日本百名山を完登した翌年の2010年から「20××年山歩きレポート」を始めたが、2023年レポートは我ながら精彩を欠く。自身はおかげ様で病気もけケガもなく無事に過ごしていたのだが、今年の山歩きが低調だったのには何か理由があった筈だ。
先ずは夏の異常な暑さのせいにする。それも冬から春をパスして猛暑に突入し、猛暑から冬に直行した。地球温暖化は「気温が100年で1℃上昇」のスケールでの変化と理解していたが(それでも大変なことなのだが)、この夏の暑さは実感としては例年より3℃高く、24時間冷房の我が家から出る気が起きなかった。
平均気温が1℃上がれば植生が変わるのは、北アルプスと南アルプスの植生の違いで分かる。植物の環境変化への適応は千年・万年のスケールでなされるもので、急激な変化は種の絶滅を意味し、その植物に依存して生きてきた昆虫や動物も絶滅の危機にさらされる。気温上昇が全て人間の仕業ではないとしても、人類が地球に異常な負荷をかけていることは間違いなく、そのしっぺ返しが人類にふりかかると覚悟するべきだろう。
個人的な言いわけもある。柄にもなく講演を4つも引き受けてしまい、ちょっと忙しかったのだ。120分の講演が一つ、90分の講演が二つ、小学校の授業が1コマ(45分)、それも夫々違うテーマで、プレゼン作りでパソコンの前を離れられなかった。他にも近隣シニア団体がほぼ毎月発行する広報紙の編集や、喫茶室のウェイター当番、月2回のピアノレッスンの練習などなど、長く家を空けられない事情が重なった。無聊をかこつよりマシかもしれないが、隠居老人としては少々オーバーワークだったかもしれない。
90分講演の一つは3年前に予定してコロナで延期になっていた「後期高齢山歩きのススメ」で、近隣の喫茶室で開いた小生の山岳写真展示に併せて行った。還暦近くになって山歩きを始めた経験を基に、高齢の登山初心者が安全に山歩きをするための準備や注意事項、足慣らしの山、高齢者でも登れる標高の高い山、ヒマラヤ・トレッキングの実例などを紹介した(右写真)。
初心者は登りのキツサが気になるが、実は下りの方が疲れやすく事故が多いことは案外知られていない。そこで高齢登山者が1日に行動する累積標高差(登りの標高差+下りの標高差)を1200m以内で計画することを提唱した。ちなみに北アルプスの涸沢から奥穂高岳の山頂に登って直下の山荘に下る累積標高差が1000mで、1日に1200mの制限を設けても、山小屋を上手く使えば日本百名山の約7割を登頂でき、ヒマラヤのカラパタール(標高5545m)も射程内で、我ながら適切なルールを作ったと自賛した次第。
講演の翌々日、蓼科山で「累積標高差1200m」を実地体験した。何とか無事に下山できたが、自分が「後期高齢」から「末期高齢」に遷移したと実感する結果になった(詳細は下の蓼科山のレポートで)。
高尾山は初詣でほぼ毎年登っていたが、2014年(73歳時)まで登山レポートにカウントしなかった。スカイツリー(634m)より低い山に「登山」は気が引けたのだが、後期老人になれば話は変わる。上に書いた「累積標高差」を援用すれば高尾山の累積標高差は800mで、これは涸沢から奥穂高岳山頂に登るのと同じ。高尾山をバカにしてはいけない。
高尾山の自然を味わうには人通りの少ない裏高尾から山頂に直接登るルートが良いが、薬王院に参拝する時は1号路を登り、尾根に出てケーブルカー組の参詣の列に合流する。以前は長蛇の列が1時間以上に及んだものだが、コロナの影響が残っているのかスムーズに流れ、山頂の混雑もそれ程でなかった。下りは自然の山道の雰囲気が濃い稲荷山コースが好みだが、今回は「工事のため明日から通行止め」の看板が立ち工事用資材が積まれていた。安全のために登山道整備は歓迎すべきだろうが、岩や木の根がゴツゴツ出た自然の山道を注意しながら歩くから楽しいので(登山者が山歩きのリスクをわきまえることが前提だが)、麓から山頂まで人工の階段を歩かされては「山歩き」の興が削がれる。
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地理学では標高500m以下の山は「丘陵」に分類されるらしい。千葉県の最高峰は標高408mの「愛宕山」で、従って千葉県には「山」が無いことになる。しかもその愛宕山は自衛隊の基地内にあって、事前の許可ナシでは登れない。
千葉県民としては地元の「丘陵」に登るのも興の内で、山岳雑誌に「富士山展望の山」と紹介された「富山」に出かけた。最寄り駅の内房線「岩井」に特急が止まるので(我々は各停で行ったが)、当然「駅前コンビニ」で弁当を買えると思っていたら、駅前には小さな雑貨屋しかなく、この日の「丘歩き」は弁当探しで始まった。
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コロナ禍で中小のツアー会社が存亡の危機にさらされ、世話になったベテラン社員も転職を余儀なくされた(大手はワクチン接種業務で口糊を凌ぎ、水増し請求で世間を騒がせたが)。コロナがやっと下火になり、ツアー会社から募集のパンフやメールが届くようになった。その中に「日本の国立公園・深掘りツアー」の企画があり、かねてから行きたかった伊豆大島探訪のツアーに参加した。
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雨に祟られて三原山登頂を果たせなかったが、伊豆大島の自然と歴史にふれ、現地ガイドや同行スタッフの心意気に感ずるところもあり、決してムダな旅ではなかった。
国立公園深掘りツアーの続きで、箱根旧街道と富士山御中道を1泊2日で歩くツアーの案内があった(伊豆・箱根・富士は「富士箱根伊豆国立公園」でくくられている)。リーダーは前回の「雨男」だが、名誉挽回を期待して参加することにした。
「箱根八里」の峠越えは大井川の渡しと共に東海道の難所とされた。八里は小田原宿から三島宿までの距離(32km)で、途中の箱根に厳しい関所があった。我々が歩いたのは箱根湯本の街外れから箱根宿までの約2里(8km)で、標高差520mを半日かけて歩いたが、江戸時代の旅人は健脚で、峠を越えてその日の内に三島宿に着いただろう。
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二日目は先ず富士吉田の浅間神社に参拝し、紅葉台で富士山を眺め、スバルライン五合目駐車場で弁当を開き、御中道を歩いた。お中道は富士山の中腹を一周する参詣道で、江戸時代は富士山頂に3度登らなければ歩くことを許されなかったという(小生は7度登ったので有資格)。今は大沢崩れが進行して南半分が通行できない。我々が訪れた時はその手前でも崩落があり、途中の奥庭から下山した(この日歩いたのは江戸時代の御中道の1/6ほど)。
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御中道はアップダウンがなく歩きやすい遊歩道で、日本一の富士山頂をすぐ近くに望む景観は「非日常的」と言える。新宿から高速バスで2時間半の五合目駐車場から2時間で奥庭を往復し、午後のバスで東京に帰る「非日常体験」をお薦めしたい。
9月10日に松本市のある団体の集まりで120分の講演をする機会をいただいた。家であまりしゃべらないオトーサンの2時間の「講演」など聞くことがない相棒も参加させていただき、帰り道で久しぶりの本格登山(?)をすることにした。行き先は八ヶ岳北端の日本百名山の蓼科山で、2000年5月に登った時は南麓の女ノ神茶屋(標高1650m)から急坂を直登し、けっこうキツかった記憶がある。今回は最短距離の北麓の蓼科神社(標高1900m)から山頂を往復した。累積標高差は高齢者の行動制限とした1200mギリギリになる。
目出度く登頂して無事に下山できたが、所要時間は標準コースタイムの1.8倍を要した(昨年までは標準の1.5倍以内で歩けた)。これを加齢による体力急降下と言わずして何と言うか…
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4年ぶりの海外旅行で娘夫婦が住むシアトルに出かけた。米国旅行は2007年10月以来15年ぶり、ツアーでなく個人旅行も15年ぶりで、ネットでフライトを予約する時に苗字と名前を入れ違えるポカミスを犯し、チェックイン時にひと悶着した。現地では娘夫婦におんぶにだっこの世話になり、英語要らずの旅をさせてもらったが、それにしても英語が出てこないのに愕然とした。元々上手くはなかったが、30年にわたって米国・カナダの商売に身を置き12年余の駐在経験もあり、時に「日本人にしては…」とお世辞を言われたりもしたのだが、錆びついてモゴモゴになっていた。
モゴモゴは英語だけではなかった。最安チケットを買ったバツで8時間身動きがならず、股関節が固まって歩くと痛みが走り、物につかまってモゴモゴ歩く仕儀となった。
股関節モゴモゴで楽しみにしていた山歩きがままならぬ状態だったが、シアトルのシンボル、レーニア山には是非行きたかった。
レーニアはシアトルの南東にそびえる成層火山で、現地の日系人は麓のタコマ市の名を借りて「タコマ富士」と呼ぶ(右の写真でご納得いただけるだろう)。標高が富士山より600m高く緯度も高いので、中腹から上は氷河に覆われてシロウトが登れる山ではない。中腹の展望台まで自動車道路(無料)が通じ、トレッキングのルートも充実している。前週の降雪でクローズしていたが週末のみオープンの情報があり、とにかく行ってみることにした。
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2日間の静養で股関節の具合が多少安定し、モゴモゴながらも軽い山歩きが出来そうになったので、娘夫婦が慎重なプランを立ててくれた。1日目はシアトルから北上し、カナダ国境に近いノースカスケードのベイカー山(標高3288m)の展望台を目指すことにした。ベイカー山も富士山型の秀麗な火山で、紅葉最盛期との組み合わせに期待したのだが、「晴れ、所により時々雨」の天気予報のとおりで、駐車場から上は濃い霧と雨だった。1時間ほど歩き、この坂を登りきれば景色が見える筈というところまで行ったが、股関節にモゴモゴが現われ、せっかく登っても景色が見えないことを理由に撤退させてもらった。
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夕食のメキシコ料理の後に飲んだテキーラが効いたのか、ぐっすり眠って股関節の痛みが消えていた。4時間くらいは歩けそうなので、カラマツの紅葉が美しいと言われるブルーレイクを訪れることにした。
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2日目の夜に泊まった田舎町のブルースター(Brewster)で昔の記憶が蘇った。1970年に工場勤務から海外事業部門に転属し、最初の仕事が衛星通信用の地上局機器の国際入札の手伝いだった。当時は静止衛星による国際通信が本格化した時期で、米国のワシントンDCに本拠を置く国際衛星通信会社の地上局が米国に3カ所あり、その一つがブルースターだった。それがどこなのか地図を調べることもなく半世紀が過ぎ、今回地名を見て「ひょっとして」と思いあたり、町の名所案内を調べると今も地上局があった。近くに行ってみると、当時のものと思われる直径30mの巨大なパラボラアンテナが立っていたが、半世紀前に落札して納入した局内用の装置はとうの昔にお役御免になった筈だ。
ブルースターはリンゴの里でもある。日本のリンゴ園では3mほどのリンゴの木から厳しく選果し、1個ン百円の芸術品のようなリンゴを収穫するが、米国のリンゴ園では人の背丈ほどのリンゴの木(と言えない程小さい)に鈴なりに実を付けさせ、機械で幹を揺さぶって実を落とさせて、1箱ン百円で売る。米国の Apple を美味いと思ったことはなく、そもそも日本のリンゴとは別の物と思った方がよい。
ブルースターから南下すると見渡す限りの平原に低い丘が波打ち、大きな岩の段差や深く削られて出来た湖があちこちにある。この辺りは氷河期の末期に巨大な氷河ダムの決壊で出来た特殊な地形と考えられている。ダムのサイズは日本の本州ほどもあり、決壊で生じた水の壁は高さ200mに及んだというから、米国は何事も有史以前からスケールがデカかったのだ。
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平原を南下し、オレゴンとの州境に近いヤキマで1泊、夕食は米国に行ったら絶対に食おうと決めていた特大ステーキを楽しんだ。
朝起きるとこれまで水蒸気を含んでいた空気がカラッと乾いていた。この日はヤキマ周辺を見学してシアトルに帰る予定だったが、レーニア山がオープンしていることを確認し、3つある展望台で最も標高の高い(1952m)サンライズに行くことにした。
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シアトルはアラスカ・ゴールドラッシュの中継地として発展し、第二次大戦時に航空機メーカーのボーイングが全米から高度な人材を引き寄せ、その人材を基にマイクロソフトが発展し、Starbacks が特異な文化を作り、今やGoogleが飛ぶ鳥を落とす拠点になっている。我々の時代はサンフランシスコの南のベイエリアがハイテクの中心として発展したが、今やシアトルがお株を奪った感がある。
海と山に囲まれたシアトルは土地が限られ不動産価格が暴騰しているが、IT企業は給料を惜しみなく払っているらしい。娘夫婦などIT業界外の住民にとって物価の高いシアトルは暮らしやすい町ではないが、カネが回われば能力の高い若い人材が集まって活気が生まれる。その多くが中国系の「出稼ぎIT技術者」で、技術の流出は避けられないが、IT技術は作ったとたんに陳腐化するから気にすることもない。世界中から若く優れた人材をカネでかき集め、消費者からカネを吸い上げてボロ儲けする仕掛け作りに狂奔しているのが、米国の最先端の実態なのだ。
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旅の最終日、シアトルからフェリーで対岸のベインブリッジ島に渡った。林の中に閑静な住宅が点在する別天地で、シアトル市民が息抜きに訪れる広大な自然公園もある。この島に第二次大戦中に起きた日系人強制収容の記録を展示するメモリアルがある(Bainbridge Island Japanese American Exclusion Memorial 日系米国人排斥記念館 英文パンフレット)。
1942年3月30日、この島で開墾にあたっていた日系人276名が米陸軍によって強制的に収容・連行され、アイダホの収容所に送られた。彼等が乗船させられた波止場周辺がメモリアルに指定され、276名に合わせて長さ276フィートの展示パネルにそのいきさつが記されている。屋内展示の施設は管理事務所を兼ねた小さな小屋だが、本格的な記念館の建設募金が進められ、近々着工の予定という。
日系人の大半が米国籍を保有していたが、日米開戦で敵国人と見做され、西海岸の日系人は日本軍の上陸作戦を支援する怖れありとして強制移住させられた。戦後38年を経た1983年、米国政府はこれを不当な差別だったと認め、日系人の基本的人権と自由を奪ったことについて時の大統領ロナルド・レーガンが正式に謝罪した。この記念館のメインテーマは「二度とないように」(Let It Not Happen Again) で、このメッセージに民主主義のリーダーとしての米国の理性と決意が感じられる。米国がこれからも理性を曇らせないで欲しいと願うのだが、雲行きがあやしくなってきたようにも感じられるこの頃である。
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