前月掲載した「白馬山麓 ちょこっと山歩き」の最後を「もうちょっと頑張っても大丈夫だったかな」、「さて、次はどこへ…」と結んだ。できれば3千m峰に立ちたいが、傘寿ペアにムリは禁物。思い当たったのが乗鞍岳(3026m)。日本の3千m峰で乗鞍岳ほど容易に登れる山は他にない。何しろ標高2703mの畳平(たたみだいら)まで路線バスで行けるのだ。登山道に危険な箇所はなく、標高差320mをゆっくり登って2時間で山頂に着く(高尾山より楽チン)。中間と山頂直下に小屋があり、へばっても何とかなる。

畳平に路線バスが通ったのは、戦後間もない昭和24年(1949年)。現在スカイラインと呼ばれている岐阜県側の山岳道路は、実は旧日本陸軍の軍用道路だった。米国の「B-29」高性能爆撃機の計画を察知した陸軍航空本部(注)は、これを高空で要撃する戦闘機のエンジン実験施設を畳平に開設するため、機材と人員の輸送に15Kmの山岳道路を昭和16年(1941年)に着工し、突貫工事で翌17年に開通させた。戦後になって岐阜県に移管され、山岳観光道路に生まれ変わったのである。(注:当時は日米共にまだ「空軍」は存在せず、陸上基地からの要攻撃は陸軍の任務だった。)

この道路には更にエピソードがある。陸軍から道路の設計・施工を命じられた岐阜県は、軍用車両の通行に必要な巾3mの道路建設を32万円(現在の貨幣価値で約3憶2千万円)で請け負った。 この話に乗ったのが地元濃飛バスの社長で、戦争終了後に払い下げを受けて観光バスを通すべく、道路巾を3.6mに拡幅して建設するよう働きかけ、追加費用の8万円(約8千万円)を個人負担することで陸軍の承諾を得た。あちこち手を回したと想像するが、社長の先見どおり昭和23年に岐阜県道になり、早速バスの試運転が行われ、翌24年から路線バスの運行が始まった(右写真は濃飛バスフェイスブックから)。戦後間もなく食う物もろくに無かった時代に、どんな人たちが乗鞍まで遊山に出かけたのか、興味が湧く。

話を戦中に戻す。標高2700mの畳平に実験施設が建ち、昭和19年に東大の研究者などが動員され、空気の薄い成層圏で出力を維持できる過給機(ターボチャージャー)付き新型エンジンの開発にあたったが、その頃米国では既にB-29が量産体制に入り、中部太平洋の基地を飛び立ったB-29の編隊が日本の空を跳梁した。それまで日本国民にとって「戦場」は海の向こうだったが、B-29編隊の都市爆撃(空襲)で日々の暮らしの場が戦場と化し、2度のB-29による原爆投下で息の根を止められた。

「B-29に敗けた」という感慨が湧くのは、我々の世代が最後だろう。昭和16年生まれの小生はまだ物心つかない幼児で、当時住んでいた地方都市は空襲を免れたが、日本海側の都市爆撃に向かうB-29の編隊が上空を飛び、空襲警報のサイレンで避難した防空壕の暗闇で、大人たちが「またビー公だ」とささやきあっていたのを思い出す。低くこもったエンジンの唸りは幻聴かもしれないが…

B-29の米軍の通称は「超空の要塞」(Superfortress)で、当時の航空機の常識を一挙に超える巨躯と性能を備え、弾倉に9トンの爆弾を抱き、高射砲が届かない成層圏を、戦闘機が追い付けない速度で飛行した。当時の爆撃機は与圧がなく、搭乗員は防寒服を着て酸素マスクを着用したが、B-29は今の旅客機のように与圧・空調され、搭乗員は半袖シャツ姿だった。撃墜されたB-29の搭乗員を見た日本人が「敵は飛行士の防寒服にもこと欠くほど困窮している」と思い込んだという辛い逸話が残っている。

B-29を同時期の日米の爆撃機と比較してみた(四式は旧日本陸軍の爆撃機)。米軍の爆撃機がB-24からB-29へ2年で飛躍的に大型化・性能向上したことに加え、終戦までの2年間に巨人機を4千機生産した産業力にも驚く。旧日本陸軍は大型渡洋爆撃機を重視しなかったので、機体の日米比較は無意味かもしれないが、こんな飛行機を量産していた国を、竹ヤリで追い払おうとした国力の差が胸に迫る。(日本軍も戦争末期に米国本土を空爆する超大型爆撃機「富嶽」(ふがく)を計画したが、設計に着手する前に敗戦になった)。

爆撃機 初飛行 生産機数 全長 全幅 エンジン 全備重量 最高速度 上昇限度 航続距離
B24 1940/8 18,431機 20.2m 33.5m 1200㏋×4 26t 475Km/h 8,530m 3,380Km
B29 1942/9 3,970機 31.2m 43.0m 2500㏋×4 45t 644Km/h 12,375m 4,864Km
四式 1942/12 635機 18.7m 22.5m 1900㏋×2 13.8t 537Km/h 9,470m 3,800Km
データは Wikipedia から

19世紀までの戦争は、両軍の将兵が戦場で直接会戦して勝敗を決した。だが第一次大戦以降、戦争の様相は一変した。敵の戦闘部隊を敗走させるに留まらず、敵国が戦争継続能力を喪失するまで叩きのめす「総力戦」になったのだ。そうなれば「国力」のある大国が圧倒的に強いことは言うまでもない。

日米開戦時の米国と日本の「国力」は10:1だったと、どこかで読んだ記憶がある。「国力」を何で計るかにも拠るが、仮にGDP(国内総生産)を指標にすれば、そのくらいの差はあっただろう。日本はそれを自覚し、大陸を侵攻する一方で、「大東亜共栄圏」(八紘一宇)を唱えてアジアを丸ごと囲い込もうとしたが、軍部主導では言葉でどう飾っても侵略は侵略で、侵略者の独善を本気で歓迎する民族はない(日本を利用して英仏から独立しようと行動したリーダーはいたが)。

下は「国力」と「軍事費」の比較用に作った表で、データは CIAの The World Factbook から採集した。最新データの大半は2020年だが、一部に2018年が最新のデータも混じり(北朝鮮は2007年が最新)、統計的に整合していない。ラフに各国の特徴を掴むための参考資料としてご覧いただきたい。

  人口
(千人)
内15~54歳
生産年齢人口
(対人口%)
GDP
(購買力)
(10憶ドル)
一人当り
GDP
(ドル)
税収
(10憶ドル)
(対GPDP)
軍事費
/GDP
軍事費
(百万ドル)
軍事費
/税収
兵員
(千人)
生産年齢人口
千人当り
兵員数
中国 1,410,540 822,204
(58.3%)
23,009 16,400 2,553
(11.1%)
1.7% 391,135 15.3% 2,000 2.4人
米国 337,342 174,400
(51.7%)
19,847 60,200 3,315
(16.7%)
3.7% 743,339 22.1% 1,390 8.0人
日本 124,215 57,474
(46.3%)
5,225 41,400 1,714
(27.1%)
1.0% 52,250 3.0% 244 4.2人
ドイツ 84,317 40,800
(48.3%)
4,239 50,900 1,665
(39.3%)
1.5% 63,585 3.8% 194 4.8人
台湾 23,580 13,471
(57.1%)
1,143 24,502 92
(8.0%)
2.1% 23,730 25.9% 170

12.6人

韓国 51,845 28,815
(55.6%)
2,188 42,300 357
(16.3%)
2.6% 56,888 15.9% 555

19.3人

ロシア 124,022 65,632
(52.9%)
3,914 26,500 259
(6.6%)
4.0% 156,560 60.0% 850 13.0人
ウクライナ 43,528 23,044
(52.9%)
517 12,400 30
(5.8%)
4.0% 20,680 69.4% 200 8.7人
北朝鮮 25,955 15,080
(58.2%)
40 1,700 3.2
(8%)
23% 9,200 288% 1,150 44.3人
注)生産年齢人口は人口構成の15才~24才+25才~54才の人口比率から算出。税収=Budged revenue。 軍事費は対GDPの%値から算出。

中国はGDPで米国を抜いて世界1位になり、日本の10倍を超える日も遠くないだろう。軍備も「米国に追いつき追い越せ」の筈だが、軍事費のGDP比は意外に抑制的で、兵員数は既に世界一だが人口比に余裕があり、軍備も兵員も更に大幅拡大の余地がある。そんな国と「総力戦」になったら米国でも勝てないかもしれず、仮に日本が軍事費を倍増したところで、中国から見れば大同小異で、口では牽制しても痛痒を覚えないのではないか。

東西冷戦の時代、米・ソは激しく対立した(その後のソ連崩壊で、ロシアの人口・経済規模は旧ソ連の半分になった)。21世紀前半は米・中対立の時代といわれるが、米・ソの関係とは異なる。米・ソは人的、経済的な接点がなく「敵という関係」しかなかったが、米・中は、中国の最大の輸出相手国が米国(17%)、米国の最大の輸入相手国も中国(18%)で、中国の対米投資は1千億ドルを超える(米国の対中投資のデータが見つからないが相当額だろう)。加えて米国人口の約5%が中国系で、米国に留学して高等教育を受けた中国エリートも多い。よそよそしく振舞っても、内実は「離れられない間柄」ではないか。

「台湾有事」と言うが、「台湾」という国はない。50年前に「一つの中国」と言い出したのは米国と日本で、その結果台湾は中国の一部と公認され、台湾の処遇は中国の国内問題になった。仮に中国が台湾を侵攻すれば、台湾は独立の「内戦」に立ち上がるかもしれないが、米国は中国の内戦に武力介入するだろうか? 1964年にベトナムのトンキン湾で起きたように、挑発で軍事衝突が起きないとは言えないが、米中間に「抑止力が働く」という見解をここでは排除しない。

その前に、中国と台湾の関係を見る必要がある。中国の最大の交易相手は台湾で(輸入26%、輸出21%)、中国の産業に台湾人が深く食い込んでいる(20年前、中国に出張してその事実を知った)。両者は言語も同じ「身内」で、中国が武力行使を仄めかすのは政治的ジェスチャーと解すべきだろう。英国から返還された香港は「中国化」を急ぐ事情があり、国際世論を無視して完全コントロール下に収めた。台湾は人口と経済規模が香港の3倍あり、社会の成り立ちも複雑で、中国化を急げば台湾全体が機能停止し、「角を矯めて牛を殺す」ことになる。お互いにこれまで通り「うまくやっていく」のが最適解で、台湾も中国も内心は「自由主義者の余計なお節介」が迷惑に違いない(チベットでチベット人にそうつぶやかれた)。

尖閣諸島に中国も領有権を主張しているが、軍事衝突を前提に強行突入するとは考え難い。要は日本が防衛の意思を明確に示し続けることで、自衛艦と哨戒機による常時警戒とスクランブルしか手はないだろうが、それは今もやっていることで、防衛費倍増の理由にならない。尖閣には1940年頃まで日本人が居住していたという。住居跡を修復しておけば中国の主張を封じ込められた筈だが、居住権放棄のまま時が過ぎた。具体的な事実で示さねば何も主張していないのと同じ、という国際法のルールに鑑み、元居住者の相続権者が住居跡に標識を立てたらどうなるか。中国は猛反発するだろうが、軍隊を出して引き抜くだろうか?

ロシアのウクライナ侵攻も防衛費倍増の理由になっている。確かにロシアが周辺国(ジョージア、アルメニアを含め)で行っている行為は言語道断だが、ロシアのモチベーションは旧ソ連時代のロシア領の奪還で、小刻みに削り取る以上の「国力」がロシアに残っていると思えない。今にも日本に攻め込んでくるかのような仮想にとらわれず、従来の防衛体制で足りるのではないか。

北朝鮮のミサイル発射や核実験は近所迷惑だが、朝鮮戦争は1953年に休戦したままで、北朝鮮は今も米国と戦争状態にある。実力の差は分かっていても、腰が引ければ体制崩壊を招き、専制君主の威厳を保つために精一杯の虚勢を張るしかない。だが最貧国の強がりには限度がある。米国は適当にあしらいながら「敵」の消耗・自己崩壊を待っているのだろう。北朝鮮のミサイルが日本を飛び越えても、日本が君主の眼中にあるわけではなく、過剰な反応は君主の気まぐれを刺激するだけだろう。窮鼠が何を噛むか予断を許さないが、日本が「集団的自衛権」で他人の戦争に巻き込まれることだけはやめてほしい。

以上縷々述べたように、政府が言う「安全保障環境の変化」は多分に気分的で、国民の不安を煽って「求心力」を醸すスローガンに聞こえる。仮に防衛費を倍増しても、その殆どが米国製武器の調達に充てられるのでは、この国の基盤強化にならない。同盟国としての義務だと言うのなら、米国が日本の為に血を流すか、冷静に考えてみる必要がある。在日米軍は「米国を守る」のが任務で、米軍基地を攻撃されたら応戦するだろうが、仮に尖閣諸島で紛争が起きたら、直ちに現場に駆け付け、米国本土を危険にさらすのを覚悟で、日本のために戦闘するだろうか? 軍事同盟は強者側のその時の都合次第というのが歴史の示すところで、「集団的自衛権」は日本の「片思い」のように思えてならない。

資源なく、食糧を1/3しか自給できず、産業も国民も老朽化した国を、わざわざ乗っ取りに来る酔狂な国はないと、小生は楽観しているが、無法者に対する正当防衛(自衛権)は認める。自衛隊の戦力は世界5位(米、ロ、中、印、日)と言われ( 2022 Military Strength Ranking )、「専守防衛」の国として最強レベルの防衛力を備えていると自覚してよい筈だ。余分な戦力を持てば、外で使いたくなり、敵が増え、軍事国家化が止まらなくなる。せっかくこれまで戦争に手を染めずにきたのだから、非武装・軽武装の国々と連帯し、軍事国家の無謀を許さない外交を強める方が、よほど国の守りになる筈だ。アマイと言う人もいるだろうが、軍事力が問題解決に役立たないことは、日本が大戦で体験し、大戦後の米国が、朝鮮、ベトナム、アフガニスタン、イラク、シリアで泥沼にはまったことからも分かる筈だ。

仮想の脅威を言い立てて軍事国家の道を歩むより、老朽化が進むこの国を若返らせることが先ではないか。若者が安定した収入を得て健全な家庭を築くこと、粗末な老人ホームと簡易葬祭場ばかり増える街ではなく、十分な保育所・学校と子供ひろばがある街を作ること、学問を大切にして優秀な研究者が活躍する場を作ること、農業を魅力的な仕事にして食料自給率を上げることなど、カネのかかることばかりだが、この種の負担であれば国民が納得することは、北欧の国々が実証済みである。


8月7日 花の百名山、高峰山(標高2106m)

お盆の交通ラッシュ前に出かけたい。梅雨が明けて夏の安定した天気になる時期だが、予報がネコの目のように変わる(本当に今年の天候はどうかしている)。高い山で雨に遭ったら鬱陶しいだけでなく危険なので、代替プランも考えておかねばならない。天気予報を睨み、当初の予定を1日繰り上げて7日朝に家をでた。幸い3本目の電話で当夜の宿を確保できた。

標高3千mの乗鞍岳に登る前に、高度順応をしておきたい(標高3千mの気圧は平地の70%)。行く途中にうってつけの山がある。浅間連峰の高峰山(2106m、気圧は平地の78%)で、小諸からチェリーパークラインで車坂峠(1970m)まで車で登り、峠から山頂まで緩やかな坂(標高差130m)を1時間歩けば山頂に着く。高峰山は作家田中澄江が選んだ「花の百名山」でもある。高山植物のハイシーズンは過ぎたが、まだ会える花がある筈だ。

車坂峠は25年前の1997年11月に訪れている。日本百名山を始めた頃で、当時は浅間山(2568m)が噴火活動で登山禁止になり、外輪山の黒斑山(2404m)で「みなし登頂」と公認(?)されていたので、峠に車を置いて黒斑山を往復した。(浅間山は噴火がおさまった2012年に登り直した。)

小諸から峠まで出会う車もなく、山はさぞ閑散だろうと想像していたが、峠のビジターセンターの駐車場は満杯。峠の周辺に高山植物の群落があり、高峰山まで足を伸ばさない「お花畑トレッカー」が多いようだ。

峠のホテル裏の登山道入り口。高峰山は信仰登山の山でもある
雲の切れ間から1000m下の小諸が見えた
花の百名山の高峰山を代表するヒメシャジン
ミヤマカラマツ
ウスユキソウ(エーデルワイス)
気の早いナナカマド
黒斑の山頂は雲の中
高峰山の最高点はこの巨岩か?
巨岩の先の高峯神社。山岳信仰の祖「役小角(えんのおづぬ)」の開山と伝えられる
山頂の標識は巨岩より少し低そうに見える
蝶はアザミが好きらしい

登山道周辺の花を撮ったが、名前はいつものようにイイカゲンです。

オヤマリンドウ
シモツケソウ(ちょっとピンボケ)
シャジクソウ?
マツムシソウ
ツリガネニンジン?
ジャコウソウ
タケブキ

峠のレストランで軽いランチを済ませて山を下り、一般道を走って高速料金を浮かし、午後5時前に乗鞍高原の宿に到着。予約の抑制や入浴人数の管理、食事時間の分散や消毒など、宿は依然としてコロナ対策に苦慮している。立山の室堂では高級ホテルから山小屋まで、従業員のコロナ感染で休業を余儀なくされているらしい。今のところインバウンド(外国客)はほぼゼロだが、ゆるめたら沖縄の状況が全国の観光地で起きるだろう。コロナのリタイアは近い筈で、今しばらくしっかり防ぎ続けるしかない。


8月8日 乗鞍岳(3026m)登頂 

我々の乗鞍岳へのアプローチは岐阜県側のスカイラインではなく、長野県側のエコーラインを使う。昭和38年(1963年)に開通した観光道路で、麓の乗鞍高原(標高1450m)から畳平に通じている。

2001年8月に百名山で乗鞍岳に登った時もエコーラインだった。当時は自分の車で畳平まで行けたが、渋滞で2Km手前の大雪渓の下に路上駐車して山頂を往復した(山頂へのショートカットにもなったが)。翌年の2002年から自家用車の通行が通年で規制され、乗鞍高原の観光センターに車を置いてシャトルバスを利用する。ハイシーズンは朝7時から毎時1本のダイヤだが(乗車人数により数台で運航)、雨天の日は間引きダイヤになる。幸いこの日は晴れダイヤだったが、山頂を覆う雲はどいてくれそうもない。

乗鞍高原を朝8時のバスで出発。エコーライン上部は「羊腸の小径」で、大型バスが熟練運転手の神ワザに身をよじって登る。下りのバスと無線連絡をとりながらのすれ違い待機もあるが、ダイヤどおり55分で畳平に到着。標高は富士山の7合目に相当するが、幸い高度障害は出ていない。

畳平の陸軍実験施設は、戦後に国鉄(→JR東海)に移管され、宿泊施設として使われていたが、老朽化して2007年に解体・撤去された。現在の畳平は大駐車場をスターミナル、乗鞍本宮社殿と旅館がとり囲んでいる。

8:55 畳平着。この後岐阜側のバスも到着して賑う。正面左は乗鞍神社本殿
バス乗場に標高2702mの表示
9:20 畳平からトレッキング開始
登山道両側のお花畑を楽しみながら登る
チングルマの綿毛
ミヤマトウキ?(ハイマツには花が咲かない)

畳平から高山植物に囲まれた遊歩道を20分歩くと未舗装の車道に出る。乗鞍岳山頂に向かう途中に自然科学研究機構の乗鞍観測所(旧コロナ観測所)と東京大学の宇宙線観測所があり、補給用の車道を登山者も歩くことになる。20分で車道終点の肩の小屋に着いて小休止、ここから山頂に向けて本格的な登山が始まる。

9:40 ここから肩の小屋まで車道歩き。ピークが最高点の剣ヶ峰
不消池、夏でも水が絶えないという意味?
雲の下にコーラインが見える
イワギキョウ
道路近くの礫地にコマクサの群落
10:00 肩の小屋。摩利支天に旧コロナ(太陽炎)観測所
10:25 朝日岳の肩を登る
高山の花が慰めてくれる
登山道は石ゴロだが、よく整備されている
コマクサはこんな場所にしか育たない
11:06 蚕王岳の肩で小休止。ここから剣ヶ峰へ最後の登り
山頂直下に火口湖の権現池
眼下に乗鞍高原の集落
11:30 山頂到着、先ずは祠に一礼
祠と背中あわせの社殿に若い神職が詰めている
順番待ちの記念撮影に二人で納まり、11:40下山開始
下山途中で大雪渓を覗き込む。サマースキーヤーが数名
雲が低くなってきた。畳平まであと10分

13:20 畳平に帰着。登山地図に示された標準時間(40代男性、軽荷物、休憩含まず)は、登り90分、下り75分。我々は息が切れないように意識的にゆっくり歩き、登りに実働110分、下りに90分を要した。人工関節入りの傘寿ペアにしては上出来と自己満足した次第。


8月9日 乗鞍高原 朝の散歩

8日の宿は乗鞍高原休暇村を事前に予約してあった。旧厚生省が1961年から整備した国民休暇村を民営化して改築したのだろうが、手頃で気分のよい施設だ。中級のホテルでは夕食もビュッフェスタイルが増えたが、ハラの好き具合や好き嫌いに関係なくこまごました料理が運ばれてくるより、マスクとポリ手袋を着けて列に並ぶのが多少面倒でも、気に入った料理を好きなだけ食べる方が楽しい。キッチンは需要予測が大変だろうが、人手だけでなくフードロスも減らせる筈だ。

出発の朝、宿周辺の遊歩道に「朝めし前」の散歩に出かける。1周10分の牛留池ではもの足りず、「善五郎滝」まで足を伸ばした。滝が近くになって下り坂が急になり、その分帰りの登りがキツかったが、1時間の早朝トレッキングに気持ちのよい汗をかき、ビュッフェ朝食で「空腹は最上のソースなり」(と言ったのはソクラテスだそうな)を実感。

牛留池の水かがみ、岸辺の水草が少々邪魔に…
乗鞍山頂は今日も雲が覆う
ミズバショウも、こうなると可愛くない
奇妙にねじれた松の幹。どうしてこうなったのか?
タマアジサイ
善五郎の滝

そんなわけで、7月の白馬山麓の「ちょこっと山歩き」に続き、3千m峰の乗鞍岳で「もうちょっと山歩き」も無事に終えた。山頂が雲の中で展望が得られなかったのは残念だが、山はいつも快晴とは限らず、次回を期すしかない。それより、高度障害も筋肉痛も起きなかったことが嬉しく、今回の結論は「まだまだ大丈夫」。

畳平行きのバス時刻を調べていて、旧陸軍の高所実験所のことを思い出し、その延長で旅の帰途に「無言館」(上田市)の見学を思い立った。大戦時の学徒出陣で若い命を散らせた画学生の遺作を集めた美術館だが、行ってみると火曜が休館日。これも次回を期すことにする。

今回の「山歩きレポート」も脱線したが、「乗鞍・B-29・安全保障」の三題噺でお読みいただければ嬉しい。