「令和元年」になった。畏れながら新天皇と小生には共通の趣味がある。山歩きと山写真である。ご成婚前後は月イチペースの山歩きで百名山のほぼ半分を踏破され、1980年代の百名山ブームの火付け役と言われた。我々の百名山は周回遅れの1996年からだったが、ご夫妻の山歩きが先行したおかげで、登山道の整備や山小屋のトイレ改良の恩恵にあずかった。
皇太子時代の山写真を写真展で何度か拝見したことがある。どの作品もスケールが大きく、ゆったりした作風で爽やかな気分が漂う。山岳写真展の作品は一般に「見たこともないスゴイ景色」が多いが、そうでないと審査を通らないからで、危ない場所に行って粘り強くチャンスを待って撮る。殿下の場合は「安全な登山道で、すぐ撮る」しかなく、「あの雲が動くまでしばし待機」も許されない。従って作品は一見「誰でも撮れる風景」だが、それでも(と言うとまた畏れ多いが)感動が伝わる作品になっているのは、本当に山がお好きで、そのお気持ちを素直に写真に表わすセンスをお持ちなのだろう。ちなみに、近ごろお使いのカメラはC社の本格派デジタル一眼レフで、ずっしり重いが、お付きに持たせたりせず、ご自分で首に下げて歩かれるようだ。
話は飛ぶが、世界には世襲の王様が20人おられる(日本、タイ、ブータン、ブルネイ、英国、オランダ、スウェーデン、スペイン、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、モナコ、モロッコ、リヒテンシュタイン、ルクセンブルグ、オマーン、カタール、サウジアラビア、バーレーン、トンガ)。こうして列挙してみると、敗戦を経験しても王位が継承された国は日本以外に見当たらない。戦争に敗けた王家が命脈を保つのは異例で、太平洋戦争でもマッカーサーの軍人らしい計算と独断専行がなければ、戦勝国の合意で「お取りつぶし」になった筈と言われる。その事を(責任を含めて)誰よりも深く噛み締めたのは、昭和天皇ご自身ではなかっただろうか。皇太子としてその思いを受け継いだ上皇陛下は、「象徴天皇」としての折々の「おことば」や「祈りの旅」の中に、戦争への責任と反省の思いを深く込めておられたと拝察する。
天皇は政治的発言を封じられ、「おことば」もお付きが練りあげたものを読まれるのだろうが、それでもお人柄やお考えは滲み出る。新天皇の山写真の作風から窺がえる広い視野と爽やかなセンスが、日本国憲法が定める「象徴天皇」のお役目に活きることを、国民の一人として望みたい。それにつけても、還暦・定年の齢近くになって重いお役目を引き継ぎ、体が続く限り辞められないお立場の厳しさは、自由気ままに趣味を楽しむ隠居老人の想像を超える。天皇になられても、可能な限り、山歩き・山写真を続けられれば良いと思うのだが…
ここから先は老人山歩きの最新レポート。改元で、中世の天皇や上皇が通ったという「熊野古道」を思い出した。小辺路果無峠を歩いてから3年が経つ。久しぶりにガイドブックをめくると、「高野山町石道」(こうやさんちょういしみち)が目に入った。麓の九度山から歩いて高野山に登る参詣道で、距離と標高差は1日の行程に申し分ない。山桜がまだ残っている筈で、ついでに高野山の「宿坊」も体験してみたい。思い立ったが吉日で、早速出かけることにした。
MAP: 和歌山県観光連盟のホームページより
朝7時に千葉の家を出て11時に京都で途中下車。高野山に縁の深い東寺を再訪したかったのだが、仏様はそろって東京の国立博物館にご出張中らしい。代わりに訪れた伏見稲荷の大雑踏にビックリ。「千本鳥居」をじっくり撮るのが目的だったが、人波に揉まれてそれどころではない(下の写真は人の少ないタイミングで撮ったので、それ程多く見えないが)。大阪勤務だった20年前に訪れた時は、休日でも人に出会わなかった。今回は偶々祭礼日(神幸祭)でもあったが、参道の食堂の人の話では、数年前から急に外国人が増え、通年で混雑しているという。確かに雑踏の1/3は外国人のようだ。
どこの観光地も外国人に占領された感がある。眉をひそめる人もいるが、外国人ナシでは寂れていた筈で、賑わいを率直に喜んで良いのではないか。経済効果もさることながら、日本を訪れる年間3千万の外国人に、日本がキライな人はいない筈。政府環境局の統計では、訪日外国人の88%がアジア人で、韓国・中国(本土)が夫々28%を占める(両国で年間16百万人)。隣国の人たちを「嫌日、反日」にしないためにも、外国人旅行者を温かく迎えることに意義がある。
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翌朝は出来るだけ早く歩き始めたい。登山口の九度山に近い前泊地を探していたら、ちょっと面白い旅館が見つかった。大阪府と和歌山県境の天然温泉で、最寄り駅から徒歩1分も好都合。東京駅の設計で知られる辰野金吾建築事務所が手掛けた建物で、元は大正2年に阪堺軌道(南海電鉄の前身)が堺市大浜公園に建設した娯楽保養施設だったが、室戸台風(昭和2年)で倒壊して現在の場所に移築されたという。2002年に設計者が判明し、翌2003年に国の登録文化財に指定された。由緒ある老舗旅館にふさわしい料金だが、最安プランなら我々でもフンパツ可能で、迷うことなくそれでネット予約した(感想は ★★★★☆ 夕食に旅館会席でなく「和牛すき焼きコース」を選んだのも正解)。
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町石(ちょういし)とは、高野山の参詣道に1町(約110m)毎に建てられた石の道標を指す。九度山の慈尊院から高野山の根本大塔まで180本の町石が立ち、全コースを歩き通すと21Km、8時間の行程になる。急坂や難所はないが、長距離のダラダラ登りで、標高差はアップダウンを入れると1千mを優に超す。10年前なら歩き通せただろうが、今はムリ。
そんな弱者向けの「キセル」ルートがある。九度山から高野山行程の1/3の「古峠」(ふるとうげ)でいったん里に下り、上古沢(かみこさわ)駅から電車で終点の極楽橋駅までキセル、極楽橋から再び古道を高野山まで歩くと、累計標高差約900m、6時間の行程に短縮され、喜寿トレッカーでもガンバレば何とかなりそう(実はならなかったのだが)。
旅館にムリを言って朝食の時間を早めてもらったが、天見発7:55の電車に間に合わず、8:25発に乗車。橋本から先は急勾配・急カーブの連続で、通勤電車から車体の短い山線用の電車に乗り換える。九度山駅で下車、国道を歩いて20分の道の駅で弁当を調達し、更に10分先の「慈尊院」へ。ここにスタートの町石180番が立つ。
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古峠の分岐で当初の予定より1時間遅れていた。峠から谷底の上古沢集落へ450m下り、向かい側斜面の中腹にある駅舎へ60m登り返す。この登りが超キツく、息を切らして駅に駆け込んだが、タッチの差で13:35の電車を逃した。次の電車は1時間後。駅の周辺には全く何もなく、小さな駅舎でぼーっと待つしかない。
極楽橋駅に着いたのは、予定から2時間遅れの14:45。ガイドブックには極楽橋→高野山1時間とあるが、距離3.8km標高差320mを1時間で登るのはムリ。宿坊に17:00前に着かねばならないが、登り坂を急ぐ元気なく、極楽橋から先はケーブルカーとバスを使うことにする。車窓から見た距離感・高度感はかなりキビシく、ムリしないで良かった!
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「宿坊」を一度経験したいと思っていた。真言密教の勤行に好奇心もあるが、本格的な精進料理を食べてみたいのが本音。宗教施設ということでちょっと緊張したが、ネット検索すると魅力的なホームページが現われ、普通の旅館と同じ要領で一泊2食付を予約。別料金の写経と阿字観(禅宗の座禅に相当)体験も併せて申し込んだ。
バスを降りると宿坊はすぐ近くだった。立派な門構えと清らかに整えられた風情にタジタジとなる。何しろ当方は埃だらけの山装束に山靴姿なのだ。オズオズと門をくぐると修行僧が現われ、丁寧に声をかけて玄関に導き、塗香で清めてくれる。案内されたのは宿坊用に建てられた新館で、次間・トイレ付きの立派な和室。1泊2食付の料金は中上級旅館のレベルだが、宗教団体で税金ゼロ。風呂は午後4時~10時、中上級の旅館でこれだけ立派な風呂に出会ったことがない。
夕食は5時半。時間になると修行僧が部屋の卓を脇に寄せ、畳の上にお膳を3つ据える。「春の花山吹」の献立は、先付けに始まって水物(デザート)まで11皿。料理の材料や食べ方の説明を受けて一つ一つ丁寧に味わう。アルコールOKで、程よく冷えたビールも誠に結構。日頃ガサツに食う小生に「食レポ」の能力なく、「丁寧に整えられて品よく味付けられた美味しい料理に大満足」でご推察いただきたい(下に料理の写真あり)。
食後は次間の机で写経。普段は芳名帳の記帳もボールペンで済ます小生だが、般若心経の下書きを筆ペンで神妙になぞると、ヘタな字も少しは上手く見える。300字を写し終えるのに1時間、書き上げた般若心経は翌朝の勤行に供えて焚き上げてくれる由。写経を終えて敷いてもらった布団に横たわると、そのまま他愛なく眠ってしまった。
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時間が前後するが、夕食の前に宿のすぐ近くの金剛峯寺を拝観。高野山真言宗の総本山で、空海が唐からの帰国を前に持っていた法具の三鈷を空高く投げ、海を越えて着地したこの地に修行道場を開山したという。空海(弘法大師)にはこの種の「超能力」伝説が多い。旅先で杖を立てると水が湧き出し、水枯れに苦しむ農民を救ったという類の美談だけでなく、旅の大師を粗略に扱ってバチがあたった説話も各地に残る。この種の伝承は後世の伝道家が拡散した「フェイクニュース」だろうが、空海が天皇や上皇など時の権力者と「持ちつ持たれつ」の関係を築いていたことは史実らしい。その立場を最大限に利用した空海の飛びぬけた才覚が、壮麗な歴史遺産を今日に残したと言えるかもしれない。
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朝6時の勤行の案内で本堂に集合。勤行の前に本堂内の仏像や仏具を拝観し、祭壇正面の参列者席の椅子に座る。参加者約30名の2/3が外国人で、内半分が白人。6時半に勤行が始まり、住職以下5名の僧侶(暗くて確認できず)の読経(声明)が1時間続く。真言密教の声明は音楽性が高く、カトリックのグレゴリオ聖歌と対比される。鮮明なメロデイがあるわけでなく、言葉もサンスクリットで意味不明だが、延々と続く低音のウネリを聞いていると、何となくありがたい気分になる。この間参列者が順繰りに焼香に立つ。外国人も大半が見よう見マネで焼香するが、中にはパスする人もいる。マジメな一神教徒は、異教の礼拝作法を行うわけにゆかないのだろう。
勤行が終わって部屋に戻り、精進料理の朝食を済ませて「阿息観」を体験。真言密教の重要な修行の一つが「阿字観」で、その入門段階を「阿息観」と呼ぶ。禅宗の座禅と同じ半跪座の姿勢をとるが、無言・無念無想ではなく、大日如来を意味する「阿」(あ)音を低く発声しながら、大日如来が体現する全宇宙と自分との一体感を求める修行という。作法の説明と姿勢の講習の後、20分間の「実習」。初回で「宇宙との一体感」が得られる筈もなく、脚が痛いだけだったが、座禅の「無」より真言宗の「阿」の方が、シロウトでも境地に近づきやすいような気もする。
宿坊をチェックアウト、昼までの時間を壇上伽藍・根本大塔から奥之院まで「街をぶらり」の散策で過ごす。今回の山歩きは「手抜き」だったが、真言密教にちょっとだけ近づいた旅だった。
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