雄先生が口癖のように言っておられた。本人の病気や高齢化で旅に出られなくなったり、行き先の政治情勢や治安の悪化で渡航不可になることがある(小生はこれまで3度経験)。昨今はその両方(本人の体力低下と紛争リスク)が重なりかねない。
これまで東ヨーロッパを訪れる機会が無かった。ツアー会社から送られたパンフにポーランドとスロバキアの山歩きがあった。古都クラクフと首都ワルシャワの観光、オプションでアウシュヴィッツ収容所の見学もある。円安で海外ツアー料金が高騰し、長時間フライトも辛いが、思い立ったが吉日で半年前に申し込んであった。隣国ウクライナの状況が気がかりだったが、ツアーは予定どおり催行になった。
東西冷戦時代、旧ソ連がNATOに対抗して組織した軍事同盟が「ワルシャワ条約機構」と呼ばれたように、ポーランドもスロバキアも旧ソ連圏で、それらの国に先入観があった。訪れたことのある旧ソ連圏の国はモンゴル、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、極東ロシアのカムチャツカだったが、共通するのはごつい建物と活気のない街、豊かと言えない暮らしぶりで、ホテル・メシも上等とは言えなかった。一言で雑に言えば、貧乏くさかった。
そんなイメージがポーランドでひっくり返った。スロバキアは国境の1軒宿に泊まって近くの山を歩いただけで多くを語れないが、ポーランドは豊かな先進国で、どこに行っても貧乏くさいところなどなく、ホテルもメシも大満足だった。帰国してCIAの国情比較データ(The World Factbook)を調べると、一人当たりのGDPは日本とほぼ同じ(日本:46,300ドル、ポーランド:44,100ドル)、日経新聞が2022年に公開した国別幸福指数は、ポーランドの方が日本より上位だった。
ポーランドは地勢的に列強(ロシア、ドイツ、スウェーデン)に挟まれ、国家の分割・消滅を含む苛烈な歴史を経験してきた。第二次大戦後はソ連圏に組み込まれ、一党独裁・軍事政権下で膨大な借金から経済危機が深刻化し、国民は飢餓状態に陥ったが、厳しい弾圧・戒厳令下で生まれた民主化運動「連帯」が1989年6月の総選挙で勝利し、指導者のワレサ(ヴァウェンサ)が大統領に選ばれ、1993年にロシア連邦軍が全面撤退し、ポーランドの再生が始まった。
危機的状況にあったポーランドは30年で日本と肩を並べる国になった。日本も敗戦貧乏国から30年で世界2位の経済大国になったので、どの国も調子に乗ればそうなれるかもしれず、隣国ウクライナが「ポーランドを見習いたい」と思ったのも頷ける。それにつけても、日本はその後の30年を寝て暮らしたことになる。今日の総選挙で「日本のワレサ」が出るかどうか…
成田を23:30に離陸したポーランド航空のワルシャワ直行便は、北京、ウルムチ、カザフスタン、ジョージア上空から、ロシア領空とウクライナを避けてルーマニア、ハンガリー、スロバキアと大きく迂回し、13時間のフライトでワルシャワに到着。ウクライナ侵攻以前はシベリア経由で10時間で着いた筈で、ロシアの蛮行が乗客・乗員の時間と燃料を浪費させている。
ワルシャワで4時間の待ち合わせで国内線に乗り継ぎ、40分のフライトで南部のクラクフ着。機上から見た美しい街並み、豊かな農村風景と共に、あちこちで道路建設が進んでいるのが印象的だった。
クラクフから更に南のスロバキア国境の山岳地帯まで高速道路を3時間走る。ベンツの快適な小型バスと車内で昼食に供されたサンドイッチの内容・ボリュームからも、ポーランドが予想していた以上に豊かで快適な国と実感する。
スロバキアとの国境は検問所もなく自由に通行でき、窓から見える街並みも特段の違いはない。ポーランドとスロバキアは共にカトリックで民族・文化的に近く、言語も方言程度の違いらしい。国を分けたのは領主の領土争いと列強の覇権争いで、複雑な歴史と動乱の時代を経て、近年になって両国共にEU加盟が成ったが、ポーランドは今も独自通貨「ズオティ」を用いる(スロバキアはユーロに切替え済)。一つの国が分裂することはあっても、隣国との国家統一は滅多に起きない。
スロバキアの山間を30分ほど走り、舗装道路の行きどまりで4駆車に乗り換えて険しい山道を10分ほど登り、やっと最初の宿舎の「山岳リゾート」に着いた。千葉の家を出て30時間余の長い旅の1日だった。
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今回のツアーのメインテーマは「ポーランド・スロバキア国境の山歩き」だが、不安が二つあった。一つは強い低気圧が近付いていたこと、もう一つは出発の数日前から左腰に痛みが生じていたことだ。
前日の夕食時に添乗員が「雨になるかも…」と予防線を張ったが、夜中に雨の気配はなかった。宿舎の正面の急峻な岩山はロッククライミングのゲレンデで、夜明け前から岩壁にとりつくクライマーのヘッドランプが点々と見えた。明るくなると青空が見え、豪雨の懸念はひとまず去った。この日の予定は、宿舎裏の山裾を歩いて3.5km先の山腹の湖までの往復で、旅の案内には「往復約2時間」と書いてあった。
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往復2時間のコースに我々は5時間近くを要した。現地の登山地図を参考に2時間と書いたらしいが、ヨーロッパ人のハイカーは山道を平地のようにスタスタ歩くので、日本人の高齢ハイカーの参考にならない。今回のツアー参加者の最高齢は84歳(小生は2番目)、平均年齢は75歳前後で、山岳ガイドにそのことを話すと、高齢ハイカーは日本人のグループだけで、何故なのかガイド仲間で不思議がっているという。そう言われれば小生の乏しい経験でも、ヨーロッパの山やヒマラヤで出会った老人は日本人だけで、どうやら高齢登山は日本独特の文化らしい。だが我が身を振り返えれば、老人になるまで海外の山歩きなどするヒマもカネもなかっただけで、あまり自慢できる話ではない。
第二の不安(腰痛)について中間報告しておく。出発して1時間半は普通に歩けたが、次第に痛みが左股関節周辺に集中し、両手のポールに体重を預けて歩くことになる。帰路の後半は「ガマンと根性」の境地で、宿舎にやっとたどり着いてジャクージとサウナで回復を図ったが、これから先の旅が思いやられた。
朝から小雨模様で、午前中に予定した山歩きは近場に短縮された(小生は救われた)。前日の教訓からメンバーを「強組」と「弱組」にグループに分けし、強組は男性ガイドとグングン歩き、弱組は女性ガイドとボチボチ歩くことになった(小生は迷わず「弱組」に手を挙げた)。
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往復1時間の軽い山歩きを終えてスロバキアの宿舎を撤収し、ポーランドに戻って次の宿泊地のザコバネに向かう。ゲラルホウスキは山中の一軒宿だったが、ザコバネはスイスのツエルマットのような山岳観光都市で、土産物屋やレストランが軒を並べ、その奥に我々のホテルがあった。午前の山歩きと3時間のバスの旅で腰痛が悪化、ホテルの長い廊下の壁をつたい歩きして部屋に倒れ込み、繁華街の観光をパスして休養した。
歩ける状態に回復したが天候が悪化、TVニュースがポーランド西部の記録的豪雨を報じていた。この日の予定はポーランド・スロバキア国境の標高2千mの稜線歩きだが、稜線までのロープウェイの運行が危ぶまれた。強風が吹かなければ動く由で、駅に行くと連続運転で満員の客を運んでいた。日本からはるばる来た高齢ハイカーも多少の雨にはめげないが、何も見えない雲の中を歩いてもつまらない。行程を短縮して下山し、午後は麓の観光で費やすことになった。1時間足らずの山歩きは何とかこなしたが、観光スポット巡りの長歩きがつらく、夕食で近場のレストラン往復もキツかった。
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ザコバネからクラクフに移動の途中でヴィエリチカ岩塩坑を見学。1978年にユネスコ世界遺産が発足して最初に登録された12件の一つで、13世紀から1996年に商業採掘を終えるまで、700年にわたる採掘で延長300kmの地下坑道が掘られた。その内の3.5kmが観光用に整備され、年間110万人が訪れる名所になっている。単純計算で1日平均3千人になるが、周辺で入場を待つ人波を見れば誇張ではなさそうだ。
見学コースに採掘現場や運搬設備もあるが、岩塩を堀り出した後の空間に作られた地下教会や大聖堂、そこに飾られた聖像や宗教レリーフの彫刻が見事で、まさに「地下美術館」だが、建築家や芸術家の作品ではなく、地下で働き地下で暮らした坑夫たちが宗教的な気分で創ったものだという。芸術性の高さはシロウトの域を越えるが、宗教にすがって生きるしかなかった地下労働者の魂の叫びだったかもしれない。
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クラクフは11世紀から17世紀初頭にワルシャワに遷都するまで首都だった都市で、立派な大学もあり、日本の京都を思わせる(第二次大戦の戦火を免れた点も似ている)。14世紀にユダヤ人を招き入れて繁栄を図った時代があり、ユダヤ系の人口が多かった。映画「シンドラーのリスト」は、この地でユダヤ人を多く雇用していたドイツ人工場主のシンドラーが、ユダヤ人労働者を国外工場に転出させて救った史実を映画化したものという(小生は見ていないが)。
そんな歴史ある古都を歩いての観光だが、腰痛の街歩きは山歩き以上にキツい(歩く距離が長く且つ石畳が腰に響く)。山歩き用の両手杖にすがってぶざまに歩き、ガイドが立ち止まって説明する間はその場にしゃがみ込んで痛みに耐えた。
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鎮痛剤が効いたのか痛みが軽減し、街歩きを楽しむ気分が戻った。午前中の市街観光でヴァヴェル城から大学地区を経て旧市街地へ。戦災を免れた建物が美しく維持され、世界遺産を守る気概を感じさせる。
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午後はクラクフ郊外のアウシュヴィッツ博物館を訪れる。オプションのツアーで代金は安くなかったが、ここまで来て見ないわけにはゆかない。ナチスドイツがユダヤ人を強制収容・大量虐殺した施設跡を、ポーランド政府が1947年に国立ミュージアムとして永久保存を決め、1979年にユネスコ世界文化遺産に指定された。つい最近、ゲート周辺の建物と受付施設を更新した由で、近代美術館のように見えないこともない。
アウシュヴィッツに強制連行されたユダヤ人は、ハンガリーから43万人、ポーランドから30万人、フランスから7万人、オランダから6万人、ギリシャから5万5千人、ボヘミアから4万6千人等々、総数約160万人とされる。到着すると、労働力として無価値な老人、子持ちの女性と子供はそのままガス室に送られ、生かされた者も過酷な労働と劣悪な衛生環境で短期間で絶命し、抵抗者は容赦なく処刑された。ユダヤ人を根絶やしする目的の「絶滅収容所」はアウシュヴィッツの他にポーランドだけで6カ所、クロアチア、ベラルーシにも設けられ、犠牲者の総数は600万~1100万人にのぼったと推定されるが、記録がなく、「数えきれない程多くの…」が正しい答えになる。
戦争は人間の精神を狂わせるが、人間はここまで狂うものなのだろうか? 狂ったのはドイツだけでなく、我々の国も同じ時代に「一億火の玉」になった。規模や程度の違いはあるにしろ、今も理性を捨て去った国があり、そうなりかけている国もある。超大国が狂ったら、たぶん人類は滅亡するだろう。
我々のツアーに日本人公式ガイドの中谷 剛さんが付き、彼の坦々とした説明の底に「人間はまた狂うかもしれない」という重い問いかけを感じた。同氏の著書「ホロコーストを次世代に伝える」(岩波ブックレット)は一読の価値がある。
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小生は2015年にドイツ・ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所跡を訪れたことがある。1932年に開設されて絶滅収容所の原型になった施設で、大戦後にいったん撤去されたが、2003年に歴史史跡として再構築されたもので、ナチスを生んだドイツ国民の「深い反省を込めた厳しい歴史観」を感じた(南ドイツ ダッハウ強制収容所跡)。
アウシュヴィッツの展示にも心を揺さぶられたが、個人的な感想を言えば、「博物館」として整えられたことで「観光施設」の臭いが強くなったように思う。多くの人が「快適に、効率よく歴史に触れる」ことが悪いとは言わないが、問いかけている内容が深刻なだけに、観光色が出ない配慮が要るのではないか。
収容所跡をそのまま残している施設がアウシュヴィッツのすぐ近くにあることを現地で知った。2km離れたビルケナウに増設された収容所の跡がある。ここにはゲートがなく入場料を取らず説明パネルも無い。荒涼とした原っぱに収容者を運んだ鉄道の引き込み線があり、管理棟と木造の収容棟が寒々と立っているだけだが、我々の時代に起きた過ちの重大さを背筋に感じさせる。アウシュヴィッツを訪れる人は必ずビルケナウも訪れるべきだろう。
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空港に「ワルシャワ・ショパン空港」とその名を冠するほどショパンはワルシャワを代表する人物で、ゆかりの観光スポットも多いが、山歩きツアーの我々はサッと見ただけ。79歳でピアノを習い始めて90歳でショパンコンクール出場をうそぶいた者としては(30歳の年齢制限があると後で知ったが)、もっとショパンに浸りたい気分が残った。
ポーランド人の ”Chopin”が「ショパン」とフランス読みなのが不思議だったが(ポーランド読みはホピン)、父親がフランス人で、その時代からポーランドでも「ショパン」で通っていたらしい。それはともかく、ワルシャワに生まれてワルシャワ音楽院で学んだショパンは、より広い天地を求めて20歳でワルシャワを離れた。音楽家としての活動はウィーンとパリが拠点で、37歳で生涯を終えるまでワルシャワに戻ることはなかったが、故郷を捨てたわけではない。自分が死んだら心臓をワルシャワの教会に納めるように姉に懇願し、その思いがかなって聖十字架教会の柱に埋められている。
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ワルシャワは第二次大戦で破壊されたが、旧市街は昔の姿に美しく復元された。新市街は再開発でユニークなデザインの高層ビル群が目をひく。冒頭に記したように旧ソ連時代は陰鬱な建物が並んでいた筈だが、現在残っているのは「スターリンの遺物」と揶揄される殿堂が1棟だけで、他に旧ソ連を感じさせるものはない。
モダンな建築だけでなく、路面電車(トラム)は全て連接車体の新車、道路を走る車も中級車以上のピカピカでポンコツはゼロ。両手に杖を突いて地面を見ながら歩いたが、道路にゴミが落ちていなかったことも付記しておく。要するにワルシャワは一流の都市である。
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ツアーレポートが「腰痛旅日記」になり、読者諸賢のご不興を招いたことをお詫びします。筆者は中年以降しばしば腰痛に悩まされたが、今回はこれまでと違う左股関節周辺の痛みで、脊椎狭窄症? 股関節の軟骨摩耗? と心配になり、帰国早々に整形外科を受診したが、「老化と運動不足による筋力低下が原因」と診断され、鎮痛・消炎剤服用でひとまず痛みは去り、安心と無念が入り混じった複雑な心境にある。