地方紙に「旅行家の~」と紹介されたこともある小生だが、訪れた国は50ヵ国に届かず、国内にも行きそびれた名所があちこちにある。離島は北端の礼文島、南端の波照間島、最遠の南硫黄島(上陸は不可)、日本海の島は佐渡・壱岐・対馬は訪れたが、隠岐が未だだった。特異な地形と貴族の流刑地という歴史を持つ隠岐に興味はあったが、ポピュラーな観光地ではない。手配の面倒と不安が先に立ち、行かずじまいになりそうだったが、昨秋ポーランドの旅でお世話になった添乗員から隠岐の山歩きツアーの誘いがあった。4泊5日の日程と料金は近場の海外ツアー並みだったが、渡りに舟で参加を決めた。

隠岐は島後(どうご)と島前(どうぜん)の180余りの島々から成り(有人は4島)、行政上は島根県隠岐郡の4つの町村で構成される。人口は全島で1万9千で、7割の1万3千が島後の隠岐の島町に集中している。島前の有人島は中ノ島、西ノ島、知夫里島の3島で、中ノ島、西ノ島に夫々2千5百人、知夫里島に6百人が暮らす。ご多分に漏れず過疎化が進んでいるが、移住して島興しに励む若者も少なくないらしい。そんな好青年の一人が島前で現地ガイドを務めてくれた。

隠岐はユネスコのジオパークに認定され、空港も「隠岐世界ジオパーク空港」を名乗る。ジオパークは地球の成り立ちを知る上で注目すべき地質や地形が顕著な場所で、その保護と持続可能な開発が義務付けられている。小生は「文系」だが「地学」が得意科目で、65年前の入試で点を稼ぎ、今も「ブラタモリ」の地質・地形の話に引き込まれる。

隠岐の島々は約600万年前の火山活動で生まれた。島後は粘りの強い流紋岩質の火山島でガラス質の黒曜石を産する。島前は元は一つの大きな火山だったが、大噴火で火口が陥没して巨大なカルデラが生じ、更に550万年前の噴火で中央火口丘の「焼火山」(452m)が出来た。1万年前に始まった間氷期の海面上昇(約100m)でカルデラが水没し、現在の多島地形になった。壮大なジオ・ストーリー(地球物語)だが、46億年の地球の歴史では「つい最近のローカルな出来事」だ。


第1日目(3月4日) 羽田→伊丹→隠岐  波乱含みの初日

朝8時半に羽田に集合すると、添乗員があいさつもそこそこに電話をかけまくっていた。数日前から強い低気圧が襲来し、日本海側の風雨が収まっていなかった。旅程では初日は羽田から伊丹経由で隠岐に飛び、空港のある島後からフェリーで島前の中ノ島に渡って宿泊の予定だったが、島間を結ぶフェリーが2日前から欠航、この日も欠航が決まっていた。JALも隠岐に着陸できなければ伊丹に引き返すというが、ベテラン添乗員はビビらない。天候は回復基調なので予定どおり出発し、状況に応じて臨機応変に旅程を組み替えるので、任せてくれという。

幸い飛行機はほぼ予定通り飛び、隠岐着陸時に風にあおられてヒヤッとしたが、先ずは無事に隠岐に着いた。宿泊地を島後に変更したので、夕方まで近場の名所を巡ることになったが、バスから出るのをためらう程の雨に降られた。


都万漁港の舟小屋。舟を船食虫から守るために陸に引き揚げて覆いのある小屋に入れる。干満差の小さい日本海ならではの風物だが、強い雨でバスを降りなかった。


那久岬は島前を望む景勝地だが、この天気では…

島後の代替ホテル探しに苦労したらしいが、おかげで新築ビジネスホテルと割烹料理屋の夕食を楽しむことが出来た。


第2日目(3月5日) 島前 西ノ島 断崖歩き・伝説の山歩き

予報どおり風雨が止んでフェリーが運行再開。8:30発に乗船し、1時間少々で島前(どうぜん)の西ノ島に渡る。以降の旅程は当初計画どおり進行可能になり、この日は西ノ島の「摩天崖」と「焼火山」(たくひやま)を歩く。

8:30 島後を出港。湾の出口で高速船とすれ違う。
11:10 西ノ島別府湊からマイクロバスで摩天崖の最上部へ。
摩天崖の最上部からの眺め。
第二次大戦時に日本軍が設けた監視所があった。
11:16 海岸まで標高差257mの遊歩道を下る。
ここは馬と牛の放牧場でもある。
11:45 摩天崖の全貌を望める場所から。
上と同じ場所から下を覘く。
12:00 通天橋まで下る。
12:08 海岸のゴミは打ち上げられた漁具。
12:15 「天上界」と名がついた海岸で昼のお弁当。

昼食を済ませてマイクロバスで焼火山へ。標高200mの駐車場から登り始めると雨が降り出し、雨具を着て標高452mの山頂に至る。樹木が伸びて展望は限られるが、平安の頃から海路の守り神として崇められてきた場所だけに、霊気が漂うような気がする。

山頂から焼火神社(たくひじんじゃ)に下り、社務所で宮司さんから神社の謂われを伺ったが、遺憾ながら補聴器を持参せず、穏やかな口調の解説を聞き取れなかった。旅にあたって入手した「隠岐島の伝説」(野津 龍著)によれば、第66代の一条天皇(在位986-1011)の世、夜になると海上に燃えさかる火が現れ、数日続いた後に山の中腹に飛んだ。村人がこれを追って山中に分け入ると、仏像の姿をした岩が立っていた。村人はこれを尊んで「焼火山雲上寺」を建てて崇め、深夜に漂流した漁師や船乗りが祈願すると、三筋の光を発して救ってくれたという。この伝承は今も生きていて、フェリーを運航する隠岐海運が三筋光をロゴのデザインに用い、焼火山の沖を通過する度に汽笛を鳴らして航海の安全を祈っている。

島前は江戸時代に北前船の風待ち港になり雲上寺も栄えたが、明治の廃仏棄釈で「焼火神社」に衣替えした。今も旧正月に各集落から人々が集まってお籠りする「はつまいり」が伝承され、大勢の村人が宿泊できるように大きな社務所が維持されいる。

13:15 駐車場の広場が登り口。
13:25 翌日に登る地夫里島の赤ハゲ山が見えた。
14:25 山頂付近からの眺め。やぶが伸びて展望は限られる。
15:10 社務所で宮司さんから焼火山の謂われを伺う。
15:25 焼火神社に参拝。
16:35 島前を巡回する小型フェリーで中ノ島の宿舎へ

第3日目(3月6日) 知夫里島(ちぶりじま) 不覚にも赤ハゲ山でダウン!

この日は知夫里島に渡って「赤ハゲ山」(324m)に登る。山名は多少ダサいが(木が生えない裸山に遠慮のない命名)、添乗員氏によれば、山頂からの島前カルデラの眺めは「日本離れした風景」で、今回の隠岐山歩きツアーのハイライトという。

港から海沿いの車道を西へ1時間歩き、内海(うるみ)集落の集会所で小休止。姫宮神社に参詣して山道にかかる。

8:30 内航船で知夫里島に渡る。
9:40 港近くの展望台から前日に登った焼火山を望む。
10:20 路傍の疫病や災難を避ける護符は古海(うるみ)地区の伝承。
10:45 古海集落の姫宮神社。
境内の芝居小屋は集落の文化レベルの高さを表わす。
11:20 赤ハゲ山の山頂が見えた(正面中央の小屋)。

山道といっても舗装された車道で、山頂までの標高差324mは高尾山よりラクチン登山の筈だが、姫宮神社から1時間歩いて標高200mを過ぎた辺りでペースが落ち、先頭集団が見えなくなった。標高250mで足が前に進まなくなり、路傍にへたり込んでいると、添乗員が戻ってきて荷物を持ってくれた。尺取り虫の如くちょっと登って休み、また休み、半死半生で山頂の休憩所の床に倒れ込んだ。

5分ほど横になると呼吸が整い、昼食の弁当を半分食べて生気が戻り、カルデラの雄大な眺めて撮るまでに回復した。旅の前に高血圧の薬を替えた副作用かもしれないが、3年前(2022年8月)に筑波山で同じ症状が出たのを思い出した(「へろへろ山歩き 筑波山」 2022/9)。もっと楽な山道でダウンしたのだから「老化亢進」が正解だろう。

12:30 山頂直下で路傍にへたりこんでいると、タヌキが見舞いに来てくれた。
12:45 山頂の休憩所にたどり着き、床に転がって生気が戻るのを待つ。
13:15 正常に戻り、出発まで島前カルデラの雄大な眺めを楽しむ。カルデラの大パノラマは広角レンズでも画面に収まらない。
西側の眺め。韓国と領有権を争う竹島はこの方角とか。

赤ハゲ山から「赤壁」に向かう。西海岸の断崖に溶岩流が露出した箇所で、ジオパーク認定の要所になった。当初は赤ハゲ山から崖まで歩いて下る予定だったが、急斜面の草原が雨に濡れて滑りやすく、転倒すると崖縁まで止まらないかもしれず、安全第一でバスが山頂まで来てくれた(疲労困憊の小生にはありがたい変更)。

赤壁の駐車場から展望台までの遊歩道で急に腰に痛みが生じ、ストックにすがってやっと歩く。宿に帰った時は立っていることさえ耐えられなかったが、これも前年ポーランド・スロバキアの旅で経験した症状で、「老化による筋肉疲労」と診断された。骨と神経に異常がないとすれば、鎮痛消炎剤とシップで回復を図るしかない。

加齢による生体機能と骨格筋力の低下について、「納得!」のデータを「へろへろ山歩き 筑波山」で紹介したが、慙愧の念を込めて再掲載する(右のアイコン画面をクリック → 拡大)。




第4日目 (3月7日) 中ノ島 貴人流刑の跡を訪ねる

朝起きると歩ける状態に戻っていた(まだ回復力はあるらしい)。この日は中ノ島に残る流刑者の史跡を巡る。小生は歴史が不得意科目で、日本史をスルーしたことを今になって後悔しているが、隠岐に貴人が流されたことは知っていた。隠岐が貴人の流刑地として利用されたのは、離島で且つ周囲が断崖で舟をつけられる浜が限られて脱出が困難な一方、山の幸・海の幸に恵まれて拓かれた田畑もあり、非生産階級の貴族と付き人を養うことが可能だったためといわれる。

隠岐の流人といえば、承久の乱に敗れて1221年に流された「後鳥羽上皇」が有名だが、それ以前にも大津皇子の謀反に加担した柿本人麻呂の子息柿本躬都良(みつら)が686年に、遣副使の役を断った小野篁(おののたかむら)が838年に、略奪の罪に問われた八幡太郎義家の次男源義親が1101年に、政争に巻き込まれた文覚上人(もんがくしょうにん)が1200年に流されている。それ以降も1332年に元弘の乱に敗れて流された後醍醐天皇など、歴史オンチでも聞いたことのある貴人の名が連なる。

公衆トイレに「御筥処」(おはこどころ)の看板。貴人の島で宮中語が生き残る。
野仏は神仏混淆。
小野篁が都帰還を願って百日参詣したという金光寺山
金光寺山からの眺め。田や畑の耕作地も見える。
移住者の自然体験NPO(現地ガイドが所属)はユニークな保育所も併設。

流刑者の多くは数年で刑を許されて都に戻り、中には後醍醐天皇のように脱獄(?)に成功した剛の者もいたが、後鳥羽上皇はこの島に19年蟄居して生涯を終えた。「隠岐の伝説」収録の伝承に拠れば、運命を受け止めて穏やかに暮らした上皇に、住民が深い同情を寄せていたことがうかがわれる。

後鳥羽上皇行在所跡の入口
案内看板
上皇が火葬された跡とされる塚。
行在所だった源福寺跡。
侘び住まいの様子を描いた絵図。
行在所の池に大正天皇御手植えの樹。
源福寺に隣接する隠岐神社は後鳥羽上皇700年祭の1939年に建立。
隠岐神社の狛犬
8月に行われるキンニャモニャ祭で町民が持って踊る「しゃもじ」が海士(あま)町のシンボル。
生ガキの養殖は隠岐が元祖とか。菱浦港でフェリーを待つ間、生ガキを楽しむ(美味かった!)。生ガキがダメな人のために添乗員とガイドでバタ焼きを供した。

午後のフェリーで島後に移動、隠岐の島町中心部の玉若酢神社を訪れる。隠岐國全ての神々をまとめて祀る「総社」で、国司はここに参詣することで全ての神社に敬意を評したことにしたという。祭政一致の時代にも行政効率化が必要だったらしい。

玉若酢神社の宮司が住む億岐家住宅は重要文化財。億岐家は大国主命の末裔とか。
億岐家宝物殿に収納された駅鈴は国司の身分証明具。
玉若酢神社の随神門(1852年建立)も重要文化財。
門に倒れかかりそうな八百杉(やおすぎ)は樹齢2千年と言われる。
1793年建立の本殿は隠岐独特の建築様式の隠岐造り。
島後・隠岐島町の宿舎。

第5日目 (3月8日) 島後の名所・隠岐古典相撲 → 帰宅

ツアー最終日は昼まで島後北部の観光地を巡る。最後に訪れた水若酢神社の前に相撲土俵があった。隠岐は古典相撲の地として知られる。始まりは江戸時代初期に水若酢神社の社殿改築の祝い行事として行われ、その後島内の祝い事があった時に開催されてきた。高度経済成長の時代に若者が島外流出して開催できなくなっていたが、1972年に水若酢神社の鳥居が再建されたのを機に、島出身の実業家 横地治男氏が再開を呼びかけ、同年11月に古典相撲大会が再開された。以降大きな祝い事がある度に開催され、近年では2012年に新隠岐病院の開院祝賀、2024年に町政20周年・新庁舎竣工祝賀で行われた。

隠岐古典相撲は「勝敗」を競わない。祝い事がある地域が「座元」、他の地域が「寄方」になって東西の力士を出す。力士は体格に加えて地域貢献度や人柄で選ばれ、その中から役力士(大関)が指名される。取組は夫々2番行われ、最初に勝った力士は次の1番で勝ちを譲り、1勝1敗で遺恨を残さない。行事は数日に及び、終わると「座元」の役力士に土俵の柱を与え、力士はそれを自宅の軒に吊り飾って家の名誉にする(近年は土俵の柱を外さず代替の柱を与えているという)。

根元から6本の幹に分かれた「かぶら杉」は樹齢600年とか。
かぶら杉の横にゲゲゲの鬼太郎。島根は漫画家水木しげるの地元なのだ。
五箇集落の水若酢神社。
古典相撲の土俵。
本殿は1795年に建造の重要文化財。
茅葺屋根葺き替えの際に交換された端木(正式な呼び名を知らない)

水若酢神社に隣接する隠岐文化伝承施設「五箇創生館」の喫茶室で地元産の蕎麦をいただいて、今回の隠岐ツアーを終えた。

不便な離島だけにインバウンド旅行者の喧噪もなく、「日本離れした景色」と独特の歴史・文化にじっくり浸る旅だった。自身の体力低下を改めて思い知る旅でもあったが、これからも行ける場所を選んで旅を楽しみたいと思う。