2009年8月24日に奥穂高岳を登頂、深田久弥「日本百名山」を夫婦で登り終えた。1996年に百名山踏破を思い立ってから13年かかったことになる(1996年以前に8座登頂、2005~6年はバヌアツ派遣で中断)。若い頃は本格的登山と無縁で、百名山を始めてからも現役時代は日程に制約がある。距離的に遠い山から先に片づけようという方針もあって、我々の百名山踏破では、北アルプスの殆どが最終段階まで残っていた。
「一番好きな山は、最後に登った山」と言ったのは、深田久弥だったと思う。今シーズンはもっぱら北アルプスだったので、印象が強いのは当然だが、最も山らしい山が揃っているのは、やはり北アルプスだろう (山岳写真家の作品にも北アルプスが圧倒的に多い)。百名山の締めくくりに北アルプスを登ったのは、達成満足感の点でも良策だったと思う。
「日本アルプス」と命名した人は、明治中期に大阪造幣局で鋳貨を指導した英国人技師ウィリアム・ガウランド(William Gowland)だが、これらの山々をくまなく踏破し、「日本アルプス」等の著書で世界に紹介したのは、英国人宣教師のウオルター・ウェストン(Walter Weston)だあった。彼の著書は今も文庫本で入手できる。驚異的な健脚に加え、英国人らしい冒険心と良質のユーモアを覗かせた健筆にも感嘆させられる。
冶金技師のガウランドも、余技の考古学で日本の遺跡発掘の黎明期に大きな足跡を残した。発展途上時代の日本を支援してくれた外国人には、質の高い人が少なくなかったようだ。小生にも途上国支援にささやかな経験はあるが、活動の質や成果は彼等の足元にも及ばず、甚だ忸怩たる思いがする。
高校1年の時、大人に交じって白馬岳に登った。細かな記憶はないが、小生が蛇腹カメラで撮った写真が親の遺品のアルバムに残っていた。セミ版フィルム(6×45cm)を密着焼した小さいプリントだが、スキャンしてみると、我ながらなかなかの出来である(最初の2枚)。「栴檀は双葉より芳し」かったかもしれないが、香気に気付かず若葉で枯らせてしまった。
相棒(つれあい)が白馬岳に未登頂だったったので、足慣らしのつもりで付き合った。一番楽なコースの栂池から登り、山頂の小屋で一泊して最短距離の大雪渓を下ったが、愕然としたことがある。昨年までは登山地図のコースタイムで歩いたが、今年は大幅にオーバーしたのだ。地図の説明をよく読むと、標準タイムは40代男性とあったので、少し気をとり直したものの、アラコキの身を改めて自覚し、今後の登山は安全第一と心に決めた。
それはともかく、今年は梅雨がグズグズして登山者が少なく、山小屋が不景気らしい。山頂の小屋で個室を薦められ、話のタネに泊ってみた。畳2枚の小部屋で火の気がなく、網走で見学した監獄の独房を思い出した。詰め込みの雑居部屋には気づまりもあるが、同室者との交歓や人いきれ暖房も、登山の楽しみの一部と気付かされた
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黒部源流三山を縦走するつもりで家を出たが、天気予報が二転三転。山中で何日も降り込められるのは辛いので、行き先を鹿島槍に変更した。健脚なら1泊コースだが、白馬の教訓から山中2泊でゆっくり登ることにした。
山を遠望して山名を判断することを「山座同定」と言う。山の姿や位置関係が頭に入っていないと難しいが、山歴の浅い小生でも鹿島槍はすぐわかる。双耳をピンと立てた「美人の山」である。「姿の良い山はキツイ山」と以前に書いたが、鹿島槍も該当する。南稜からのルートが比較的安全だが、爺ヶ岳を経由する稜線歩きが長い。往路は天候が保ってくれ、立山や剣岳の東面を眺めながら登ったが、帰りは雲の中だった。
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林道や登山道整備のおかげで、殆どの百名山は登り始めてその日の内に山頂に立てる。例外は北アルプス最深部の黒部源流の三座で(黒部五郎、鷲羽、水晶)、どの山も、天狗様でない限り登山口から2日を要する。三山はU字状に並んでいて、百名山消化登山では、U字の一辺から他辺へ縦走して、最短で一挙に「片づける」のが一般的らしい。だがこのコースには、日本三大急登の一つ「ブナ立尾根」や、長大でアップダウンの激しい尾根歩きがあり、アラコキ登山者は二の足を踏む。
地図を睨んで悩んだ末、U字縦走ではなく、Y字型のピストン登山を思い付いた。前泊+山中4泊+下山後「温泉」泊で、6泊7日の長丁場になるが、盆休みが過ぎれば山小屋も混まない。前政権の「緊急経済(選挙?)対策」のお陰で、週末に走れば高速料金はタダ同然になる。
土曜に奥飛騨の温泉に前泊し、日曜朝ゆっくりと宿を出て、新穂高の満車の無料駐車場に車をねじ込み、登り始めた。 初日は半日行程で、標高2300mの鏡平山荘まで。鏡池に槍・穂高が姿を映す絶景の撮影ポイントで、本格的三脚とプロ級カメラが砲列を並べている。デジカメ手持ち撮影の小生は、脇で小さくなって撮らせてもらった。
二日目、鏡平から弓折岳の稜線に出て、双六岳から三俣蓮華岳へ2800mの稜線を漫歩し、2400mの黒部五郎小屋に下る。好天に恵まれて大パノラマがほしいまま。これだから山登りは止められない。実行動8時間。
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三日目、小屋から黒部五郎岳を往復。近くに「野口五郎岳」もあるが、タレントの芸名を借りたわけではない。石がゴロゴロした状態を「ゴーロ」と呼ぶ地元の言葉が転じたものという。黒部五郎のトレードマークは、北東面に深く刻まれたカール(氷河の削り跡)。登山道はカールの底を縦断し、氷河に削りとられた絶壁をジグザグ登る。道筋は「ゴーロ」だが、案じたより歩きやすい。山頂でゆっくり過ごし、小屋に戻って昼食(山小屋ラーメンとしては絶品)。小屋から稜線に戻る急登に汗をかき、三俣蓮華岳をバイパスする脇道で三俣山荘へ。実行動8時間。
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四日目、三俣山荘-鷲羽岳-水晶岳を往復。本当は三俣蓮華岳が鷲羽岳だったというヤヤコシイ経緯を、深田が「百名山」に書いている。明治中期、この山域を歩いた日本山岳会の先人が、本来鷲羽岳だった現在の三俣蓮華岳の東隣の竜池ヶ岳を鷲羽岳と早合点し、その取り違えが定着してしまったらしい。
竜池ヶ岳を見た先人が、「あれが鷲羽岳だ!」思い込んだのも無理はない。元祖鷲羽岳、現三俣蓮華岳には申しわけないが、この山に「鷲羽」を連想させるものは何も無い。大鷲が悠然と羽をひろげた姿を彷彿させるのは、元竜池ヶ岳の方である。
鷲羽岳から2時間の爽快な尾根歩きで水晶岳へ。花崗岩が風化した淡赤や白の柔らかい稜線の山々に囲まれて、石英閃緑岩のこの山だけが黒々とトグロを巻いている。標高もこの辺りでは一番高く目立つ山である。山頂付近の岩場を気長に探せば水晶を拾うこともあるというが、怪しくなりそうな空模様にせかされ、岩の表面にキラキラ光る結晶を見るだけで、満足することにした。
三俣山荘に戻って遅い昼食(名物のビーフシチューランチは売切れ)。無事に目的の三山踏破を終えてホッとしたが、疲労のたまった足に双六小屋までの道が長かった。実行動10時間。
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五日目、双六小屋→鏡平→新穂高へ往路を下山。実行動6時間。新穂高の温泉宿に早目に入れてもらい、掃除が終わったばかりのかけ流しの風呂で、山中4泊のアカを落とした。 我々は5日がかりで三山を巡ったが、本当に山好きの人達は更に足を延ばし、源流三山に抱かれた高天原や雲ノ平の秘境を訪れる。山小屋でそんな人達の話を聞きながら、百名山卒業が近い我々も別なる境地に思いを馳せた。(雲の平は 2012年に歩いた。)
黒部源流三山から帰宅して天気予報を見ると、好天が続きそうで、筋肉痛もない。乾いたばかりの衣類をザックに詰め直して山にトンボ返りした。百名山のラスト登山に気負って、西穂高岳から奥穂へ縦走する難コースを目論んでいたが、友人から「百里の道は99里が半ば」と諭され、最も安全と言われる上高地→涸沢→奥穂高のルートを往復することにした。
とは言え、この安全と言われるコースでも、百名山の中では最高難度にランクされている。涸沢上部から鞍部直下まで続く長い岩場はザイテングラートと呼ばれ、ゴジラの背中のような難所である。危険な箇所には鎖やボルトの補助具があり、慎重に歩けば危険はないが、ここより怖いのは山荘から山頂に登る岩場で、高度感が加わって高所恐怖症気味の小生は足がすくむ。
午後2時過ぎ、無事山頂に立った。午後の雲が流れていたが、切れ間から800m下の涸沢も覗けた。準備しておいた「日本百名山完登」のA-3判プリントを広げ、山頂で出会ったオジサンにシャッターを押してもらい、めでたく百名山巡りを完了した。
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